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三津屋とクスノキ

2008年01月30日 23:00

三津屋とクスノキ

三津屋は十三の隣町で、中国街道沿いにある町です。その昔は、十三の渡しと神崎の渡しの中間に位置することから、旅人の往来も多くにぎわったことだと思います。

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三津屋には古い町並みが残っています。旧三津屋村の辺りは、道もくねくねしていて、まるで迷路のようです。所々にお寺やお地蔵さんが点在しており、お寺では保育園や幼稚園を営んでいるところも多く、三津屋小学校も町の中心にあるので、夕方ともなるとあちこちから子供が湧いてきます。子供が多い町です。

mituya_map.jpg
明治19年の地図。

光専寺
光専寺(ひかり保育園)
おそらく三津屋で一番有名なお寺ではないかと思います。一般的には、三津屋城址として紹介されることが多いようです。築城は室町時代の1345年頃、楠木正行(まさつら)によって築かれました。楠木正行とは、戦国武将で「太平記」の中でも活躍しています。

光専寺02
光専寺の敷地内に大きなクスノキがありました。古代より日本では高い木の上に神が降り立ってくると考えられていたようです。その木の一つが楠(クスノキ)です。楠木一族と縁があるのでクスノキがあるのでしょうか。

喜光寺
寿光寺(ふたばこども園)
寿光寺の創建は1548年、460年前です。このお寺の敷地内にも大きなクスノキがありました。ひときわ高いのがそうです。手前の木は柳です。

大恩寺
大恩寺(みつやめぐみ幼稚園)
大恩寺は、もとは弘法山大恩寺という真言宗の寺院でしたが、応永年間(1394~1428)の兵火によって焼失し、天文10年(1541)に大内義興の子である祐了が、真宗寺院として再建したと伝えられています。みつやめぐみ幼稚園は有名で、十三や塚本地域からも通っている子供が結構います。写真には写っていませんが、このお寺の敷地内にも大きなクスノキがあります。

御旅所
香具波志(かぐはし)神社御旅所
香具波志神社は加島にある神社です。楠木一族とも縁のある神社で、境内には立派なクスノキがあります。大阪市指定保存樹も2本指定されています。この御旅所にもクスノキがありますね。

HI360108.jpg
町を歩いているとあちこちにクスノキがあります。駐車場の真ん中にもありました。この木を切ったらもう一台車が止めれるのに、木を大切に残しているのですね。

P1020383.jpg
「高圧線通り」のクスノキ。この道は抜け道なのか、交通量が多いです。ここにも立派なクスノキがあります。


(追記)地図の今昔です。
mituya_map01.jpg
明治19年の地図。
がたがたの太い道が中国街道です。

mituya_map02.jpg
現在の地図(Googleマップより)
明治19年の地図を重ねると中国街道がわかります。


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昭和一桁の塚本

2008年01月27日 00:00

昭和一桁の塚本

昭和9年7月20日、国鉄塚本駅が開業しました。それまでの塚本周辺は、一望千里の葦原だったそうです。それに、十三蓮根の発生地として蓮池が散在していたとか。

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塚本駅は西淀川区の玄関駅でもあり、工業地域の発展にともない、乗降人員が爆発的に増えていき、阪神間での乗降人員が第一位になりました。それにともない駅周辺も急激に発展していきます。昭和10年には、塚本土地区画整理組合が結成され、翌年には工事が着工、塚本周辺の農地や水路はどんどん埋め立てられ、新しい道路が出来、家が次々に建てられていきました。

初代塚本駅
昭和9年に完成した国鉄塚本駅(西淀川今昔写真集より)
出典元には初代塚本駅とありますが、開業前の竣功写真でしょうか。駅のホームが見えないので、これ本当に塚本駅?と個人的に思ってるのです。

昭和9年01
昭和9年の塚本駅東側です。
右端にあるのが塚本駅だと思います。左側に高架のトンネルがありますが、花川へはここを抜けていきます。駅周辺の土地はまだ荒れていますね。

