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大阪が「大大阪」になった日

2009年02月27日 15:00

大阪が「大大阪」になった日

大正14年4月1日、大阪市は東成・西成両郡を市域に編入し、面積、人口とも全国一の大都市になりました。当時の新聞を見るとその時の空気感が伝わってきます。毎日新聞と朝日新聞にどういうことが書かれていたかを見ていきたいと思います。

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mainichi_t14_01.jpg
「毎日新聞 大正14年4月1日」より (拡大写真)

輝かしい「大大阪市」はいよいよ今日から実現
面積は東京の2倍=人口は世界第6位
これを築き上げた市民の「金と人」の力
新に施行される事業の大観


4月1日の毎日新聞1面の見出しです。写真は長柄、都島の工業地帯の写真が使われています。「金と人」の文字が気になりますね。「人」とは人口の増加のことです。市制が施行された明治30年に約48万人だった人口が今回約213万人に増えています。「金」は市の予算の事で当初約66万円だったものが明治40年には238万円に、そして今回の大大阪実現に伴う14年度予算は総額1億8千万円になっています。まさに奇跡的でもある伸び方です。

それ以外に都市計画中央市場建設、上下水道区画整理の整備を進めていく事が書かれており、大阪が日本一にふさわしい都市になっていく未来像が書かれていました。都市計画では総額2億円で幹線道路を拡張又は新設して路面鋪装を施し、従来の木橋を残らず耐震耐火式に改造。路面電車高速地下線の設置、公園の整備などを大正22年度(昭和8年度)までに完成する予定であると書かれていました。実際地下鉄の梅田-心斎橋間は昭和8年に開通しています。

miyakojima.jpg
大正14年の地図です。東洋製紙(王子製紙の前身のひとつ)や鐘淵紡績(旧カネボウ)など工場が確認できます。大大阪市を象徴する地域だったのですね。

kakucyou.jpg
「新修大阪市史」より
市域の拡張を念のため。緑色の部分が今回併合された地域です。
「十三」もこの時に大阪市になったのです♪


では朝日新聞はどんな紙面だったのでしょう。

asahi_t14_01.jpg
「朝日新聞 大正14年4月1日」より (拡大写真)

「よくわからん写真やぞ!」
と お叱りの言葉が聞こえてきそうですが、
すみません! きちゃなくて…^^;

1面に使われた写真は大阪城の航空写真です。「大大阪の建設」という見出しとともに、大阪市の象徴として大阪城を出してきたのでしょうか。ご存知の方も多いと思いますが、この時代は天守閣がまだありません。天守閣が竣工したのは昭和6年です。昭和天皇の即位記念事業として計画されたので、この時はまだ計画はなかったのではないでしょうか。しかし天守閣の再建は関市長時代の象徴的な出来事。この写真を使った事ははたして偶然だったのでしょうか?

asahi_t14_02.jpg
「朝日新聞 大正14年4月1日」より 
2面3面は見開きで大きく写真が載っています。しかもかなり大味なレイアウト…。写真も真っ黒で何が写ってるかわかりにくいですが、当日の雰囲気を知ってもらいたかったので載せました。今でこそ全面写真は珍しくないですが、当時見開きの全面写真は画期的な試みだったのではないかと思います。
右上の「大大阪の中心」というタイトルの写真は北浜です。向こうに中央公会堂や市庁舎が写っています(おそらく…)。普通に考えるとこの写真が大大阪の象徴する写真かもしれません。

kitahama.jpg
「大阪市100年」より
北浜の写真はおそらくこの写真と同じ場所から撮影されていると思います。


「大大阪」の時代は、関一(せきはじめ)というニューリーダーが現れた事で実現しました。この時代、市民は大阪に誇りを感じ、未来に明るい展望をもっていたように思います。

平松市長!
次の世代の人達にも
明るい展望が持てる大阪に
ガンバってしてやッ!!




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土筆見つけた

2009年02月22日 00:01

土筆、見ィ~つけた。

まだまだ肌寒い日が続いていますが、春はもう始まっているのでしょうか。淀川の堤防を歩いているともう土筆(つくし)が頭を出していました。

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DSC01540.jpg
気付いていましたか?もう出てますよ。

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ここは「なにわ淀川花火大会」が行われている場所です。歩いているだけではなかなか気付きません。しゃがんでみてください。

DSC01551.jpg
あっちでも、こっちでも、にょきにょき。

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ただ、まだ出始めでしょうか。あと1~2週間もするともっとたくさん出てくると思います。

DSC01578.jpg
ここは群生していました。まだまだたくさん出てきそうな場所です。写真には写っていませんが土から頭の先っちょがいっぱい出てました。

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スーパー堤防がほぼ出来てきました。敷かれた芝の上に土が敷かれています。今年の花火大会はこの傾斜を開放してくれたらかなりいいかも。

tsukushi.jpg
私は食べませんので観賞用にプチ剣山にさしてみました。 いいでしょ♪


(追記)
メジロも見つけた。
近所を散歩していると庭先の梅が咲きだしています。
あれっ!よく見るとメジロがとまっていました。

P1100917.jpg
塚本6丁目の辺りです。

P1100937.jpg
この写真は野里です。他にも写真は撮れませんでしたが塚本2丁目でも見つけました。全て梅の木です。こんな街中にもいるんですね。


大きな地図で見る


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(追記)

