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復活した野田藤

2008年04月27日 04:30

美しく蘇った野田藤

「吉野の桜、野田の藤」と並び称せられるほど有名な野田藤。この藤の花が野田の町から二度もなくなりかけていました。

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野田藤跡の碑が春日神社という小さな神社の片隅に建てられています。野田村の庄屋であった藤家の氏神として祭られたのが春日神社です。藤家は春日神社に隣接して広大な屋敷を持っていました。神社の横を玉川という名の清流が流れており、この辺りは春になると藤の花が咲きみだれ、室町時代より藤の名所として知れ渡っていました。

最初の危機は、天文2年(1533)、21人討死の本願寺騒動で春日社が焼失してしまいました。しかし、わずかに芽を出した藤のひこばえを懸命に手入をし復活したのだそうです。明治に入り急速な都市化で徐々に藤の木が衰退していきます。そして、昭和20年6月の空襲で壊滅的になりました。それでも奇跡的に古木2本がわずかに残ります。しかし、昭和30年代の公害でそれも枯死寸前まで追いやられてしました。昭和45年、大阪福島ライオンズクラブの働きかけにより、大阪市が古木の一本を手厚く育て、起死回生見事な新芽をつけました。復活した藤はこの地域のあちらこちらに移植され、野田は再び藤の名所となっています。

P1070003.jpg
春日神社と野田の藤跡の碑
春日神社、どんな神社かと思えば、こじんまりとしていて春日社の祠といった感じです。撮影は4月21日でまだ咲き始めといった感じでした。

P1070009.jpg
近寄ると藤のいい香りがします。どこか懐かしい香りと思うのは私だけでしょうか。

P1070030.jpg
道を挟んだ向いのマンションの敷地にも藤があります。こちらの房は長く伸びていました。

摂津01
野田春日神社(部分アップ) 「摂津名所図会」より
摂津名所図会は寛政8年(1796)から寛政10年(1798)にかけて刊行されたとあります。そのころは広大な敷地でした。上の方に川が描かれています。この川が玉川でしょうか。画面の左に藤棚が見えます。

摂津02
野田春日神社(部分アップ) 「摂津名所図会」より
右に藤棚が続いています。絵をよく見ると周りの木々にも藤が描かれています。当時は藤棚は少なかったのかもしれません。

福島01
明治18年測量の地図
春日神社の横を流れるのが玉川です。この辺りは野田村の中心でした。

福島02
昭和4年測量の地図
昭和に入ると水路は全て埋め立てられています。

福島03
「Googleマップ」より
新なにわ筋と阪神高速道路が旧野田村を真っ二つにしてしまいました。

noda01.jpg
明治35年頃の野田の藤棚 「写真で見る福島の今昔」より
右側に藤棚が見えます。房が垂れ下がっているのも見えます。

noda02.jpg
昭和初期の藤棚 「野田藤と円満寺文書」より

noda04.jpg
昭和初期の藤棚 「大阪市の100年」より

P1070058.jpg
下福島公園の藤です(撮影日は4月21日)。戦後芽生えた藤はこの下福島公園に多く植えられ、北野高校の校庭などにも植えられたそうです。白い藤の方が早く咲くようです。紫色の藤はまだポツポツ咲き出した程度でした。この公園にはたくさんの藤棚があります。満開の時にまた行こうと思います。

P1070481.jpg
こちらは少し離れた「聖天了徳院」です。撮影日は4月25日です。まだネットが掛かっていますが、もうすぐ取れると思います。こちらは房が長くなってきました。見ごろは5月の頭頃でしょうか。


(追記)
DSC00935.jpg
4月27日にちょっと聖天さんに寄ってみました。ネットが取れていました。

DSC00924.jpg
房が長いですね。どこまでのびるんでしょう。


(追記)
DSC00989.jpg
4月29日の聖天さんです。今が見ごろです。

DSC00995.jpg
4月29日の時点で春日神社はもう終わりそうでした。花が咲いている期間は短いんですね。下福島公園は紫の藤があまり咲いていませんでした。このまま花をほとんど付けずに終わってしまうのでしょうか。

DSC00973.jpg
北野高校のメモリアルウォールの前に野田藤が移築されていました。左の緑のかたまりです。ただ花の房が5つほど見えただけです。花を付けていた形跡も確認できませんでした。野田藤は花をたくさん咲かすのが難しい植物なのかも知れないと感じました。


(追記)
大阪の泉南にすばらしい野田藤があります。
いろいろ検索すると他にも美しい「梶本さんちの野田藤」が見れますよ。
梶本さんちの野田藤
http://www.rinku.zaq.ne.jp/bkama604/fujihozonkai.htm


(追記)
「平成の花咲かじいさん」と呼ばれていた梶本昌弘さんが、平成20年12月30日 お亡くなりになりました。保存会の方に渡したメモには「藤 全部おまかせ 自由に伸び伸びと夢を広げてください」と書かれていたそうです。「ふじまつり」は引き継がれていきます。心からご冥福をお祈りいたします。

(関連記事)
『信達宿の野田藤』 



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初代大阪駅の計画地

2008年04月22日 00:00

初代大阪駅の計画地

初代大阪駅は当初堂島に作られる予定でしたが、堂島周辺から反対運動がおこり、田園地帯であった曽根崎村字天童に計画地が移されたと一般的に言われています。しかし、他にも理由があったようです。

