2008年09月29日 06:00
淀川改良工事って?
明治元年、大阪開港条約が発布され、大阪港はいち早く門戸を外国に開放しました。政府は当初、川口波止場を新設します。しかし、旧淀川からの土砂が堆積し船舶の航行を妨げ、数年後には全ての外国船は神戸に奪われてしまいました。そのような背景があり、安治川口に一大築港を起こそうとする機運が高まったのです。その設計に3人のオランダ工師があたり、その中にデレーケがいました。デレーケは大阪築港事業は淀川改修が不可欠であると説きます。これがのちの淀川改良工事に発展していくことになるのです。
デレーケの報告書をベースに、淀川改良工事の実施計画概要を完成させたのは日本人技術者です。そのリーダが沖野忠雄でした。改修工事は全区域を5つの地域に分けて説明しています。
1、瀬田川の工事
川幅を広く水深を深くし、南郷に洗堰を設置し、琵琶湖の水位を調節する。
2、宇治川筋の工事
三川合流点付近で、宇治川を付替え、桂川の合流点を八幡まで下げ、巨椋池を切り離す。
3、八幡町から佐太間の淀川筋工事
4、淀川下流域に新淀川を開削、大川との分岐に毛馬洗堰と閘門を設置。
5、長柄運河を開削し、六軒屋閘門と伝法閘門を設置。
この計画書は明治27年に土木局に提出され、デレーケも検討しているようです。明治29年、この工事を実施する為、新たに河川法が公布、直ちに起工されたのでした。

明治18年測量の地図です。淀川本流は長柄で中津川と淀川に分かれます。両河川ともくねくねしていて、この地域の人たちは昔から洪水に悩まされていました。明治に入っても、明治3年、5年、6年、9年、15年と大洪水がおこり、そして明治18年の洪水は大阪市内の30を越える橋をことごとく流し去るなど、壊滅的な大惨事を引き起こしました。

「おおさか100年」より
明治18年の大洪水で流された天満橋。向こう岸が天満。右の煙突は造幣局の辺りかな。この下流(左方向)の天神橋、難波橋、栴檀木橋、大江橋、淀屋橋、肥後橋などほとんどの橋が流されました。

「大阪市100年」より
明治18年の安治川橋です。左端に写っている橋です。上流から橋梁の木材片が流されてきてここに溜まっています。中央の大きな橋も上流から流れてきたもののようです。右が上流。手前が川口居留地になります。向こうに大きな船が見えますね。安治川橋の橋脚はしっかりと石で出来ていて、橋は鉄製なので持ちこたえていたのでしょう。その後市内に洪水の恐れが生じたため工兵隊により爆破撤去されたそうです。この大水害で淀川改修の声が急速に高まります。

現在の淀川です。

重ねるとわかりますが、海老江、伝法、姫島、野里など主要な地域をうまく避けて新淀川は開削されています。残念なのは、中津地域より上流では多くの村が川に沈みました。旧十三地域もそのひとつです。

「淀川百年史」より 明治13年に撮影されたデレーケの写真です。淀川改良工事の起工式にデレーケの姿はありませんでした。明治30年頃は日本人技師が技術を身につけていました。政府はもう外国人技師を必要としていなかったのです。

毛馬旧閘門の所にある沖野忠雄像

来年大阪で開催される『水都大阪2009』は淀川改良工事100年記念イベントです。

私が小学生の頃、地図には「新淀川」と書かれていたと思います。いつから「淀川」になったのかな。
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明治元年、大阪開港条約が発布され、大阪港はいち早く門戸を外国に開放しました。政府は当初、川口波止場を新設します。しかし、旧淀川からの土砂が堆積し船舶の航行を妨げ、数年後には全ての外国船は神戸に奪われてしまいました。そのような背景があり、安治川口に一大築港を起こそうとする機運が高まったのです。その設計に3人のオランダ工師があたり、その中にデレーケがいました。デレーケは大阪築港事業は淀川改修が不可欠であると説きます。これがのちの淀川改良工事に発展していくことになるのです。
デレーケの報告書をベースに、淀川改良工事の実施計画概要を完成させたのは日本人技術者です。そのリーダが沖野忠雄でした。改修工事は全区域を5つの地域に分けて説明しています。
1、瀬田川の工事
川幅を広く水深を深くし、南郷に洗堰を設置し、琵琶湖の水位を調節する。
2、宇治川筋の工事
三川合流点付近で、宇治川を付替え、桂川の合流点を八幡まで下げ、巨椋池を切り離す。
3、八幡町から佐太間の淀川筋工事
4、淀川下流域に新淀川を開削、大川との分岐に毛馬洗堰と閘門を設置。
5、長柄運河を開削し、六軒屋閘門と伝法閘門を設置。
この計画書は明治27年に土木局に提出され、デレーケも検討しているようです。明治29年、この工事を実施する為、新たに河川法が公布、直ちに起工されたのでした。

明治18年測量の地図です。淀川本流は長柄で中津川と淀川に分かれます。両河川ともくねくねしていて、この地域の人たちは昔から洪水に悩まされていました。明治に入っても、明治3年、5年、6年、9年、15年と大洪水がおこり、そして明治18年の洪水は大阪市内の30を越える橋をことごとく流し去るなど、壊滅的な大惨事を引き起こしました。

「おおさか100年」より
明治18年の大洪水で流された天満橋。向こう岸が天満。右の煙突は造幣局の辺りかな。この下流(左方向)の天神橋、難波橋、栴檀木橋、大江橋、淀屋橋、肥後橋などほとんどの橋が流されました。

「大阪市100年」より
明治18年の安治川橋です。左端に写っている橋です。上流から橋梁の木材片が流されてきてここに溜まっています。中央の大きな橋も上流から流れてきたもののようです。右が上流。手前が川口居留地になります。向こうに大きな船が見えますね。安治川橋の橋脚はしっかりと石で出来ていて、橋は鉄製なので持ちこたえていたのでしょう。その後市内に洪水の恐れが生じたため工兵隊により爆破撤去されたそうです。この大水害で淀川改修の声が急速に高まります。

現在の淀川です。

重ねるとわかりますが、海老江、伝法、姫島、野里など主要な地域をうまく避けて新淀川は開削されています。残念なのは、中津地域より上流では多くの村が川に沈みました。旧十三地域もそのひとつです。

「淀川百年史」より 明治13年に撮影されたデレーケの写真です。淀川改良工事の起工式にデレーケの姿はありませんでした。明治30年頃は日本人技師が技術を身につけていました。政府はもう外国人技師を必要としていなかったのです。

毛馬旧閘門の所にある沖野忠雄像

来年大阪で開催される『水都大阪2009』は淀川改良工事100年記念イベントです。

私が小学生の頃、地図には「新淀川」と書かれていたと思います。いつから「淀川」になったのかな。
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