2014年08月31日 07:30
日本武尊白鳥陵古墳(F43)、安閑天皇陵古墳(F44)、春日山田皇女陵古墳(F45)、仲哀天皇陵古墳(F5)、割塚古墳(F7)、鉢塚古墳(F6)、津堂城山古墳(F1)、雄略天皇陵古墳(F4・F3)、隼人塚古墳(F2)

古市古墳群45基めぐりの6回目はピンクのラインがある2ヶ所。

(A) 近鉄の古市車庫周辺と

(B) 近鉄「藤井寺」駅周辺です。

住宅地にある参所。

「日本武尊白鳥陵(やまとたけるのみことはくちょうりょう)古墳(F43)」です。

「景行天皇皇子日本武尊 白鳥陵(しらとりのみささぎ)」。

田んぼ越しの陵墓は美しい。陵墓周辺の田んぼはどんどん宅地化が進んでいます。

白鳥伝説の事が書かれていました。
『日本武尊(やまとたけるのみこと)が全国各地に遠征し、その帰途伊勢の能褒野(のぼの)で息をひきとった。武尊は、白鳥に姿を変え大和の琴弾原(ことびきはら)を経由し古市に飛来したことが日本書紀に記されている。その後、埴生(はにゅう)の丘に「羽」を「曵」くがごとく飛び去ったという伝説である。この白鳥伝説が「羽曳野(はびきの)」の地名の由来になっている。』

周濠がよく残っています。

名前も美しいが陵墓も美しい。

周濠部もきれいに整備されています。

古市車庫と近鉄長野線を越えてすぐにあるのが、「安閑(あんかん)天皇陵古墳(F44)」。

安閑天皇 古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)。

地理的には、日本最古の官道である竹内街道と石川に近い場所にあります。

横の道を行きます。

周濠は浅いですが水が溜まっています。

住宅地の真ん中に現れたのが、

「春日山田皇女陵(かすがやまだこうじょりょう)古墳(F45)」。

安閑天皇皇后 春日山田皇女 古市高屋陵。
さて、次に(B) のエリアへ。

「仲哀(ちゅうあい)天皇陵古墳(F5)」です。

拝所へ続く道が広い。

古市古墳群では3番目に大きな墳丘です。

仲哀天皇 惠我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)。御父が最初に紹介した白鳥陵古墳の日本武尊(やまとたける)になります。

岡ミサンザイ古墳とも呼ばれています。

周濠が大きい。

拝所の前に船がおいてあった。何に使うのでしょうね。

その近くの駐車場にある「割塚古墳(F7)」。

高さも低く開発の波に押されて潰されていてもおかしくないような目立たない古墳。よく残りましたね。

北側に同規模の岡古墳があったようですが今はありません。

「鉢塚古墳(F6)」です。表面の土が崩れかけていますね。

以前は中に入れたようですが、この日は入口がわかりませんでした。

いまは周濠が埋められていますが、かつては盾形の周濠があったそうです。

さて、「津堂城山(つどうしろやま)古墳(F1)」です。

史跡 城山古墳。

古市古墳群の中で6番目に大きい前方後円墳で、造築されたのが4世紀後半と早く、古市古墳群内で最初に出現した巨大古墳です。

上にのぼってみましょう。

前方部です。

向こうに二上山が見えます。

前方部から後円部を見たところ。

後円部の一部はフェンスで囲われています。解説板に後円部頂の竪穴式石棺から巨大な長持形石棺が現れたと書かれていましたがそのエリアなのでしょう。

後円部から前方部を見たところ。木が生い茂って見晴らしがいいは言えないのが残念。

周濠部から墳丘を見たところ。奥が前方部です。室町時代には古墳の地形を利用して小山城が築かれていたようです。宮内庁により第19代允恭天皇の陵墓参考地に治定されています。

城が築かれていた事とも関係があるのかもしれませんが、後円部に神社があります。

津堂八幡神社。

後円部の中腹に位置しており、後ろに後円部頂上があります。

周濠は津堂草花園になっている。

花畑越しの後円部。

史跡城山古墳ガイダンス棟「まほらしろやま」には、石棺の石が並べられていました。
さて、大きく移動します。

池に浮かぶようにある雄略(ゆうりゃく)天皇陵古墳(F3)