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当初の計画では、堂島の駅は終端駅(ターミナル型)だったようです。神戸~大阪間の開通後、すぐに大阪~京都間を開通させる予定で進んでいました。しかし、時の井上鉄道長官は、日本の将来の鉄道網を考えると、大阪停車場は終端駅(ターミナル型)にするのではなくて通過駅形式にした方がよいとの結論に達していました。そうなると、京都方面へ向かうには、堂島の市街地や曽根崎村、北野村を通り抜けなくてはなりません。しかし、鉄道側には土地買収の財政的な余裕も時間的な余裕もありませんでした。折りしも堂島の鉄道反対運動もあり、堂島の停車場をあきらめ、安価に土地買収ができる曽根崎村に変更したいうことです。

明治5年map2
地図は明治5年の「大阪圖」です。まだ開業前の梅田停車場がすでに記されています。当初の停車場予定地は北大組第15区3丁目。鉄道掛大阪出張所はその隣の敷地にすでありました。緑の路線はターミナル型の場合です。青はこの場所で通過駅形式にした場合です。あくまでも私の想像ですので参考程度に見てください。ただ、中津川の橋梁の位置はほぼ決まっていたので、終端駅の場合の進入路はこんな感じだろうと思います。通過駅形式は自信がありません。この場所ではかなり無理があります。(※正確な計画図が出てきましたら書き直します)

P1070130.jpg
堂島の停車場予定地は現在のNTTテレパーク堂島です。

P1070164.jpg
田蓑橋から見たNTTテレパーク堂島


大きな地図で見る

P1070194.jpg
鉄道掛大阪出張所があった場所は、現在大阪高等検察庁(真ん中の高層ビル)で、そのとなりが「ほたるまち」ですね。

P1070170.jpg
ほたるまち

初代03
初代大阪駅構内 「写された大阪-近代100年のあゆみ」より
長期的にみると通過駅形式が正解だったのでしょう。東京の新橋駅は当初終端駅だったようですが、時代の流れで新たな場所に移動し、元の駅が汐留貨物駅になったのだそうです。

初代01
初代大阪駅 「写された大阪-近代100年のあゆみ」より
左にあるのは茶屋です。右側にも茶屋がありました。正面に大きな木があったんですね。

初代02
明治8年頃の大阪駅 「大阪市の100年」より
駅周辺は草が生い茂る場所でした。右端にある小屋は何なんでしょう。

初代04
「大阪駅の歴史」より
レンガ造りですので外観の色はオレンジ色でした。東京駅の画像を見ながらこの写真を見るとイメージが広がります。

ステンショ絵
大阪府鉄道寮ステン所之図 「写された大阪-近代100年のあゆみ」より
「長谷川小信」作です。赤い札には十三川(中津川)、尼ステン所、西の宮、あしや川、住吉川、かぶと山などの文字が見えます。


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2代目大阪駅

2008年04月18日 00:30

2代目大阪駅は石の駅

明治7年に大阪~神戸間が開通し、明治10年には京都~神戸が開通しました。明治22年には東海道線が全通し、新橋~神戸間が繋がります。当初はごく限られた人だけしか利用していなかった鉄道も徐々に運賃が安くなり、東海道線全通を機に利用者が爆発的に増えていくことになります。初代大阪駅はだんだん手狭になってきました。

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第2代大阪駅の建設工事は明治29年6月に着工し、明治34年7月1日に関連施設も含めて完成しました。初代の駅から約200メートル東に移動した場所で、ほぼ現在と同じ場所になります。初代がレンガ造りであったのに対して、2代目は石造りで豪壮な洋館でした。元あった出入橋付近は貨物専用区域となり、明治32年7月には初代駅舎は取り壊されてしまいます。明治7年に開業して以来「梅田のすてんしょ」と親しまれた駅舎は、25年の歴史に幕を閉じました。第2代大阪駅は、当時の日本銀行大阪支店、泉布観(せんぶかん)と並んで大阪の三名所といわれ、汽車見物がてら人がたくさん集まってきたようです。

二代目01
「写された大阪ー近代100年のあゆみ」より
明治34年、完成直後の写真です。駅前がまだ整備されていません。洋風建築で表は石で造られ、内部はレンガと木材を主建材としてつくられました。木材もヒノキとケヤキの立派な木材を使用していたようです。

二代目02
「写された大阪ー近代100年のあゆみ」より
2代目大阪駅の構内。左のホームが下り、右が上りです。右の建物は助役派出所だそうで、図面をみるとトイレがあったようです。

二代目03
「ふるさとの想い出 写真集」より
手前の列車は貨物のようです。当時は貨物車と旅客車は同じ線路を走っていたようですね。右端を見ると民家が見えます。

二代目04
「ふるさとの想い出 写真集」より
上の写真もそうなのですが、どこから撮影されているのでしょうね。

二代目05
「ふるさとの想い出 写真集」より
右端に市電が見えます。歩いている人の服装に時代を感じます。電柱の上の方がクルッてなっています。

二代目06
「ふるさとの想い出 写真集」より
手前の道は舗装がされていませんね。雨の後はぐちゃぐちゃになったんじゃないかな。手前の木は街路樹でしょうか。道の真ん中にあるような気もしますが、ええカタチをしてますね。

二代目07
「大阪市の100年」より
人力車がいっぱい並んでいます。人力車は大阪で発明されたようです。秋葉大助商店によって製造されていたようで、「大助車」とも言っていたようです。

二代目08
「ふるさとの想い出 写真集」より
まだ箕面有馬電気鉄道は開通していない時代の写真でしょうか。アサヒビールの看板が目立っていますね。

二代目09
「大阪市100年」より
駅前にたくさんあった人力車が自動車に変わっています。おそらく昭和の初め頃ではないでしょうか。3代目大阪駅の歴史的な大工事が始まる直前の時代ですね。

二代目10
「大阪駅の歴史」より
明治32年の上棟式の写真です。記念撮影のようですね。足場にたくさんの人が見えます。



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