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十三駅長の一番長い日

2008年06月30日 07:30

十三駅長の一番長い日

阪急電車が梅田を出て淀川を渡りきり、十三駅に向う途中に、その線路の下をくぐる形で淀川通り(淀川北岸線)があります。この通りが出来る以前、そこから数メートル淀川寄りに通称“大踏切”と呼ばれる長い踏切がありました。昭和12年、この踏切で前代未聞の大事件が起こったのです。

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当時、この踏切はラッシュ時に上り下り合わせて10分間に18列車が通過するという物凄い場所でした。また、この通りは茨木や高槻方面に通じる街道で、馬車の往来も多く、特に大阪市民の糞尿を北摂の農村に運ぶ牛車がしきりに通っていました。

ある夏の夕方、牛車のひとつが大踏切を渡れず立ち往生していました。そこへ電車が通過、牛車の端っこをはねてしまったのです。幸い牛は難も免れましたが、荷台に積んでいた糞尿が辺り一面に飛び散りました。それだけならまだよかったのですが、当時の電車は冷房がなく窓は全開状態。さらに車内は夕方のラッシュで満員。そこへ突然大量の糞尿が…。

この時の十三駅長さんの対応がすばらしかった。「とにかく、付近の銭湯を借り上げろ」「お客様の住所と電話番号をお聞きして、まず入浴してもらえ」そして、駅員総動員で乗客の家に電話を掛けまくりました。
「実はご主人様が…。なにとぞお着替えを」「お嬢様のお着替えを…」当時はまだ電話の普及率が低い時代です。電話のない家には最寄駅の駅員が、乗客の自宅まで走り、頭を深々と下げて着替えを手に十三駅まで運んで銭湯に届けたそうです。

この話、橋本雅夫氏の『阪急電車 青春物語/草思社(1996年発行)』に「非喜劇・黄金風呂ものがたり」として詳しく書かれています。阪急電車をこよなく愛する著者の想いが伝わってくる本です。

fumikiri_04.jpg
「思い出の十三 イラストマップ」より
(昭和10年~20年頃の十三が描かれています)
当時の大踏切の様子が描かれていますね。電車のラッシュ時は開かずの踏切になったようです。当時、自動車はほとんど走っていません。馬車や牛車、大八車が描かれています。

fumikiri_02.jpg
「蘇るわが街」より
昭和17年頃の空撮です。淀川北岸線はまだ出来ていません。大踏切の場所が確認できます。淀川北岸線との間に水路が確認できます。当時の十三周辺は水路がたくさん残っていました。十三公園の辺りで中島大水道と繋がります。

fumikiri_01.jpg
「Google Earth」より
現在は当然踏切はありません。淀川北岸線十三アンダーパスの拡幅工事が進んでいます。

fumikiri_03.jpg
「思い出の十三 イラストマップ」より
当時の十三駅の近くのあった銭湯を探しました。どの銭湯を借り上げたのかわかりませんが、その銭湯はずっと匂いが抜けず大変だったそうです。

DSC00767.jpg
淀川北岸線十三アンダーパスの拡幅工事現場です。ずーっと一方通行でした。片側が完成した現在も一方通行です。完成は平成21年4月(予定)です。


(追記)
hankyu_85.jpg
「阪急電車青春物語」より
昭和初期の阪急電車です。この電車も窓を全開にしてますね。



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さよなら市電、こんにちは万博

2008年06月26日 07:30

さよなら市電、こんにちは万博。

昭和35年、大阪港~弁天町間の地下鉄工事が始まりました。この工事で明治36年に初めて市電が走った築港線の一部から、市電撤去が始まることになります。昭和37年、第2次都市交通審議会大阪部会が行われ、その翌年に出された答申は「地下高速鉄道整備増強計画の進展に伴い、その路線と重複する路面電車は逐次廃止することが望ましい」というものでした。

