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2つの萩の寺

2008年04月15日 01:30

北野にあった2つの萩の寺

その昔、北野には萩で有名な寺がありました。その寺のことを調べている内に違う萩の寺を調べていることに気づきました。そうなんです、北野には萩の寺が2つあったのです。

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江戸時代から北野の萩の寺といえば、円頓寺(えんどうじ・えんとんじ)のことだったようです。場所は大融寺の少し西側になります。この辺りまでが北野地区だったんですね。円頓寺は落語にも出てきます。「鷺とり」という噺で、最近の落語ブームで初心者にも分かりやすくて面白い噺なのでよく掛けられています。当時この辺りは鷺がたくさん集まってくる湿地帯だったようです。

もうひとつの萩の寺は、中津地区(下三番)にあった東光院です。箕面有馬電車唱歌にも歌われた寺で、大正時代に豊中に移転しました。現在も移転先の豊中で、萩の寺として、秋には境内いっぱいに萩の花が咲き乱れています。

萩花盛
北野円頓寺萩花盛之図 「円頓寺物語」より
浮世絵師二代目長谷川貞信の作品で、郷土研究雑誌「上方」の表紙絵です。境内で月夜の萩の花を楽しんでいたのでしょうか。縁台でお茶を楽しんでいるようですね。向こうに見える樹木と屋根は大融寺だそうです。

萩茶屋
円とん寺 萩茶店 「円頓寺物語」より
「花の下影―幕末浪花のくいだおれ」に載っている絵です。当時は茶店が境内にあったようですね。

萩の寺01
「天保新改攝州大阪全圖」より
天保8年(1837)の地図です。大融寺の西側に位置します。寺の周りに水路が描かれていますね。周りは湿地が続いていたのかもしれません。鷺が飛んできてもおかしくないですね。

『面白い男があったもんで、日の暮れるのん待ちかねよってポイッと表へ出ます。松屋町筋をば北へ北へ、天神橋ヒョイッと渡りまして、道を左へとりますといぅと一帯が北野でございます。萩の円頓寺へやってまいります。

夜が更けておりますので、寺門は閉まっております「どっから入いろかいな?」とキョロキョロしてますといぅと、ひょ~しのえぇことに、昼間お仕事をしました左官屋さんが梯子を忘れております。これ幸いと塀に立てかけましてトントントン、もったいない話でございますが、墓石踏み台にしてポイッと下へ飛び降ります。

闇にすかしてジ~ッと池の方を見てみまするといぅと、池には話のとぉりサギがビ~ッシリと居りまして、高いびきで寝ております。サギといぅ鳥は大変警戒心の強い鳥やそぉで、大体なれば必ず一羽用心のために起きているんやそぉですが、その日の日直に当たったといぅか、宿直に当たったサギといぅものが、我々同様いたってえぇかげんなやつで「ここしばらく事故が無ないねぇ」っちゅうことで、皆と一緒に「グォ~……」寝てよったんです。』 「世紀末亭」より


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現在の円頓寺。昔に比べると敷地も狭くなりました。境内には萩もないようです。少し寂しいですね。


大きな地図で見る

萩の寺02
もうひとつの萩の寺 東光院 「大阪市パノラマ地図」より
大正時代を描いた地図ですが、萩ノ寺が描かれています。

♪東風(こち)ふく春に魁(さきが)けて 開く梅田の東口行きかう汽車を下に見て 北野に渡る跨線橋(こせんきょう) 業平塚(なりひらづか)や萩の寺 新淀川の春の風十三堤の野遊びに 摘むやたんぽぽ五月花(げんげばな) …♪

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萩之橋碑
ここは能勢街道で、街道を横切るように水路が流れていました。そこに架かっていたのが萩之橋。萩ノ寺の近くにあるのでこの名が付いたようです。街道の先には富島神社があり、その先に新橋ノ渡しがありました。先は木川になります。


『東光院 萩の寺』 現在は阪急「曽根」駅の近くにあります。


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曽根崎遊郭と林歌子

2008年04月12日 00:30

曽根崎遊郭と林歌子

明治42年7月31日から8月1日にかけてのキタの大火で、曽根崎遊郭は全て焼けてしまいました。その数日後、遊郭を再び再建してはいけないと立ち上がった女性がいました。数年前から廃娼運動や遊郭反対運動を行ってきた大阪矯風会林歌子です。