その向こうに見えるのも雄略天皇陵古墳(F4)で、2基からなっています。

円墳が丸山古墳、奥のが平塚古墳とも呼ばれています。

グーグルマップで見ると2つ合わせて前方後円墳に見えるのですが、これは明治時代に整備されたもので、平塚古墳は一辺約50mの方墳だそうです。

拝所へ。

雄略(ゆうりゃく)天皇 丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)。

雄略天皇の御父は允恭(いんぎょう)天皇になります。

この近くに「隼人塚(はやとづか)古墳(F2)」があるはずなのですが、実は最初に来た時に見つけることが出来ませんでした。で、グーグルマップで調べて再び訪れてやっと見つけた。

古墳の四方が完全に住宅で囲われています。唯一見つけた隙間がこの公園。

普通では何も見えません。カメラを柵の上に出して撮ったのがこの写真。辛うじて墳丘の頭部分が見える。

どこかに入口があると思うのですが、人の家の敷地に入ってまで探すのもよくないのでやめました。
(追記)

この地図は、「世界遺産暫定一覧表記載資産 準備状況報告書」からの抜粋です。有識者や民間会議などで議論した結果、古市古墳群45基の中から32基にしぼられました。それらは4世紀後葉から5世紀後葉に形成されたもので、巨大前方後円墳と、その周辺に点在する前方後円墳、帆立貝形墳、円墳、方墳などです。下記の地図で赤い印の古墳がリストに残ったもので、そうでないものはリストから外れた古墳です。世界文化遺産としてどうなんだろうと思っていた古墳は結果的には外されていました。今後は、古墳周辺の景観を保全するための規制が実施されていくと思われます。世界文化遺産登録に向けて大きく動き出しています。
より大きな地図で 古市古墳群 を表示
【古市古墳群】
世界文化遺産をめざす古市古墳群45基 2014.08.17
古市古墳群45基めぐり(1) 2014.08.18
古市古墳群45基めぐり(2) 2014.08.20
古市古墳群45基めぐり(3) 2014.08.21
古市古墳群45基めぐり(4) 2014.08.22
古市古墳群45基めぐり(5) 2014.08.29
古市古墳群45基めぐり(6) 2014.08.31
古墳の作り方(ジオラマ) 2014.10.04
ポチッと、応援よろしく♪

古市古墳群45基めぐりの6回目はピンクのラインがある2ヶ所。

(A) 近鉄の古市車庫周辺と

(B) 近鉄「藤井寺」駅周辺です。

住宅地にある参所。

「日本武尊白鳥陵(やまとたけるのみことはくちょうりょう)古墳(F43)」です。

「景行天皇皇子日本武尊 白鳥陵(しらとりのみささぎ)」。

田んぼ越しの陵墓は美しい。陵墓周辺の田んぼはどんどん宅地化が進んでいます。

白鳥伝説の事が書かれていました。
『日本武尊(やまとたけるのみこと)が全国各地に遠征し、その帰途伊勢の能褒野(のぼの)で息をひきとった。武尊は、白鳥に姿を変え大和の琴弾原(ことびきはら)を経由し古市に飛来したことが日本書紀に記されている。その後、埴生(はにゅう)の丘に「羽」を「曵」くがごとく飛び去ったという伝説である。この白鳥伝説が「羽曳野(はびきの)」の地名の由来になっている。』

周濠がよく残っています。

名前も美しいが陵墓も美しい。

周濠部もきれいに整備されています。

古市車庫と近鉄長野線を越えてすぐにあるのが、「安閑(あんかん)天皇陵古墳(F44)」。

安閑天皇 古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)。

地理的には、日本最古の官道である竹内街道と石川に近い場所にあります。

横の道を行きます。

周濠は浅いですが水が溜まっています。

住宅地の真ん中に現れたのが、

「春日山田皇女陵(かすがやまだこうじょりょう)古墳(F45)」。

安閑天皇皇后 春日山田皇女 古市高屋陵。
さて、次に(B) のエリアへ。

「仲哀(ちゅうあい)天皇陵古墳(F5)」です。

拝所へ続く道が広い。

古市古墳群では3番目に大きな墳丘です。

仲哀天皇 惠我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)。御父が最初に紹介した白鳥陵古墳の日本武尊(やまとたける)になります。

