2014年12月23日 23:25
邪馬台国九州説の地
吉野ヶ里遺跡に行ってきた
11月初旬に3泊4日で「佐賀インターナショナルバルーンフェスタ」に行ってきたのですが、雨の日は残念ながら気球は上がりません。そんな日に会場の近くにある吉野ヶ里遺跡に行ってきました。

バルーンフェスタは微速度撮影をするために行ったのですが、作品をつくる時間がなくてまだできておりません。忘れた頃にYoutubeにアップするかも。
さて、

これは、平成元年(1989)に、国内最大規模の環濠集落の発掘が大々的にニュースになったときの記事です。当時はまったく興味がなかったんですけど、あれから約25年。現在ではビックリするくらい整備が進みとても素敵な場所に変わっていました。

まずはカシミール3Dで現地を見てみましょう。吉野ヶ里遺跡は南北に細長く延びる丘陵地にあり、南側一帯は低地(佐賀平野)が広がっています。その先は有明海です。

吉野ヶ里遺跡は濠(ほり)で囲まれた環濠集落で、その内部はさらにいくつかの区域に分かれています。祭りや政治が行われていた「北内郭」、首長など身分の高い人々の住居エリアであった「南内郭」、倉庫群や市が行こなわれた「倉と市」、歴代の王が埋葬された「北墳丘墓」などです。さらに一般住民の住居がある「中のムラ」「南のムラ」があります。

向こうに見えるのが、一番大きな建物である主祭殿です。

周囲はこのような濠(ほり)で囲まれています。

濠を掘った土で外側に土塁をつくり木の柵を設けていました。

ここでは左の斜面に木が突き刺さっていますね。

これは「逆茂木(さかもぎ)」というバリケードです。

立派な物見櫓ですね。

ここは身分の高い人々の住居エリアであった「南内郭」です。

物見櫓が4つもあって、中央には広場があります。

手前の建物は、共同で煮炊きを行うための建物だそうで、どうやら各住居には煮炊きをした痕跡がないようです。

向こうの住居群は一般の人達が暮らす「南のムラ」です。

手前は王の住居。

柵の向こうは倉庫が並ぶ「倉と市」。

山が霞んで見えにくいですが、二上山の様な山が見えますね。日の隈山でしょうか。

ここが王の住居です。

中はこのような状態。調理をするような場所はなさそうですね。

「北内郭」は少し離れた場所にあります。

それにしても大きな建物だ。

これは「北内郭」の発掘当時の状況です。当時と同じ場所に建物などが復元されています。

「北内郭」エリアの配置です。主祭殿と北墳丘墓を結んだ直線上に立柱と祀堂があるように見えますね

主祭殿です。でかいです。柱を16本使用した高床建物で、内側にある柱で床を支える構造になっていて、柱の配置や平面形態から楼閣のような建物だったと考えられています。

2階のフロアです。中央にいるのが王。

ここでクニの重要な事柄を決めていたのでしょう。

3階です。ここでは、巫女が祀り事をしていました。巫女が祈っている方角に北墳丘墓があります。

3階からの眺めです。向こうに墳丘墓が見えます。

左側には、最初に立ち寄った「南内郭」が見えます。

墳丘墓の前に立柱と祀堂、そして墓道があります。

地図には描かれていなかったのですが、祀堂の前にボロボコとした場所がありました。

ここは甕棺墓列(かめかんぼれつ)といって、甕(かめ)の棺おけが埋葬されている場所です。吉野ヶ里の丘全体で15,000基を超える数の甕棺が埋められていると考えらているそうです。

祀堂と立柱です。祀堂は歴代の王の祖霊を祈る建物、柱は霊が宿る柱として信仰の対象になっていたのでしょう。

墓道です。北墳丘墓にお参りするための道で、環濠の外まで延びているので、周辺集落の人々もお参りしていたのかもしれません。

北墳丘墓から主祭殿を見たところ。

北墳丘墓の内部は、このように発掘された状態で保存されています。

この墳丘墓から14基の甕棺が発掘され、その多くから銅剣や管玉が発見されています。

紀元前2世紀〜紀元1世紀頃に築かれたものです。

このような状態で埋葬されたようです。

主祭殿と北墳丘墓を結ぶ南北の聖なる軸線。

ここは弥生時代の水田を再現している場所です。畦で仕切られた一枚一枚は小規模ですが、今と大きく変わっていないことに驚きます。他の場所の水田遺構を参考にしているそうです。
遺跡の規模も凄いのですが、これらを復元したパワーに驚かされます。私は関西に住んでいるので邪馬台国畿内説を信じたいのですが、吉野ケ里遺跡は必見。とても素晴らしい遺跡を見ることができました。雨が振ってくれてよかった… ^ ^;
つい先日、邪馬台国畿内説の有力地である纒向遺跡周辺の古墳巡りをしてきましたので、関連記事をリンクしておきますね。
(関連サイト)
「大阪高低差学会古墳部・第1回古墳ブラ歩き・前編(纒向古墳群)」
「大阪高低差学会古墳部・第1回古墳ブラ歩き・後編(纒向古墳群)」
「箸墓古墳とホケノ山古墳」2014.09.27
「大阪高低差学会古墳部・Facebookグループ」
ポチッと、応援よろしく♪
吉野ヶ里遺跡に行ってきた
11月初旬に3泊4日で「佐賀インターナショナルバルーンフェスタ」に行ってきたのですが、雨の日は残念ながら気球は上がりません。そんな日に会場の近くにある吉野ヶ里遺跡に行ってきました。

