大阪アースダイバー上町台地の高低差を歩こう!19. 八軒家浜周辺を歩く
上町台地の北西端になります。茶色い部分が標高が高い場所。松屋町筋に向かってなだらかに低くなっているのがわかりますね。

地図と重ねるとこのようになる。

八軒家浜です。前を流れる大川は、仁徳天皇が開削したと古事記や日本書紀に書かれている難波の堀江だといわれています。近くの高麗橋付近に難波津と呼ばれる港があったという説もありますね。

八軒家浜は江戸時代に京都と大阪を結ぶ三十石船が発着する船着場として賑わいました。

江戸時代、天神橋と天満橋に挟まれた大川南岸が八軒家と呼ばれた。八軒家には京都と大坂を結ぶ三十石船が発着する船着場があり、淀川における貨客輸送のターミナルであった。道沿いには旅籠や問屋が並び、船着場は旅人や運送にかかわる人々、客を呼び込む人たちの喧騒に包まれていた。そのようすは落語『三十石』や十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にいきいきと描かれている。
この地域は八軒家と呼ばれる以前には渡辺と呼ばれ、渡辺津を中心に平安時代から瀬戸内と淀川を結ぶ水上交通の拠点として栄えた。また、熊野三山への参詣道である熊野街道の拠点でもあり、交通の要衝として古くから賑わいをみせるところであった。現在も船着場が整備され、「みち」と「かわ」を繋ぐ、水の都大阪の拠点として、賑わいをみせている。

江戸時代、八軒家には三十石船をはじめ野崎詣・金毘羅参などのさまざまな船が発着し、淀川流域の船着場として随一の賑わいを見せた。船着場には、京街道でもあった浜通から川岸にかけて、石の階段「雁木」が築かれ、物資の積み下ろしや人の乗り降りに便利な工夫がされていた。
三十石船は八軒家と京・伏見の間、十一里余(約45km)を上り一日、下り半日で運航し、江戸時代を通して貨客輸送の中心を占めた。明治三年(1870年)に蒸気汽船が就航すると三十石船は衰退し、明治四三年(1910年)に京阪電気鉄道が天満橋-京都五条間に開通して、八軒家は淀川の貨客輸送のターミナルの役目を終えた。
しかし、現在、水の都大阪再生の核となる取り組みとして、水上交通の拠点となる船着場が八軒家に完成し、往時の賑やかな水上ターミナルの役目は、現代にも引き継がれている。

こちらには渡辺津の碑。

渡辺津から世界遺産熊野古道へ
平安時代後期(12世紀頃)から熊野参詣が盛んになった。
白河上皇や鳥羽上皇は鳥羽離宮(現在の京都市城南宮あたり)で身を清め道中の無事を祈願した後、京を出立。淀川を舟で下って渡辺津(現在の天神橋あたり)で上陸し、熊野街道を通って熊野三山(和歌山県)へ、往復1ヶ月ほどかけて参詣した。
熊野本宮・新宮・那智のいわゆる熊野三山への路は右図のように、メインルートの中辺路のほか、大辺路・小辺路・伊勢路があり、峠越えの古道を中心に、2004年世界遺産に登録されている。
江戸時代以降このあたりは八軒家浜と呼ばれている。