岡ミサンザイ古墳とも呼ばれています。

周濠が大きい。

拝所の前に船がおいてあった。何に使うのでしょうね。

その近くの駐車場にある「割塚古墳(F7)」。

高さも低く開発の波に押されて潰されていてもおかしくないような目立たない古墳。よく残りましたね。

北側に同規模の岡古墳があったようですが今はありません。

「鉢塚古墳(F6)」です。表面の土が崩れかけていますね。

以前は中に入れたようですが、この日は入口がわかりませんでした。

いまは周濠が埋められていますが、かつては盾形の周濠があったそうです。

さて、「津堂城山(つどうしろやま)古墳(F1)」です。

史跡 城山古墳。

古市古墳群の中で6番目に大きい前方後円墳で、造築されたのが4世紀後半と早く、古市古墳群内で最初に出現した巨大古墳です。

上にのぼってみましょう。

前方部です。

向こうに二上山が見えます。

前方部から後円部を見たところ。

後円部の一部はフェンスで囲われています。解説板に後円部頂の竪穴式石棺から巨大な長持形石棺が現れたと書かれていましたがそのエリアなのでしょう。

後円部から前方部を見たところ。木が生い茂って見晴らしがいいは言えないのが残念。

周濠部から墳丘を見たところ。奥が前方部です。室町時代には古墳の地形を利用して小山城が築かれていたようです。宮内庁により第19代允恭天皇の陵墓参考地に治定されています。

城が築かれていた事とも関係があるのかもしれませんが、後円部に神社があります。

津堂八幡神社。

後円部の中腹に位置しており、後ろに後円部頂上があります。

周濠は津堂草花園になっている。

花畑越しの後円部。

史跡城山古墳ガイダンス棟「まほらしろやま」には、石棺の石が並べられていました。
さて、大きく移動します。

池に浮かぶようにある雄略(ゆうりゃく)天皇陵古墳(F3)

その向こうに見えるのも雄略天皇陵古墳(F4)で、2基からなっています。

円墳が丸山古墳、奥のが平塚古墳とも呼ばれています。

グーグルマップで見ると2つ合わせて前方後円墳に見えるのですが、これは明治時代に整備されたもので、平塚古墳は一辺約50mの方墳だそうです。

拝所へ。

雄略(ゆうりゃく)天皇 丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)。

雄略天皇の御父は允恭(いんぎょう)天皇になります。

この近くに「隼人塚(はやとづか)古墳(F2)」があるはずなのですが、実は最初に来た時に見つけることが出来ませんでした。で、グーグルマップで調べて再び訪れてやっと見つけた。

古墳の四方が完全に住宅で囲われています。唯一見つけた隙間がこの公園。

普通では何も見えません。カメラを柵の上に出して撮ったのがこの写真。辛うじて墳丘の頭部分が見える。

どこかに入口があると思うのですが、人の家の敷地に入ってまで探すのもよくないのでやめました。
(追記)

この地図は、「世界遺産暫定一覧表記載資産 準備状況報告書」からの抜粋です。有識者や民間会議などで議論した結果、古市古墳群45基の中から32基にしぼられました。それらは4世紀後葉から5世紀後葉に形成されたもので、巨大前方後円墳と、その周辺に点在する前方後円墳、帆立貝形墳、円墳、方墳などです。下記の地図で赤い印の古墳がリストに残ったもので、そうでないものはリストから外れた古墳です。世界文化遺産としてどうなんだろうと思っていた古墳は結果的には外されていました。今後は、古墳周辺の景観を保全するための規制が実施されていくと思われます。世界文化遺産登録に向けて大きく動き出しています。
より大きな地図で 古市古墳群 を表示
【古市古墳群】
世界文化遺産をめざす古市古墳群45基 2014.08.17
古市古墳群45基めぐり(1) 2014.08.18
古市古墳群45基めぐり(2) 2014.08.20
古市古墳群45基めぐり(3) 2014.08.21
古市古墳群45基めぐり(4) 2014.08.22
古市古墳群45基めぐり(5) 2014.08.29
古市古墳群45基めぐり(6) 2014.08.31
古墳の作り方(ジオラマ) 2014.10.04
ポチッと、応援よろしく♪

スポンサーサイト