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大火から2週間後、土佐堀青年会館で第一回曽根崎遊郭廃止市民大会が開催されました。歌子は、約千人の聴衆の前で売春の非人間性と遊郭業者の非道ぶりを訴え共鳴を得ました。そしてその10日後、今度は中之島中央公会堂中之島の公会堂で第二回市民大会を開き、約二千人を集め大盛況に終わったそうです。その後、遊郭再興反対の陳情書を当時の内務大臣に差し出しました。歌子のこれらの活動により、ついに当時の大阪府知事高峰親章は、「人間の性欲上、醜業婦の生ずるのを目下防止することは出来ぬが、しかしこれは公許すべきものでなく、隠密に附すべきである」といって、9月1日、「曽根崎貸座敷公許地ハ之ヲ廃止ス」という公示を出し、廃娼運動は成功したのです。キタの大火から一ヶ月後のことでした。

歌子は失業した公娼たちを婦人ホームに収容し、親切に保護し職業指導をし、すべてちゃんとした職業をもたせて更正させたそうです。林歌子とは、十三の博愛社の社母として、その発展に心血をそそいだ人でもあります。

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林 歌子 68歳の肖像(1931年撮影) 「貴方は誰れ?」より 
前から気になっていた十三の偉人 林歌子さん。今回伝記を読んで、改めて凄い方だなぁと思いました。

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晩年の林歌子さん(中央)と小橋かつえさん(右) 
「博愛社創立百年記念誌」より

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博愛社の聖贖主教会礼拝堂
ヴォーリズの設計としても有名なようですね。

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博愛社の正門。

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敷地内にある社母・林歌子の像
遊郭の関係者には怖いおばはんと思われていたようですが、この像はやさしい表情をされています。孤児の子供達にはやさしいお母さんでした。

(林歌子の関連書)
「福祉に生きる 林歌子」 佐々木恭子著/大空社
「林歌子の生涯 涙とともに蒔くものは」 高見澤潤子/主婦の友社

(追記)
博愛社創立百年記念誌をみると若干異なったことが書かれていますので追記します。
『中之島の公会堂では演説会が開催された。19500人の反対署名も集まり、8月25日には市民大会も開かれた。9月10日「大阪市北区曽根崎新地貸座敷免許地は明治四十三年三月末日限り之を廃止す」という大阪府公示第315号が出され、運動は功を奏した。』

(追記)
コメントの中で豊国神社の話題が出てきましたので写真を追記します。
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豊国神社 「大阪市の100年」より
昭和9年頃撮影された写真です。奥に府立図書館が見えます。

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府立図書館 「なにわ今昔」より
明治時代に撮影された写真です。太閤さんの像が見えます。この像は戦時中、物資供出のため失われたのだそうです。現在の中之島図書館は両サイドが増築されているんですね。


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ツバメが帰ってきた

2008年04月10日 07:00

ツバメが帰ってきました。

十三にちょっと変わった名前の通りがあります。通称「つばめ通り」。今年もその通りにつばめが帰ってきました。

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十三東本通商店街を「つばめ通り」と命名したのは、十三では有名な小竹 武先生です。先生というのは小竹医院の院長先生だから。地元のおばちゃん達は「おおせんせい」と呼んでいます。小竹先生は「淀川ネイチャークラブ」の会長でもあります。「淀川ネイチャークラブ」とは、子供たちとともに、家族で身近な自然とふれあう観察会を行っている集まりです。淀川河川敷には自然が残っています。自然があるから、毎年たくさんのつばめが戻ってくるのですね。

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まだ巣作りの途中です。何度も飛んで行っては戻って補修していました。来週くらいには卵を産むのかも…。

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手前の石碑がある場所が小竹医院です。この通りがつばめ通り。今年はいくつの巣ができるのでしょう。

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つ・ば・め・通。 そうか 「り」 はないのですね。

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左の青い建物が淀川ネーチャークラブの事務所です。となりのとなりの家の軒下に巣を作っていました。

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淀川河川敷で菜の花が今咲いています。種まきが遅かったかな…。

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学校が始まり、金魚すくいも始まりました。元気のいい金魚がいっぱいです。学校が終わったら小学生達が集まってきます。

『「教育大阪 Vivo la Vita」 小竹 武さん』
『淀川ネイチャークラブ』


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