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大阪中央郵便局重要文化財指定義務付け裁判のまとめ

2012年10月28日 00:30

大阪中央郵便局裁判のまとめ

(2012.10.29撮影)
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「大阪中央郵便局重要文化財指定義務付け訴訟」、いわゆる「大阪中央郵便局裁判」が10月24日(水)の第2回弁論で結審し、判決が12月21日(金)に言い渡されます。

残念ながらこの裁判に関心のある方は少ないのではないのでしょうか。内容もわかりにくいし、建物の解体と同時進行しているのがこの裁判を余計にわかりにくくしています。ただ、裁判自体はとても重要な意味を持っていて、私は2回とも傍聴させていただきました。しかし、原告側に対して不満や疑問に思う事が多くあり、どちらかというと批判的な立場でこの裁判を見ています。

裁判の詳細は「大阪中央郵便局を守る会」のHPに書かれていますので
そちらをご覧ください。
大阪中央郵便局庁舎を巡る裁判について(1)
大阪中央郵便局を巡る裁判について(2)
鳩山邦夫衆議院議員の国会質問書
大阪中央郵便局を巡る裁判について(3)

で、
一般市民の目で客観的にこの裁判を振り返った時、
重要なポイントが2つあるのではないかと思っています。

(1)原告適格の判例を作ることになる。
(2)一般市民が裁判に無関心のまま終わった。

さらに、大阪中央郵便局の保存運動自体に「今さら感」を感じている人が多いのではないか。それらについても簡単にまとめてみたいと思います。


(2012.10.29撮影)
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【原告適格の判例を作ることについて】
私がこの裁判で最も重要であり意義を感じているのがこの部分です。いままでは、重要な建物の解体問題が発生しても建築家など第三者は手をこまぬいて見ているしかなかった。それが法律の改正により原告になれる可能性が出てきたのです。

(原告の主張)
「文化財保護法は、原告ら専門の研究の権利等を保護している。大阪中央郵便局が壊されると、モダニズムの研究や教育が果たせなくなる。また、誰よりも保存運動に関与してきた実績もある。よって、原告らには、本件訴訟を提起するだけの資格がある。」


ちなみに原告とは下記の5名です。
鈴木博之(建築史家,青山学院大学教授,DOCOMOMO Japan代表,明治村館長)
松隈洋(建築史家,京都工芸繊維大学教授)
高岡伸一(建築家,大阪市立大学特任講師)
前田茂樹(建築家,大阪工業大学専任講師)
倉方俊輔(建築史家,大阪市立大学准教授)順不同

(相手方の主張)
「文化財保護法には、専門家を保護している規定などない。過去の判例でも、専門家の原告適格を認めていない。したがって、原告らには、訴訟を提起するだけの資格がない。」


そもそも、この訴訟を起こしている上記5名は原告適格者なのか?これは相手方(国)と徹底的に争って裁判官に原告適格を認めさせて欲しい部分です。これが認められればこの訴訟の意義は大きかったと思うし、さらに、全国のどこかで起きるであろう同じような問題に対しても有効な判例になります。

しかし、傍聴している一般の我々にはそのやり取りがまったくわからない。第2回弁論も10分ほどで終わり書類の確認の後、原告側から裁判官に今回の裁判の思いを語り結審を求めただけで終わりました。判決は12月21日(金)ですが、今後ずっと尾を引く重要な判例になると思います。原告適格についての書類のやり取りはもちろん、それ以外のやりとりも公開してほしいと思います。


【一般市民が裁判に無関心のまま終わってしまった】

これは私の勝手な思い込みかもしれませんが、裁判が始まって以来ずっとリアルタイム検索を含め世論の動向を見ていたのですが、最初に新聞各紙が記事にして以降、ほとんど話題になっていなかったように思っています。これに関しては申し訳ないが原告及び関係者の努力不足があったのではと思っています。それ以外にも気になったことがたくさんある。

【裁判の目的】
裁判を起こした本当の目的は何だったのか?
解体工事を止める為だと新聞記事には書かれています。当然判決には数ヶ月かかるので、早期に解体を止めるには、1、マスコミ各社が裁判を取り上げ、2、世論がそれに賛同し解体反対の声が広がり、3、郵便局側がその世論の声を聞き解体工事を一旦中断する。というストーリーが考えられる。原告のストーリーはどうだったのだろう。

【大チャンス】
原告が訴訟を起こした時、朝日、読売、毎日、産経、日経、大阪日日などほとんどすべての新聞社が取り上げました。これは凄い事で、宣伝効果で言えば数百万円以上の価値があったのではないでしょうか。これは目的達成の為の大チャンスで、このタイミングで建物の素晴らしさを一般の人にアピールできていたらその後の活動も変わっていたかもしれません。