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さよなら今里屋久兵衛

2009年02月16日 07:00

さよなら今里屋久兵衛

DSC01422.jpg

創業享保十二年(1727年)、あの今里屋久兵衛の本店が
3月をもって移転することになりました。しかしなくなる訳ではありません。
約280年続いている味と暖簾を守るための移転です。

では今里屋久兵衛とは
一体どういうお店なのでしょうか。


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この地に現在の淀川が完成したのは明治43年(1910年)、
来年でちょうど100年になります。それまでは中津川がこの地を流れており、
交通の要所でもあったこの場所は、絶え間なく人々が往来していました。
そこに初めて橋が架けられたのは明治11年(1878年)、
それまでは北岸と南岸を十三の渡しが結び、
その渡しを待つ人々が茶店に腰をかけ、
渋茶をすすって焼き餅を食べたのが「十三焼」の起こりです。

当時は南岸の渡し場が十三で北岸の渡し場は村から離れた場所にありました。
北岸の今里村に住む久兵衛がその渡し場の畔で茶店を開いたのが今から約280年前です。
長い年月の中で世の中は大きく変わってしまいました。
しかし同じ場所で何も変わらない味がここに残ったのです。
それが「十三焼」。ある意味、ひとつの味が280年間も続いているというのは奇跡に近い。
今里屋久兵衛とは、そんなお店なのです。

imazatomap.jpg
明治18年測量の地図です。中津川に架かる橋は明治11年に架橋された十三橋です。
その北詰に民家が見えますが、おそらくここが当時の今里屋久兵衛。
今里村は現在の十三元今里の辺りになります。
小嶋村に神社が見えますが、ここが現在の神津神社です。

(関連記事) 『元の十三の場所』

yakimochi.jpg
「花の下影 幕末浪花のくいだおれ」より
江戸時代末期に描かれたものです。2人づれの旅人が店に入ろうとしているのでしょうか。
店の中ではあんをくるんでいる人と焼いている人が描かれています。
お餅も白と緑が描かれていますね。十三の渡しが奥に見えます。
本には十二代当主の今本フクさんのコメントが書かれていました。
「皮は米の薄いダンゴ。中にあずきのアンコがいっぱい詰まってまして、ひと口で食べられる。
あっさりした味は今も昔も変わりません。
ただ、昔は直径2センチぐらいやったが、今は3センチほどに大きゅうなった」

imazatoya_001.jpg
「中津町史」より
大正時代の写真だと思われます。
昔の今里屋久兵衛の面影を見ることが出来る貴重な写真です。
現在の十三大橋(昭和7年完成)ができる前です。
この頃は橋を渡る人が多かったので、店も繁盛していたようですね。

(関連記事) 
『十三あん焼と十三焼餅』
『十三焼きは十三の歴史そのもの』
『十三大橋の渡り初め』

imazatoya_002.jpg
「米朝ばなし」より
昭和50年代の写真でしょうか。
お餅を焼いておられる方は古くから今里屋久兵衛で働いておられた方で、
現在の十三代目の良子(たかこ)さんも作り方を教わった方のようです。

DSC01430.jpg
お店で良子さんにお話をいろいろ伺いました。とても気さくでお話好きなお母さんです。

お母さんがまだ小さかった頃、店の前に立派な車が止まり、
背の低い人が後ろから降りてきて、10個入りの焼餅を買って行ったそうです。
後で聞くと小林一三さんだったとか。
またある日、店の奥からのぞくと着物を着た綺麗な女性が店内で焼餅を食べていました。
その方は当時松竹新喜劇の看板女優だった浪花千栄子さんだったそうです。
桂米朝さんはあまり甘いものは召し上がらなかったようですが、
ここの焼餅だけはお好きで食べておられたとか…。
「おかあさん、楽しいお話ありがとうございました^^」

anyaki_20090215231538.jpg
「思い出の十三 イラストマップ(部分拡大)」より
戦前の十三駅周辺です。駅前に「今里あんやき」の文字が見えます。
ある時期は十三駅構内でも売っていたそうです。
構内で売れるようになったのは、お母さんのおばあさんにあたる先々代が
小林一三さんに直接申し入れたそうです。すごいなぁ。

P1020022.jpg
現在は十三駅西口改札を出た場所にお店があります。
こちらはずっと営業していますので、「十三焼」を食べたことがない方はぜひどうぞ。
ちなみに10個入り630円です。
もちろん昔と作り方が同じなので余分なものが入っていません。
当日中に食べてくださいね。
オーブントースターで軽くチンすると めっさ美味しい!

DSC01418.jpg
新本店は4月頃、近くの場所に開店予定です。そのときにまた紹介します。
今里屋久兵衛がこの場所を去ることを「寂しくなる」とは書きません。

ありがとうございます。
伝統の味を守り続けてくれて。








…でもやっぱりちょっと寂しい





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新本店が2009年6月にオープンしました。
おめでとうございます♪
090620_01.jpg


より大きな地図で 今里屋久兵衛 新本店 を表示


(関連記事)
今里屋久兵衛の十三焼
さよなら今里屋久兵衛旧本店
さよなら今里屋久兵衛
十三あん焼と十三焼餅
「十三焼」食わずして十三を語るなかれ
十三大橋の渡り初め
元の十三の場所


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