2010年03月30日 08:00
旧洲到止村の町並み
豊中市大島町。
十三からも比較的近い場所なんですが、まったく知らない地域です。
まさかこんな場所にこんな町並みが残っていたなんて
とても新鮮な驚きでした。

現在の地図に昭和4年頃の地図を重ねています。

昭和4年の地図です。元々この地域は洲到止(すどうし)村と呼ばれていました。
町を歩いて気になった所に記号を打ってみた。

A の場所は洲到止八幡宮です。

豊中市史に古い写真が載っていました。明治40年頃です。
別の場所みたいで面白いですよね。写真右手は神崎川の堤防になります。

ちゃんとその場所に「神崎川旧堤防の跡」の碑がありました。

鳥居の横に「八幡宮址」の碑があって、「址」が潰されてますね。

この神社は明治39年の神社合祀(ごうし)令で庄内神社に合祀されてしまった歴史があります。昭和42年に再建されて現在に至っています。

ちょうどこの日はお祭りの後だったのかな。布団太鼓をばらしていました。

B の場所に「下の町洗場跡」の碑がありました。
これが調べてもよくわからなかった。昭和4年の地図を見るとたまり場みたいになってるんだけど、ここで何か洗ってたのかな?

C ここに面白い物が残ってました。

民家の塀なんだけど、昔の旧堤防跡がそのまま残ってる。
勝手に判断したけど、たぶんそうでしょ。
さて、

旧村の中に入っていくと、立派な旧家が目に入ります。

こちらも立派な門構え。

その横に祠を見つけました。
中をのぞくと、紀州熊野大権現と南無地蔵大菩薩の文字が確認できました。
その横にある高い塔は、

D 火の見櫓かな?鐘がないけど…

ぐる~っと町の中を回ってみましたが

ところどころに懐かしい町並みが残ってる。

いつも思うのだが、「洲到止」がなぜ「大島」になったのでしょう?
この先の新福寺で大島雲八光義の文字を見つけたけど、それと関係があるのかな?

豊中市史をぱらぱら見てたんだけど、旧村についての歴史が見つけれなかった。

大阪市史や区史だとぱらぱら見るだけで、たいがい目的のページにたどり着けるんだけど…

で結局、「洲到止」についてよくわからないままです。すんません^^;

G このブロック塀に囲まれた所は墓地なのですが、なぜこんな旧村の中にあるのか不思議だったのですが、昭和4年の地図を見てわかりました。元々ここには寺があったようですね。今は無くなって、墓地だけが残ったようです。

E ここは洲到止墓地。

お彼岸の後なのでお墓中にきれいな花が咲いていました。
結構好きな光景です…^^;

その横に外島樋門(ひもん)跡の碑がありました。
庄内最古の排水樋門だそうです。

F 向かいにもうひとつ墓地があるのですが、こちらは庄本の墓地のようです。なぜこんな離れた所に墓地をつくったんだろう。
より大きな地図で 旧洲到止村 を表示
大島町はもう一回続きます…
ポチッと、応援よろしく♪

(追記)
明治40年に撮影された写真の灯籠と今の灯籠が違う物なのか同じ物なのか検証してみました。

灯籠の裏には「文政元戊寅年九月吉日」と刻まれています。
文政元年は1818年ですので約190年前の物です。

確かに火袋の部分が違うのですが、その他の部分はとてもよく似ている。
常夜灯の文字もほぼピッタリ重なりました。
当時の火袋は木枠と紙でふっくらとした囲いが
つくられていたのではないでしょうか。
豊中市大島町。
十三からも比較的近い場所なんですが、まったく知らない地域です。
まさかこんな場所にこんな町並みが残っていたなんて
とても新鮮な驚きでした。

現在の地図に昭和4年頃の地図を重ねています。

昭和4年の地図です。元々この地域は洲到止(すどうし)村と呼ばれていました。
町を歩いて気になった所に記号を打ってみた。

A の場所は洲到止八幡宮です。

豊中市史に古い写真が載っていました。明治40年頃です。
別の場所みたいで面白いですよね。写真右手は神崎川の堤防になります。

ちゃんとその場所に「神崎川旧堤防の跡」の碑がありました。

鳥居の横に「八幡宮址」の碑があって、「址」が潰されてますね。

この神社は明治39年の神社合祀(ごうし)令で庄内神社に合祀されてしまった歴史があります。昭和42年に再建されて現在に至っています。

ちょうどこの日はお祭りの後だったのかな。布団太鼓をばらしていました。

B の場所に「下の町洗場跡」の碑がありました。
これが調べてもよくわからなかった。昭和4年の地図を見るとたまり場みたいになってるんだけど、ここで何か洗ってたのかな?

C ここに面白い物が残ってました。

民家の塀なんだけど、昔の旧堤防跡がそのまま残ってる。
勝手に判断したけど、たぶんそうでしょ。
さて、

旧村の中に入っていくと、立派な旧家が目に入ります。

こちらも立派な門構え。

その横に祠を見つけました。
中をのぞくと、紀州熊野大権現と南無地蔵大菩薩の文字が確認できました。
その横にある高い塔は、

D 火の見櫓かな?鐘がないけど…

ぐる~っと町の中を回ってみましたが

ところどころに懐かしい町並みが残ってる。

いつも思うのだが、「洲到止」がなぜ「大島」になったのでしょう?
この先の新福寺で大島雲八光義の文字を見つけたけど、それと関係があるのかな?

豊中市史をぱらぱら見てたんだけど、旧村についての歴史が見つけれなかった。

大阪市史や区史だとぱらぱら見るだけで、たいがい目的のページにたどり着けるんだけど…

で結局、「洲到止」についてよくわからないままです。すんません^^;

G このブロック塀に囲まれた所は墓地なのですが、なぜこんな旧村の中にあるのか不思議だったのですが、昭和4年の地図を見てわかりました。元々ここには寺があったようですね。今は無くなって、墓地だけが残ったようです。

E ここは洲到止墓地。

お彼岸の後なのでお墓中にきれいな花が咲いていました。
結構好きな光景です…^^;

その横に外島樋門(ひもん)跡の碑がありました。
庄内最古の排水樋門だそうです。

F 向かいにもうひとつ墓地があるのですが、こちらは庄本の墓地のようです。なぜこんな離れた所に墓地をつくったんだろう。
より大きな地図で 旧洲到止村 を表示
大島町はもう一回続きます…
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(追記)
明治40年に撮影された写真の灯籠と今の灯籠が違う物なのか同じ物なのか検証してみました。

灯籠の裏には「文政元戊寅年九月吉日」と刻まれています。
文政元年は1818年ですので約190年前の物です。

確かに火袋の部分が違うのですが、その他の部分はとてもよく似ている。
常夜灯の文字もほぼピッタリ重なりました。
当時の火袋は木枠と紙でふっくらとした囲いが
つくられていたのではないでしょうか。
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