昭和38年、国道1号線と四つ橋筋の混雑緩和の為、地下鉄3号線の西梅田延長工事が急遽進められ、明治41年に華やかに開通した南北線も撤去されます。昭和39年、野田阪神~玉川町4丁目、大阪駅前~阪急東口が廃止、それもあってか、予想以上に乗客数が激減していき、赤字が増大していきます。

そんな中、昭和40年9月14日、大阪万国博開催決定というビッグニュースが日本中を駆け巡りました。これにより、大阪の都市交通の拡充が進みます。昭和41年3月29日、大阪市議会は昭和44年3月までに路面電車の全廃を決定。それは大阪万国博覧会が開催されるちょうど1年前になります。

shiden_umeda.jpg
「大阪市100年」より
昭和30年代後半の梅田阪急百貨店前です。市電の前を自動車が、次から次と通り過ぎていきます。これでは市電は走れませんね。

umeshin.jpg
「昭和の大阪」より
昭和41年頃の梅田新道を走る市電です。この路線は、同年7月に廃止されます。

higobashi_00.jpg
「大阪市100年」より
昭和39年春頃の肥後橋です。地下鉄工事と阪神高速道路の工事が同時に行われました。四ツ橋筋を走る南北線は前年の昭和38年に廃止されています。

asahi_64.jpg
「大阪/写真/世紀」より
昭和39年11月の肥後橋です。阪神高速道路ができたてほやほやです。朝日新聞の社屋は4年後に建て替えられます。

chika_40.jpg
昭和40年(1965)頃の地下鉄の開通状況
現在の御堂筋線、四つ橋線、中央線の骨格はもう出来ていました。

osaka_66.jpg
「大阪/写真/世紀」より
昭和41年4月の大阪駅前です。市電の線路がなくなっています。バスの停留所が出来ています。

chika_42.jpg
昭和42年(1967)頃の地下鉄の開通状況
谷町線の一部と中央線の一部が開通します。

chika_43.jpg
昭和43年(1968)頃の地下鉄の開通状況
谷町線が天王寺まで開通。中央線も深江橋まで延びます。

chika_44.jpg
昭和44年(1969)頃の地下鉄の開通状況
この年は驚異的なスピードで開通していきます。千日前線の一部、堺筋線が開通。中央線は全線が開通します。

haishirosen.jpg
昭和40年以降の市電の廃止路線
地下鉄の開通の陰で、市電は少しずつ姿を消していきました。赤い線が最後の路線です。

sayonara.jpg
「大阪市100年」より
昭和44年3月31日市電最後の日。65年の歴史に幕を閉じました。

chika_45.jpg
昭和45年(1970)頃の地下鉄の開通状況
千日前線が全線開通し、御堂筋線が江坂まで延びてます。万博が開催される直前に地下鉄の全線が開通しました。

banpaku_01.jpg
「大阪市100年」より
日本万国博覧会は昭和45年(1970)3月14日から9月13日まで開催されました。江坂駅の先は北大阪急行電鉄になりますが、万博開催中は会場まで繋がっていました。(万博期間終了後、会場線と万国博中央口駅は廃止されています)

banpaku_02.jpg
「大阪市100年」より
私は幼稚園でしたが、万博に行ったことはよく覚えています。我が家のアルバムは万博を期にカラー写真になったと思います。

♪こんにちは こんにちは 西の国から  こんにちは こんにちは 東の国から…♪
『万博』の写真や映像を見ると、いまだにこの歌が頭の中で流れてきます。


(追記)
P1000084.jpg
現在の朝日新聞ビルと肥後橋です。

eigakan.jpg
「昭和の大阪」より
昭和43年の阪急東口停留所です。6枚目の市電最後の日の写真はこの場所だったんですね。

この場所を撮影したサイトを見つけました。
http://www.geocities.jp/eye881/44b/cide-1.htm


(追記)
kaikan_01.jpg
「昭和の大阪」より
HEPナビオの場所ですが、この建物の奥に梅田会館があったわけですね。この正面の建物は現在の阪急交通社?

