2008年07月30日 00:30
大阪駅前の歴史(6) 駅前ビル計画篇
昭和33年3月の市会で、大阪駅前地域の第2次土地区画整理事業の構想が明らかになりました。ダイヤモンド地区南部を高層ビルが沿接するビル街につくり変えるというものです。
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この地域の建物種別は、全体889戸のうち一般商店283戸(31.8%)、飲食・遊戯店258戸(29%)、繊維関係252戸(28.4%)、夜間人口は2629人でした。これらの建物を全て潰して高層ビル街にするのですから、地元住民との話し合いはかなり頻繁に行われました。
基本的な構想として、事業施行者(大阪市)が建設し、その一部及び敷地の共有持分を土地所有者及び借地権者に与えるというものです。地元説明会の回数を重ねる内に、大阪駅前の密集化した現況の改良については、総論的に理解されていきます。しかし商売を今のまま続けていけるかどうかについての不安は払拭されませんでした。
次第に反対運動の組織化もはじまります。特に「梅田繊維街対策協議会」については規模も大きく権利形態も複雑で集団移転を含めて市と協議していくことになりました。

「おおさか100年」より
昭和37年頃です。建物の密集状態がよくわかります。阪神ビルが増築工事中のようです。翌年の昭和38年6月に完成し、旧館と合わせて大阪神ビルと呼ばれました。右端のビルは松竹会館です。この映画館が駅前ビルの中に入るかどうかで、ビルの設計が左右されました。

「大阪駅前市街地改造事業誌」より
赤い部分が駅前第1ビルの場所です。家の密集度がわかりますね。平面的な換地ではなく、立体的な換地手法で換地問題を解決しました。

「おおさか100年」より
真ん中の地域が第1ビルの建設予定地です。

「大阪駅前市街地改造事業誌」より
初期の計画パースです。地下2階、地上12階、塔屋4階とし、外観は4棟とも同じでした。

「大阪市の100年」より
昭和42年頃の駅前第1ビル建設現場です。工事の間、周辺に仮設店舗を建設し、各店舗は営業を続けていました。
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(追記)

「大阪駅前市街地改造事業誌」より
桜橋交差点から東方面を望む。着工直前の写真です。昭和39年頃でしょうか。
昭和33年3月の市会で、大阪駅前地域の第2次土地区画整理事業の構想が明らかになりました。ダイヤモンド地区南部を高層ビルが沿接するビル街につくり変えるというものです。
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この地域の建物種別は、全体889戸のうち一般商店283戸(31.8%)、飲食・遊戯店258戸(29%)、繊維関係252戸(28.4%)、夜間人口は2629人でした。これらの建物を全て潰して高層ビル街にするのですから、地元住民との話し合いはかなり頻繁に行われました。
基本的な構想として、事業施行者(大阪市)が建設し、その一部及び敷地の共有持分を土地所有者及び借地権者に与えるというものです。地元説明会の回数を重ねる内に、大阪駅前の密集化した現況の改良については、総論的に理解されていきます。しかし商売を今のまま続けていけるかどうかについての不安は払拭されませんでした。
次第に反対運動の組織化もはじまります。特に「梅田繊維街対策協議会」については規模も大きく権利形態も複雑で集団移転を含めて市と協議していくことになりました。

「おおさか100年」より
昭和37年頃です。建物の密集状態がよくわかります。阪神ビルが増築工事中のようです。翌年の昭和38年6月に完成し、旧館と合わせて大阪神ビルと呼ばれました。右端のビルは松竹会館です。この映画館が駅前ビルの中に入るかどうかで、ビルの設計が左右されました。

「大阪駅前市街地改造事業誌」より
赤い部分が駅前第1ビルの場所です。家の密集度がわかりますね。平面的な換地ではなく、立体的な換地手法で換地問題を解決しました。

「おおさか100年」より
真ん中の地域が第1ビルの建設予定地です。

「大阪駅前市街地改造事業誌」より
初期の計画パースです。地下2階、地上12階、塔屋4階とし、外観は4棟とも同じでした。

「大阪市の100年」より
昭和42年頃の駅前第1ビル建設現場です。工事の間、周辺に仮設店舗を建設し、各店舗は営業を続けていました。
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「大阪駅前市街地改造事業誌」より
桜橋交差点から東方面を望む。着工直前の写真です。昭和39年頃でしょうか。
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