2008年03月30日 03:00
消えた北の新地・蜆川 1
大阪の北新地の真ん中を明治の末頃まで曽根崎川という名の川が流れていました。しかし、その川を曽根崎川と呼ぶ人は少なく、蜆(しじみ)川と呼ばれ親しまれてきました。
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北新地の歴史を語る上で、蜆川の存在は外すことができません。元禄元年(1688)、蜆川の南側にまず堂島新地ができ、その後宝永5年(1708)、蜆川の北側に曽根崎新地が誕生しました。遊女を置く茶屋などがたくさんでき、天保13年(1842)には公許の遊所地となります。「曽根崎心中」のお初も、「心中天網島」の小春もこの新地の遊女でした。
蜆川が埋め立てられることになったきっかけは、明治42年(1909)の北の大火(天満焼け)です。この時、蜆川は焼け跡の瓦礫捨て場となり、 明治45年に上流部分が埋め立てられました。そして大正13年に残りの部分も埋め立てられ、川はその姿を消してしまいました。

「天保新改攝州大阪全圖(1837)」より
落語に「池田の猪買い」という噺がありますが、その中でこんなセリフがでてきます。
「左へ少ぉし行くと淀屋橋といぅ橋があるなぁ。淀屋橋、大江橋、蜆橋と橋を三つ渡る。お初天神の西門のところに「紅う」といぅ寿司屋がある。この寿司屋の看板が目印やなぁ。こっからズ~ッと北へ一本道じゃ。十三の渡し、三国の渡しと渡しを二つ越える。服部の天神さんを横手に見て、岡町から池田じゃ。」 (世紀末亭より引用。)

北の新地 「彩色アルバム明治の日本」より
彩色している珍しい写真です。蜆川の写真は数が少なく、あまり残っていません。どこから撮影しているのでしょうか。向こうに山が見えます。奥が右の方に曲がっているように見えますね。曽根崎橋から東方面を見ているのでしょうか。そうすると山は生駒山ですね。川の水がきれいです。

「大阪圖 明治5年」
北の新地には3つの橋が架かっていました。上流から「蜆橋(堂島橋)」「曽根崎橋」「桜橋」です。弘化年間(1844~1847)には下流まで合わすと10の橋が架かっていました。橋の数の多さから、この辺りがいかに賑わっていたかがわかります。

タイムスリ~ップ!(ゴメンナサイ。パクリです。)

「Googleマップ」より
蜆川が流れていた場所がわかりましたでしょうか。道路が川の跡ではありません。川の跡は埋め立てられ、ビルが建っています。歩いていても蜆川の名残はまったくありません。

この地図の方が蜆川の場所が分かりやすいですね。

梅田新道沿いにある蜆橋跡の石碑です。見過ごしてしまいそうな場所にあります。「珈琲の青山」のところです。

こちらは桜橋跡の石碑です。これはご存知の方も多いのではないでしょうか。向こうに見えるビルは堂島アバンザです。元毎日新聞の場所ですね。でも、この石碑はなぜ傾いているんでしょうね。

6枚目の写真の地図の(1)の場所です。蜆川の記念碑があります。

(2)の場所の新地本通りです。昼間は静かです。

(3)のくねくね道です。明治の時代までこの道沿いに水路が流れていました。私はこんなくねくね道になぜか惹かれてしまいます。昔からずっと続いている道です。梅田には意外とこんなくねくね道が残っています。お初天神通りもくねくねしてヘップファイブまで続いていますね。

お初天神の参道(4)が手前のビルの建て替えできれいになりました。曽根崎心中の時代はこの辺りは森だったんですね。
(関連記事)
『消えた北の新地・蜆川 2』
(追記)

ここは曽根崎橋跡だと思っている場所ですが、道幅が少し狭くなっています。
狭くなっているところがおそらく蜆川が流れていた場所です。
(右から左に流れていました)
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蜆川が埋め立てられることになったきっかけは、明治42年(1909)の北の大火(天満焼け)です。この時、蜆川は焼け跡の瓦礫捨て場となり、 明治45年に上流部分が埋め立てられました。そして大正13年に残りの部分も埋め立てられ、川はその姿を消してしまいました。

「天保新改攝州大阪全圖(1837)」より
落語に「池田の猪買い」という噺がありますが、その中でこんなセリフがでてきます。
「左へ少ぉし行くと淀屋橋といぅ橋があるなぁ。淀屋橋、大江橋、蜆橋と橋を三つ渡る。お初天神の西門のところに「紅う」といぅ寿司屋がある。この寿司屋の看板が目印やなぁ。こっからズ~ッと北へ一本道じゃ。十三の渡し、三国の渡しと渡しを二つ越える。服部の天神さんを横手に見て、岡町から池田じゃ。」 (世紀末亭より引用。)

北の新地 「彩色アルバム明治の日本」より
彩色している珍しい写真です。蜆川の写真は数が少なく、あまり残っていません。どこから撮影しているのでしょうか。向こうに山が見えます。奥が右の方に曲がっているように見えますね。曽根崎橋から東方面を見ているのでしょうか。そうすると山は生駒山ですね。川の水がきれいです。

「大阪圖 明治5年」
北の新地には3つの橋が架かっていました。上流から「蜆橋(堂島橋)」「曽根崎橋」「桜橋」です。弘化年間(1844~1847)には下流まで合わすと10の橋が架かっていました。橋の数の多さから、この辺りがいかに賑わっていたかがわかります。

タイムスリ~ップ!(ゴメンナサイ。パクリです。)

「Googleマップ」より
蜆川が流れていた場所がわかりましたでしょうか。道路が川の跡ではありません。川の跡は埋め立てられ、ビルが建っています。歩いていても蜆川の名残はまったくありません。

この地図の方が蜆川の場所が分かりやすいですね。

梅田新道沿いにある蜆橋跡の石碑です。見過ごしてしまいそうな場所にあります。「珈琲の青山」のところです。

こちらは桜橋跡の石碑です。これはご存知の方も多いのではないでしょうか。向こうに見えるビルは堂島アバンザです。元毎日新聞の場所ですね。でも、この石碑はなぜ傾いているんでしょうね。

6枚目の写真の地図の(1)の場所です。蜆川の記念碑があります。

(2)の場所の新地本通りです。昼間は静かです。

(3)のくねくね道です。明治の時代までこの道沿いに水路が流れていました。私はこんなくねくね道になぜか惹かれてしまいます。昔からずっと続いている道です。梅田には意外とこんなくねくね道が残っています。お初天神通りもくねくねしてヘップファイブまで続いていますね。

お初天神の参道(4)が手前のビルの建て替えできれいになりました。曽根崎心中の時代はこの辺りは森だったんですね。
(関連記事)
『消えた北の新地・蜆川 2』
(追記)

ここは曽根崎橋跡だと思っている場所ですが、道幅が少し狭くなっています。
狭くなっているところがおそらく蜆川が流れていた場所です。
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