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十三大橋の架橋工事 1

2008年01月20日 00:00

十三大橋の架橋工事 1

十三大橋の架橋工事は、昭和5年1月着工し、昭和7年1月に竣功しました。旧十三橋と阪神急行電鉄橋梁との間に架かり、長柄運河に架す十三小橋と合わせて架けられ、全長736メートル、幅員20メートル、大阪を代表する橋の一つです。

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橋の土台部分は、大林組が手がけました。橋脚と橋台工事の工期は昭和5年1月6日から同年12月30日まで。この期間の作業員は52,302人。全体の工期の約半分を橋台と橋脚の工事にかけています。橋脚の間隔は、岸に近い部分は33メートル、アーチの部分では65メートルです。これは河川水流の抵抗を少なくするため、すぐ上流の阪神急行電鉄の橋脚と位置を合わせるようにしたためだそうです。ただし、電車の橋脚と比べて、間隔は2倍だそうです。

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昭和5年8月1日 「十三大橋竣功記念写真帖」 より
タイトルに「洪水の景」と書かれています。かなり水位が高いですね。基礎?が出来上がったところのようです。その後、この上に鉄筋コンクリートの橋脚が造られることになります。

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低水敷橋脚工事 「十三大橋竣功記念写真帖」 より
写真の右手前から橋脚まで、仮設の橋が見えます。これで人が移動していたのですね。左端に小屋がありますが、ここにコンプレッサーが設置されています。

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コンプレッサー台船と病院船 「十三大橋竣功記念写真帖」 より
川の中の橋脚工事は水対策が一番大変だったのではないかと思います。危険な作業現場なので病院船も必要だったんでしょうね。
私は、個人的にこの写真の後ろの風景が気になっているんです。後ろにある森は塚本の八坂神社跡の森だと思います。八坂神社の写真はずっと探しているんですが、なかなか見つかりません。いつか八坂神社の写真に出会いたいものです。

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コンプレッサー 「十三大橋竣功記念写真帖」 より
この狭い空間にこれだけ大きなコンプレッサーが設置されていると、稼動しているときはかなりの騒音と熱気だったのではないかと思います。

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洪水敷橋脚工事 「十三大橋竣功記念写真帖」 より
中津側の河川敷はかなりの面積を埋め立てていたんですね。敷地内に線路が見えますね。工事の材料はトロッコで運んだのでしょう。十三橋を渡る人は多いですね。

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大橋橋台工事(下部鉄筋) 「十三大橋竣功記念写真帖」 より
コンクリートが流し込まれています。この時代は当然ミキサー車などはないですから、人力で作業をしていたのでしょうか。

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今の十三大橋です。完成後約75年経ちます。この時代の橋の耐久年数ってどれくらいなんでしょうね。まだまだ大丈夫そうです。



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YouTubeの十三

2008年01月16日 00:00

YouTubeの中の十三

YouTubeの中には十三の情報もいくつかあります。その中で、私が個人的に好きなシリーズがありますので、今日はそれを紹介したいと思います。昔の十三ではありませんが、今の十三のいいところが出ているのではないかと思います。

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Vol.1 十三
坂本九さんが歌う「そして思い出」の歌となぜか十三の町がよく合っています。昭和の雰囲気がよくでています。少し長く、3分49秒あります。




Vol.5 しょんべん横丁
森進一さんの「盛り場ブルース」としょんべん横丁がなんとなくいいです。デビュー前は十三のクラブで歌っていたこともあるとか。こちらは1分38秒です。






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「三丁目の夕日」の時代 2

2008年01月14日 00:30

「三丁目の夕日」の時代 2

昭和34年頃撮影された、十三の航空写真があります。戦後十数年が経ち、焼け野原だった十三の町は戦災復興土地区画整理で道路が整理され、高度経済成長の波に乗ってまさに発展しようとしています。歓楽街になっていく直前の十三の姿を見て見ていきたいと思います。

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戦後、十三の町も闇市が全盛で一般市民はインフレに苦しめられており、公正な市設市場の復興を求める声が強くあがっていました。市は施設の復旧に全力を上げ、昭和21年11月に十三公設市場が再開します。この年、十三本一商店会も設立。娯楽では、十三劇場や十三大映朝日座、OK映画劇場等が開場するなど、十三の町は急速に復興して行くことになります。

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昭和34年頃の十三の航空写真 「大阪の空を飛ぶ」より

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十三ロータリー附近。三和銀行の立派なビルヂングがみえます。交通量もかなり多そうですね。

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新北野の交差点附近。阪急の高架がまだきれいですね。現在、この高架下は拡張工事中です。この高架は東行きの一方通行なのですが、間違って逆走する車をよく見ました。高架の向こうに交番があって、その逆走車を止めるために警察官が走っていくのもよく見ました。結構危険な場所だったんです。

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栄町通り附近。真ん中にある建物は十三劇場と十三朝日座です。その前に煙突が見えます。初音湯という銭湯がありました。十三劇場と十三朝日座は、昭和40年代のボーリングブームの頃に建て替えられてサンポードシティーに変わりました。現在は6階に第七藝術劇場があります。
※第七藝術劇場は、十三のNPO法人「淀川アートネット」が運営する劇場です。「淀川アートネット」とは第七藝術劇場の灯を消すまいとの志で、地元のアートな人々が手をむすび、地元の活性化を図ることめざす団体です。

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十三大橋の北詰です。手前の白い三角形の土地はガソリンスタンドです。向かいの建物の後ろ側に線路と挟まれる形で旧街道が残っています。現在は阪急電鉄の敷地になっています。

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昭和21年の航空写真。
北野中学校と十三公園(その上の黒い所)が見えます。周辺は何も残っていません。左の中央部に住宅地が見えます。中島大水道の下辺りは、白水園住宅だと思います。

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昭和12年の地図。上の航空写真の参考です。

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昭和21年の航空写真。
北野中学校の東側です。この辺りも被害が大きかった場所です。

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昭和12年の地図。上の航空写真の参考です。

公設市場昭和30
昭和30年頃の十三公設市場 「東淀川区史」より
(引用)
戦争末期品枯れのため空店舗が続出し、雑炊食堂となって附近の人々の食生活に貢献したが、幸いに鉄筋のため戦災をの免がれ、再開後おいおい戦前の繁栄を取戻し、二十九年その商店会の活躍によってパラペットの外装と場内の電飾工事が施され、市場美観では全市設四十市場のうち第一位といわれている。

現在は公設市場ではなく、スーパーに変わり、名前も「ピュア13」と変わってしまいました。ただ、私の母親は今だにこのスーパーを「公設市場」と呼んでいます。地元ではそれでも通じると思います。おそらく…



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