バルーンフェスタは微速度撮影をするために行ったのですが、作品をつくる時間がなくてまだできておりません。忘れた頃にYoutubeにアップするかも。
さて、

これは、平成元年(1989)に、国内最大規模の環濠集落の発掘が大々的にニュースになったときの記事です。当時はまったく興味がなかったんですけど、あれから約25年。現在ではビックリするくらい整備が進みとても素敵な場所に変わっていました。

まずはカシミール3Dで現地を見てみましょう。吉野ヶ里遺跡は南北に細長く延びる丘陵地にあり、南側一帯は低地(佐賀平野)が広がっています。その先は有明海です。

吉野ヶ里遺跡は濠(ほり)で囲まれた環濠集落で、その内部はさらにいくつかの区域に分かれています。祭りや政治が行われていた「北内郭」、首長など身分の高い人々の住居エリアであった「南内郭」、倉庫群や市が行こなわれた「倉と市」、歴代の王が埋葬された「北墳丘墓」などです。さらに一般住民の住居がある「中のムラ」「南のムラ」があります。

向こうに見えるのが、一番大きな建物である主祭殿です。

周囲はこのような濠(ほり)で囲まれています。

濠を掘った土で外側に土塁をつくり木の柵を設けていました。

ここでは左の斜面に木が突き刺さっていますね。

これは「逆茂木(さかもぎ)」というバリケードです。

立派な物見櫓ですね。

ここは身分の高い人々の住居エリアであった「南内郭」です。

物見櫓が4つもあって、中央には広場があります。

手前の建物は、共同で煮炊きを行うための建物だそうで、どうやら各住居には煮炊きをした痕跡がないようです。

向こうの住居群は一般の人達が暮らす「南のムラ」です。

手前は王の住居。

柵の向こうは倉庫が並ぶ「倉と市」。

山が霞んで見えにくいですが、二上山の様な山が見えますね。日の隈山でしょうか。

ここが王の住居です。

中はこのような状態。調理をするような場所はなさそうですね。

「北内郭」は少し離れた場所にあります。

それにしても大きな建物だ。

これは「北内郭」の発掘当時の状況です。当時と同じ場所に建物などが復元されています。

「北内郭」エリアの配置です。主祭殿と北墳丘墓を結んだ直線上に立柱と祀堂があるように見えますね

主祭殿です。でかいです。柱を16本使用した高床建物で、内側にある柱で床を支える構造になっていて、柱の配置や平面形態から楼閣のような建物だったと考えられています。

2階のフロアです。中央にいるのが王。

ここでクニの重要な事柄を決めていたのでしょう。

3階です。ここでは、巫女が祀り事をしていました。巫女が祈っている方角に北墳丘墓があります。

3階からの眺めです。向こうに墳丘墓が見えます。

左側には、最初に立ち寄った「南内郭」が見えます。

墳丘墓の前に立柱と祀堂、そして墓道があります。

地図には描かれていなかったのですが、祀堂の前にボロボコとした場所がありました。

ここは甕棺墓列(かめかんぼれつ)といって、甕(かめ)の棺おけが埋葬されている場所です。吉野ヶ里の丘全体で15,000基を超える数の甕棺が埋められていると考えらているそうです。

祀堂と立柱です。祀堂は歴代の王の祖霊を祈る建物、柱は霊が宿る柱として信仰の対象になっていたのでしょう。

墓道です。北墳丘墓にお参りするための道で、環濠の外まで延びているので、周辺集落の人々もお参りしていたのかもしれません。

北墳丘墓から主祭殿を見たところ。

北墳丘墓の内部は、このように発掘された状態で保存されています。

この墳丘墓から14基の甕棺が発掘され、その多くから銅剣や管玉が発見されています。

紀元前2世紀〜紀元1世紀頃に築かれたものです。

このような状態で埋葬されたようです。

主祭殿と北墳丘墓を結ぶ南北の聖なる軸線。

ここは弥生時代の水田を再現している場所です。畦で仕切られた一枚一枚は小規模ですが、今と大きく変わっていないことに驚きます。他の場所の水田遺構を参考にしているそうです。
遺跡の規模も凄いのですが、これらを復元したパワーに驚かされます。私は関西に住んでいるので邪馬台国畿内説を信じたいのですが、吉野ケ里遺跡は必見。とても素晴らしい遺跡を見ることができました。雨が振ってくれてよかった… ^ ^;
つい先日、邪馬台国畿内説の有力地である纒向遺跡周辺の古墳巡りをしてきましたので、関連記事をリンクしておきますね。
(関連サイト)
「大阪高低差学会古墳部・第1回古墳ブラ歩き・前編(纒向古墳群)」
「大阪高低差学会古墳部・第1回古墳ブラ歩き・後編(纒向古墳群)」
「箸墓古墳とホケノ山古墳」2014.09.27
「大阪高低差学会古墳部・Facebookグループ」
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