kaikan_02.jpg
「昭和の大阪」より
梅田会館の前がシネラマOS劇場ですね。現在のナムコシティです。市電最後の日の写真の場所です。手前の工事中の場所は旧富国生命ビルの建設前です。現在も工事中ですね。

umedakaikan_map.jpg
「最新大阪市街区分図」より(年代不明、調べ中)
位置関係の確認用の地図です。

(追記)
umedakaikan.jpg
「大阪は水の都」より
昭和37年の梅田会館前です。梅田会館の写真ってありそうでなかなか出てこないです。あれっ、梅田コマ劇場で放浪記をやってますね。もしかして森 光子さんの?

umedakaikan_02.jpg
「大阪は水の都」より この写真も昭和37年です。

(追記)
koma_02.jpg
「梅田コマスタジアム 36年のあゆみ」より
クレージーキャッツの看板です。昭和42年の公演です。

koma_01.jpg
「梅田コマスタジアム 36年のあゆみ」より
平成3年の写真です。なくなる前年ですね。この前をよく歩きました。コマゴコマシルバーだったかな、ゴッドファーザーPart I 、IIの二本立てを見たのをよく覚えています。


(関連記事)
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いも虫と市電

2008年06月19日 07:30

いも虫と呼ばれた市電

昭和35年10月6日午前9時頃、今まで経験したことのない市電の事件が起ころうとしていました。始まりは中央卸売市場前での数台の車の停滞です。午前11時頃、市内に小雨が降り出しました。そして西区川口町の交差点付近で市電の脱線事故が起こります。

天満~川口、本田一~肥後橋が交通マヒを始めます。そして大阪駅前を中心に、御堂筋線扇町線南北線野田阪神線などが次々と停滞し、道路が自動車でギッシリ詰まってしまいました。これが、北大阪を襲った10時間の交通マヒの現象なのです。自動車のクラクションは鳴りっぱなし、パトカーも身動きが出来ず、消防車も現場へなかなか到着できません。午後3時頃、ようやく小康状態になりましたが、夕方のラッシュでまたマヒが起こり、午後7時すぎまで交通マヒが続きました。この事件をきっかけに、市電の存廃が論議されることになったのだそうです。

mahi.jpg
「最新大阪市街地図(昭和30年)」より
赤線が市電の路線です。

hiru.jpg
「市電ー市民とともに65年」より
小雨の中、ぎっしりと詰まってます。大阪駅前から淀屋橋まで車で5分のところが約40分もかかったそうです。当然、抜け道までぎっしりです。

jyuzu.jpg
「おおさか100年」より
まさに「じゅずつなぎ」。こんな状態なので、南方面の車庫から出て、北へ向った市電はいつになっても戻ってきませんでした。

yoru.jpg
「市電ー市民とともに65年」より
当日の夜の写真です。まだ続いていますが、車間距離が少し開いてきています。

shinbun.jpg
「大阪市営交通90年のあゆみ」より
これは翌年1月の読売新聞の記事です。市電の存廃が各新聞などで取り上げられるようになります。

sakurabashi.jpg
「昭和の大阪」より
昭和37年の桜橋周辺です。年を追うごとに自動車が増えていきます。モータリゼーションの時代に突入していこうとしてます。

yodoyabashi.jpg
「市電ー市民とともに65年」より
淀屋橋を走る3001型の市電です。乗り心地、高加減速、防音いずれの点をとっても最高水準の路面電車でした。いつ頃の写真でしょう。奥の阪神高速道路が工事中のようですね。昭和40年頃の写真でしょうか。

(追記1)
boto.jpg
「昭和の大阪」より
コメントでボートの話題がでましたので追記しました。昭和27年頃の土佐堀川です。向こうに見えるのはなにわ橋と大阪城です。いつ頃までボートで遊べたんでしょうね。

P1090212.jpg
淀屋橋と「かき広」。なぜ「かき広」の名前を出したかというと…

P1090222.jpg
こちらのボートが置いてある場所に「かき広遊船部」と書かれていたからです。私は、土佐堀にボートが浮かんでいるのを見たことがありません。どなたかご存知ですか?