【蚊帳の外】
私がこの裁判で感じた事は、情報がまったく入ってこないことへのいらだちです。裁判ってそんなもんなんですかね。

【保存運動で最も重要なのは市民の応援】
私の持論です。
「一般市民の賛同を得られない保存運動は失敗する。たとえ保存運動が失敗しても、一般市民の賛同を得られていればその人達は賞賛される。」

【人の心を動かす】
あの建物の良さを伝えるにはどういうコトバが響いたのか。きっと人の心を動かす伝え方があったに違いない。それを考えるのが実は一番重要だったと思います。良さがわかりにくい建物の場合は特に。

【仲間からの応援】
大阪中央郵便局を守る会のホームページには呼びかけ人と賛同人などたくさんの建築関係者等の名前が並んでいます。これらの方々の多くがこの裁判に積極的に関わり応援していたらまた世論の反応も変わっていたかもしれません。原告の方々は仲間からの応援もなく孤独な戦いをしていたのではないでしょうか。

【一般市民の中に漂う今さら感】
裁判を起こしたタイミングもさることながら、保存運動を活発に始めたタイミング自体が遅すぎたのではという声は多い。2011年12月21日に「旧大阪中央郵便局敷地の暫定活用について」がリリースされ、大阪中央郵便局を守る会が2012年1月29日に大規模な緊急シンポジウムを開催しています。大阪府・大阪市の特別顧問である橋爪紳也氏も熱く保存を語っておられましたが、一般市民にはその時点で「時既に遅し」のモードが漂っていたように思います。大阪中央郵便局庁舎の取り壊しにおいて、日本建築学会が保存に関する要望書を提出したのは2005年。鳩山元総務大臣の「トキを焼き鳥にして食べるようなものだ」と発言した2009年頃までに4回もの要望書を出している。場所を現在の駅前第一ビルに移転したのも2009年です。それが2012年になってようやく保存運動が大きく動き出しましたが「なぜ今ごろ?」と感じた人は多かったのではないでしょうか。

(追記)
解体までの流れを簡単に整理しました。市民の今さら感が納得できます。
osakacyuyu_keii.png

(2012.10.29撮影)
osakacyuyu_003.jpg

ということで、私はこの裁判についてあまりいいイメージがありません。どちらかというと批判的な立場で見てきました。そんな中で、先日原告のお一人である倉方氏とお会いする機会があり、最後のシンポジウムになるであろう11月4日(日)のシンポジウムに声をかけていただきました。

 おそらく最後のシンポジウム:
「大阪中央郵便局裁判」の意義とは何か?
日時:11月4日(日)14:00~16:00 13:30開場
場所:中之島デザインミュージアム de sign de>
http://designde.jp/)
参加費:500円

参加者:
高岡伸一(建築家/高岡伸一建築設計事務所)
前田茂樹(建築家/前田茂樹建築設計事務所)
岡崎行師(弁護士/本町総合法律事務所)
新之介(ブロガー/十三のいま昔を歩こう)
ゴリモン(ブロガー/ゴリモンな日々)
笠原一人(建築史家/京都工芸繊維大学)
司会:
倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学)

私は私の目線で見てきた思いを語りたいと思います。
おそらく参加者の中であの建物に一番愛着を持っていたのがゴリモンさん。
私とはまったく違う思いがあるのではないかな。
関心のある方はぜひお越し下さい。


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千里丘陵を歩く・山田の変遷

2012年10月25日 00:30

千里丘陵を歩く(9)
山田の移り変わり

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大正12年測量の千里丘陵の地図です。
他の村と比べて山田村がいかに大きかったがよくわかります。

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昭和43年測量の地図です。
山田村の北側に日本万国博覧会が出来ますが、それができる直前です。

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昭和44年測量の地図です。
日本万国博覧会の会場と北大阪急行電鉄の万国博中央口駅、京阪神急行電鉄の万国博西口駅が確認できる。会場北側の地名が山田別所になっていることからも、会場全体が山田村の土地であった事がわかる。

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昭和45年測量の地図です。
測量が会期後なのでしょう。日本万国博覧会跡と記されており、万国博中央口駅、万国博西口駅もなくなっている。

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現在です。
緑が少なくなりましたが下新田の辺りに多く残されているのがよくわかる。

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大正12年測量の旧山田村の地図です。
山田村は山田上村、山田中村、山田別所村、山田小川村、山田下村の五ヶ村から成り、往時山田荘と称していた由緒ある地域です。

国土変遷アーカイブ
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昭和23年の航空写真です。
周りが田んぼと丘陵地だったことがよくわかる。

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旧山田村の北側から南の方に歩いて行きます。

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この細い道が昔から残る村のメインストリートの旧道です。

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松のシルエットが美しい。

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旧道から外れた所に祠を見つけた。

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山田村を貫くように山田川が流れている。

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大阪府の石柱発見。
崩れかけた大木の根っこにからまっている。