ここには小楠公義戦之跡碑もあります。

小楠公義戦之跡碑
大阪は今と昔と地勢が全く変つて居り昔はこの大川の幅も広く橋が唯一つ架ってありました其位置は判然としてはいませぬが今の天満と天神の二つの橋の中程だろうと言われていますこれを渡邉橋又は大江橋といいましたこの渡邉橋は楠公父子の戦蹟であります大楠公は元弘二年に北條方の兵をここで敗られました小楠公は後村上天皇の正平二年瓜生野の戦に足利の將山名時氏細川顕氏を敗り逃げる敵を此川邉に追いつめられ敵は我先きと橋を争い川に落ちて流されるもの五百人をこえました公は部下に命じて之を救はせ其上十一月二十六日の寒天に凍えふるへて居るのを衣食を与へ薬を給して京へ帰されました公は翌年正月五日に四條畷で戦死せられましたがこの時の恩に感じて帰順した兵ともも皆討死をしたのでありました公は忠孝を雨つながら全うししかもかく勇気と仁愛とを備へられたこれこそ日本精神の化身というべきであります我等は天や地や山や川はいつまでも変らぬものと思うて居ますがこの天地山川も昔のままではなく常時の橋も岸も皆変って居り其功を立てた小楠公も再び見ることはできませぬただ公の敵をも愛しまれたこのゆかしい心のみはいつまでも我が士道の華として我等の心をうごかし更に欧米の人をも感じさせてために我国が赤十字社に加盟することを容易ならしめたのであります今や皇紀二千六百年にあい窮りなき皇運を仰ぎまたこの碑に向ひ公の此心を念う時我等もまた正しく大きい心を修めてこの精華を培うことを勉めようではありませぬか(※旧漢字は現代漢字に、カタカナはひらがなにしています)
ここまですべて読まれた方はもうお腹いっぱいだと思います ^^
このエリアは、それだけ一言では語りきれないもっとも重要な要所のひとつなのです。

さて、谷町筋と土佐堀通りが交わる天満橋交差点です。

上町台地の北端の傾斜。

天満橋は2階建ての橋です。

この西側の道路がもっこりと「コブチケイ(こぶ地形)」になっている。

東側には大阪城がそびえている。
上町台地で一番標高が高い場所に建っています。

谷町筋から西側に入った土佐堀通り沿いの駐車場です。
マンション下の石積みがかなりいい。

石積みの西側にある石段です。

上町台地の北端の傾斜。

途中に踊り場的な場所がある。
何だろう?

左右に一カ所ずつある。
この石段が出来た当時は横に建物の入口があったのでしょうか。

上から見た所。

この石段も上町台地を表す象徴的な場所かもしれませんね。

石段の西側にある坂道です。

ここも「コブチケイ」のようにもっこりしている。

ここは熊野街道(御祓筋)。

この辺りが熊野街道の起点です。

傾斜角度はこの程度。
マンションと公園の壁の隙間に石積みが見える。

上から見たところ。

少し下がると斜面がなくなる。

反対側はさらに少し傾斜している。

西側は松屋町筋に向かって下がっています。

少し下りた所に坐摩神社行宮(いかすりじんじゃあんぐう)がある。

熊野街道の陸の出発点、九十九王子の第一社、窪津王子(渡辺王子)跡とされる場所です。

元あった坐摩神社は広大な敷地を有していたようですが、

天正11年(1583)、豊臣秀吉が大阪城築城の際に現在の久太郎町4丁目に移転させられました。

この地は神功皇后が新羅より御帰還の折、御休息されたといいます。

御休息されたという石がこのステンレスの囲いの中にある。この地が石町(こくまち)と称するのもこの石があるかららしい。

さて、熊野街道のひとつ西側の筋(骨屋町筋)です。

信号の所がもこっとしている。

ゆるいこぶ地形「ゆるこぶ」です。

再び熊野街道です。南北にまっすぐ平坦な道が続いています。

西側の傾斜。下の道路は松屋町筋です。

ゆるやかな傾斜。

何やら不思議な形の構造物が。

ここには釣鐘がある。これ、決まった時間に勝手に突き出します。
この釣鐘は明治3年に撤去された後、大阪府庁舎屋上に保存されていましたが、昭和60年にこの地に戻りました。

ここに釣鐘屋敷があったらしい。町名の釣鐘町もこれによります。

この辺りは通り毎に同じような傾斜になっています。

こちらもほぼ同じ。

ゆるやかな坂道。

このゆるやかな傾斜がこのエリアの特徴。

明らかに人工的に整地された傾斜ですが、一番高い場所と低い場所との高低差は昔とあまり変わっていないかもしれない。
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2012.10.13『
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2010.04.25『
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