(追記2)
boto_02.jpg
「大阪/写真/世紀」より
昭和30年代前半の写真です。手前の橋は淀屋橋です。栴檀木橋との間にボート置き場が2つあります。

muroto.jpg
「大阪市100年」より
昭和36年9月16日、第2室戸台風が大阪を襲いました。右の建物は大阪市庁舎です。橋は大江橋、川は堂島川です。

koji.jpg
「大阪市100年」より
昭和37年の堂島川左岸の防潮堤かさ上げ工事です。左の建物は日銀、奥は住友生命ビルで、現在の中之島セントラルタワーの場所です。

(追記3)
nakanoshima_02.jpg
「なにわ今昔」より
昭和32年7月に撮影された中之島です。堂島川の北岸にカキ舟が2ヶ所確認できます。コメントでincrescentmoonさんが書かれていた遊覧船の乗り場ってどこでしょう。写っているのかな?手前の水晶橋の向こう側か鉾流橋の向こう側にも乗り場らしきものがありますね。大阪人が水辺を楽しんでいた時代ですね。

(追記4)
osakaclub.jpg
「おおさかタイムトンネル浪速写真館」より
中之島にあった大阪倶楽部ホテルです。これはホテルの裏側です。川は堂島川ですよ。ベネチアみたいですね。

osakaclub_02.jpg
「おおさかタイムトンネル浪速写真館」より
これは正面です。この建物が残っていたら国宝級ですね。

diningroom.jpg
「おおさかタイムトンネル浪速写真館」より
中央公会堂の地階にあった食堂です。この写真は昭和60年頃です。ちょうど私が中之島の近くでバイトをしていた時期で、この時代によくオムライスを食べに行きました。いつも窓際に座ってたなぁ。入って左側でおばちゃんが食券を売っていました。

(追記5)
torii.jpg
「大阪市100年」より
撮影時期が記されていませんが明治35年前後でしょうか。橋は難波橋です。豊國神社の鳥居がここにありました。手前の屋根は大阪倶楽部ホテルの施設の一部でしょうか。石碑は今もこの地にある「木邨長門守重成表忠碑」だと思います。《本の折り目はご勘弁を(笑)》

P1000160.jpg
東洋陶磁美術館の横にある「木邨長門守重成表忠碑」

map1900.jpg
「改正新町名入大阪市新地圖」より
明治33年の地図です。まだ中之島に中央公会堂も市役所もない時代です。

(追記6)
nakanoshima_001.jpg
「大阪は水の都」より
昭和37年に撮影された中之島の通称「太鼓橋」と呼ばれた木橋です。ここから桜之宮、毛馬閘門、道頓堀などへ行く「水都めぐり遊覧」モーターボートが出ていました。コメントにあった遊覧船の乗り場はここかもしれません。向こうに見える橋は天満堀川に架かる「太平橋」です。

P1000196.jpg
「太鼓橋」と呼ばれていた橋です。この橋の名前は「ばら園橋」でいいのかな?

P1000192.jpg
太平橋の親柱が残されています。

P1000197.jpg
その横に昔のも残っています。

nakanoshima_002.jpg
ちなみにこの写真は難波橋下にあった貸ボート屋です。昭和36年頃のようです。「大阪は水の都」より

(おまけ)
nakanoshima_003.jpg
「大阪は水の都」より
昭和36年頃のどんどこ船の写真がありました。

dondo.jpg
今年の天神祭りは行けなかったのですが、たまたまどんどこ船を見つけたので…。


(追記7)
umeda_toilet.jpg
「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
コメントで話題になりましたが、大阪駅前の有料トイレの写真が出てきました。奥の鉄骨は阪急百貨店だそうです。便所でもトイレでもなくトイレットなんですね。


(関連記事)
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