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ブロック塀に挟まれた地蔵尊。

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ちょっと脇道へ

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こういう塀沿いを歩くのが好きだ。

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なだらかな高低差がある場所を歩きながら
アスファルトになる前の景色をイメージしながら歩く。

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歩いたのは祭りの前だったのですが、どんな祭りだったのだろう。

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再び旧道です。左の建物は山田上会館。

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ええ感じのネームプレート。

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門の一部がシャッターになっているがいい門構えだ。

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昔ながらの町並みが残っている。

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両側がこういう雰囲気でずっと向こうまで続いていたのでしょう。

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左の建物には地蔵尊が。

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屋根の所でカクカクしていて芸が細かい塀。

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反対側から見たさっきの町並み風景。

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再び脇道に入って行きます。

IMG_0841.jpg
ん?
何やら石仏がたくさん並んでいる。

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何でしょうね。この石仏群は。

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元は道端に集められていたものを
屋根を作ってきれいに並べて祀っているのかもしれません。


より大きな地図で 新之介の千里丘陵を歩く を表示


(千里丘陵を歩くシリーズ)
1.千里丘陵丘陵を歩く・江坂
2.千里丘陵を歩く・旧寺内村・観音寺
3.千里丘陵を歩く・旧石連寺村・住吉神社・興法寺
4.千里丘陵を歩く・下新田
5.千里丘陵を歩く・下新田・春日神社
6.千里丘陵を歩く・上新田の町並み
7.千里丘陵を歩く・上新田天神社・鎮守の森と宅地開発
8.千里丘陵を歩く・上新田の道標
9.千里丘陵を歩く・山田の変遷
10.千里丘陵を歩く・山田の町並みと紫雲寺と圓照寺
11.千里丘陵を歩く・伊射奈岐神社と山田の町並み
12.千里丘陵を歩く・佐井寺1
13.千里丘陵を歩く・佐井寺2


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庄本・椋橋総社のふとん太鼓

2012年10月15日 22:30

庄本・椋橋総社のふとん太鼓

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豊中庄本にある椋橋総社(くらはしそうしゃ)の御旅所です。
この横たわっているものは何でしょう。

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これ、獅子舞です。

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立派な布団太鼓が3台連なっていますが、椋橋総社の秋祭りで布団太鼓が曳航する時、その先頭を行くのが獅子舞です。

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ふとん太鼓は宮之町、中之町、南之町・嶋之町の3台。

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法被(はっぴ)に鯉が描かれている。
椋橋総社では鯉は氏神の使いとして扱われているようです。

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椋橋総社拝殿です。
その前になぜが釜が置かれている。
聞いてみると湯立て行事用のお湯を沸かしているのだとか。

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以前の記事でも書いたが、
この地区のすぐ手前で幹線道路が終わっている。

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山手幹線、山幹通りと呼ばれるあの道路です。

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この地区に幹線道路を通す話があった時、地元で反対運動が起こり、
地主達が土地の買収に応じず今に至っています。

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正面に阪急電車は走っている。もしここに幹線道路が出来ていたら阪急電車を越えるための陸橋が作られ、さらに神社と住居地域が分断された場所になっていたでしょう。庄本周辺は交通の便が少し不便だがいい町並みが残っている。当時の方々の判断は素晴らしかったと私は思っています。

さて、
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ふとん太鼓が参道に入りました。

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ここからはこの巨大なふとん太鼓を持ち上げて宮入します。
見ているこっちまで力が入る。


約1分の映像です。映像後半の向こうに見える森が椋橋総社です。

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よいやーさー!
よーいさー!

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3台のふとん太鼓が神社近くに並んだ所。
ここから1台ずつ境内に入って行く。

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ところで、この獅子舞ってよく見ると毛むくじゃらですね。

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ふとん太鼓の先頭を歩く宮司さんと獅子舞。

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獅子舞はそのまま拝殿に。

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ここでふとん太鼓の細部を見てみましょうか。
宮之町のふとん太鼓です。立派な彫刻が施されていますね。

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金物も手が込んでいる。
私が言うのもなんですがいい仕事です。

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周囲は十二支が掘られていた。ちなみに来年の巳。

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さて、南之町・嶋之町のふとん太鼓は入ってきました。

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迫力満点!

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境内に3台のふとん太鼓が並んだ。壮観です。

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実はこのふとん太鼓、夜になると本宮の夜のみ梵天太鼓に変わるのだそうです。
残念ながら今回は見る事が出来なかった。ふとん太鼓から梵天太鼓に変わる祭りも珍しいのではないでしょうか。来年はぜひ見てみたい。


(関連記事)
住民が守った鎮守の森、庄本・椋橋総社2010.04.08
庄本・椋橋総社のふとん太鼓2012.10.15


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