下淀川鉄橋
昭和9年の増設工事中の下淀川鉄橋
奥に見えるのが開業間もない塚本駅です。

昭和9年03
昭和9年の塚本周辺の風景
回りはほとんどが畑ですね。左端の大きな屋根は超安寺です。真ん中にある森は塚本の地に古くからあった八阪神社跡の森です。明治42年に富島神社に合祀され神社はなくなってしまいましたが、敷地はまだ残っているようです。右端は北野中学校です。3年前の昭和6年にこの地に移転してきました。

北野中学
昭和6年、竣功間近い北野中学校の新校舎(北野120年史より)
奥に見えるのが中津第三小学校(成小路小学校)。
北野中学校の当時の正門は南側だったんですね。

昭和4年
昭和4年の地図です。
塚本駅も北野中学もまだありませんが、塚本駅の周りは何もなかったことがよくわかります。北野中学の敷地内にある学校は、中津第三小学校(成小路小学校)です。昭和初期までは旧塚本村がこの地域の中心地でした。現在の塚本四丁目です。

昭和17年
昭和17年の航空写真。
数年で塚本地域にたくさんの家が建ちました。八阪神社跡の森は木が伐採され何もありません。

現在
現在の地図(Googleマップより)
八阪神社跡の敷地だった所に、塚本神社があります。敷地はかなり小さくなってしまいましたが、塚本に神社が復活したことはうれしいことです。

超安寺
塚本の超安寺。塚本村に古くからあるお寺です。創建は明暦元年(1655年)、約350年前です。昔は星とりの目薬というのを売っていたそうです。現在の本堂は改築されて立派になっていますが、私が小学生の頃は敷地内は墓地になっており、井戸もありました。当時、習字を地域の子供達に教えており、私も小学3年から6年まで通っていました。習字の後、敷地内をうろうろ探検してました。私が今でも墓地に関心があるのは、この時の影響かもしれません(笑)。



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十三大橋の架橋工事 2

2008年01月24日 00:00

十三大橋の架橋工事 2

鋼材架設工事は、昭和6年4月17日から昭和6年10月31日まで行われました。この工期の延べ作業員の数は18,212人。その内、11,791人が鳶職人でした。

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鉄材は八幡製鉄所で製造されました。架設工事は大阪鉄工所、日本橋梁、汽車製造、横河橋梁製作所の4社が行い、タイドアーチ五連の組立て会社は中津側より、横河橋梁(一連)、汽車製造(二連)、横河橋梁(一連)、汽車製造(一連)。板桁橋は中津側が大阪鉄工所、十三側を日本橋梁がそれぞれ手がけています。架設工事は、タイドアーチを十三側から始め、次に両側のガーダー組立てを同時に開始しました。

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アーチ組立 「十三大橋竣功記念写真帖」 より
十三側から見た写真だと思われます。アーチに木製の足場が設置されています。あまりにもシンプルな足場なのがちょっとびっくりです。なんか怖そう。


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アーチ組立 「十三大橋竣功記念写真帖」 より
タイドアーチの材料は舟より直接吊揚げ、主構の組立てには鉄製デリックが使用されていたようです。

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ガーダー組立 「十三大橋竣功記念写真帖」 より
十三側です。左のアーチの天辺に鳶職人さんが見えます。さすがです。


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ガーダー鉄骨 「十三大橋竣功記念写真帖」 より
なるほど。橋の中はこんな感じで鉄骨が組まれていたんですね。煙突みたいなものは何なんでしょうか?

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橋床工事 「十三大橋竣功記念写真帖」 より
橋床工事は昭和6年9月11日から昭和7年1月15日まで行われました。この写真、ちょうど橋の歩道から撮影されています。普段歩いて渡る時と同じ目線ですね。

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アスファルトブロック舗装工事 「十三大橋竣功記念写真帖」 より
当初はブロックを一つづつ組んでいたんですね。中津側から十三側までこのブロックを敷きつめていたのでしょうか。すごいです。歩道が今より広いような感じがします。

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新旧橋対照 「十三大橋竣功記念写真帖」 より
できたてホヤホヤです。照明器具がおしゃれですね。歩道は人が歩くだけで、自転車は車道です。現在の法律でもそれが正しいらしいですけど、今の十三大橋の車道は自転車では走れないですよね。




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