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昭和一桁の十三 5

2007年12月24日 07:00

昭和一桁の十三(じうさう) 5

摩天楼を望む

淀川北岸の堤防から大阪方面を望むと、淀川の向こうに高層ビル群が摩天楼のごとく望むことができる。子供の頃から堤防に立ってよく大阪方面を見ていたが、ここ数年で高層ビルや高層マンションが増え、改めて大阪の街も変わったなぁと思うことがある。

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(前文省略)
全く新淀川の堤防は、大阪のためには、格好な遠見のバルコニーである。それは、いかなる大ビルデイングの屋上よりも、すばらしく大きな視界を広げる。延長三里にも余る、このバルコニーの長い柵堤の道は、その南岸と北岸とでは、全く別の風景を見せてゐる。南岸には林立する煙突と、濛々たる黒煙と、直線的な工場乃至ビルデイングの都会風景であるが、北方は、依然錯雑した裏町風景である。殊に十三橋以東の如きは、一本の煙突らしいものもなく、堤防の上から望むと、一帯に見下ろすやうな低い屋根と、細い路次との縦貫風景。見すぼらしい集落がつづいてゐる。

「近代大阪 近畿景観第三編 / 北尾鐐之助」より

十三大橋夕方
十三大橋の袂から見た風景。梅田スカイビルも建設されて約15年になるらしいです。スカイビルができて大阪方面の風景が一変しました。いまでもスカイビルを見ると、建設時に空中庭園部分が徐々に上に上っていく光景を思い出します。インパクトのある建築工法でした。右に見える橋はNTTの回線専用の橋です。

堤防塚本から
塚本周辺からみた風景。梅田北ヤードの開発でここからの眺めもかなり変わるでしょうね。真ん中に見える電波塔は大阪タワーです。朝日放送がある場所です。朝日放送も移転が決まっていますのでこの場所も違う建物ができるのでしょう。

堤防新北野から
新北野の辺りからの眺め。正面に観覧車が見えます。ヘップファイブの観覧車です。その左の高い建物は茶屋町のアプローズタワーです。ホテル阪急インターナショナルや梅田芸術劇場がある建物です。

阪急前昭和初期
「近代大阪」より昭和初期の阪急電鉄前。
昔のニューヨークみたいですね。当時の大阪の賑わいが感じれる写真です。左に見えるのは国鉄の大阪駅でしょうか。

十三中学大正時代
「近代大阪」では十三橋の東方面は何もないようなことが書かれていますが、こんな田園風景でした。この写真は大正12年頃とありますが、ほぼ昭和初期の風景に近いのではないでしょうか。左に見える建物は十三小学校です。手前の水路は中島大水道です。高台から撮影されているので、堤防からか、その近くの建物の上から撮影されているのではないかと思います。

野中大正時代
この写真も大正12年頃の十三周辺です。野中の辺りだそうです。電車は阪急の宝塚線です。真ん中に撥釣瓶(はねつるべ)が見えます。これで井戸水を汲んで、畑に撒いていたのでしょうね。


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昭和一桁の十三 4

2007年12月21日 23:09

昭和一桁の十三(じうさう) 4

アンダーグラウンド

陽のあたる所があれば、影になる所が必ずあります。十三の影の部分も「近代大阪」には書かれています。一部不適切な単語が出てきますが原文のまま引用させていただきます。

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十三では、試みに阪急の電車線路の下をくぐる、ある地下歩道の入口に、十分間も立ってみ給へ。この辺りの生活の階級を知ることが出来るであらう。それは結局大したブルヂョアもない代りに、また大した貧乏人も通らないといふことだ。みな働いてゐる。みな忙しく、みな労(疲)れてゐる。色彩が地味で、派手なものは見当らず、いかにも地下道を潜つて行くのにふさはしい人ばかりである。もつとも、この地下道の入口には、通行人に哀れみを乞うてゐる乞食の婆さんなどをよく見かける。さうすると、殊勝気にたち止って、帯の間からなにがしかのお鳥目をとり出して与へて行く、色っぽい銀杏返しの女などを見受けることもあるが…。

「近代大阪 近畿景観第三編 / 北尾鐐之助」より

地下道
「近代大阪」より十三町の地下道。
昭和7年頃の十三駅の地下道です。この時代だけでなく、私が子供の頃もときどき見かけた風景です。十三の歴史資料としてこのブログを編集していますので、あえてこの写真も載せました。この地下道は子供ながらに胸を痛めながら歩いた記憶が残っています。

駅前
(思い出の十三 イラストマップ~十三駅前周辺)

高架下
現在の地下道。人や自転車の行き来が絶えません。




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昭和一桁の十三 3

2007年12月17日 13:00

昭和一桁の十三(じうさう) 3

十三の大道路

十三大橋の開通にともない、十大放射路線である大阪池田線、大阪伊丹線も完成し、近代的な道路が十三の中心を貫くことになる。十三の町はこの大きな道路によって、劇的に変わっていくことになります。

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十三橋の北の袂にたってみると、新開の大道路によつて、東側にある古い街道は、自然裏道となり、道路に沿つて建ち並んだ店舗は、勢ひくるりと廻り右をして、中には、双方に店の入口をつけた、両面屋と云ったような不思議なものさへ出来た。双方の道が相接するところに来ると、地形に準じて家が三角形になり、それにまた大橋からつづく坂路のため、新道は高く、旧道は低くなり、裏は二階建で、表は平屋建と云った、不思議な、複雑な、引きちぎられたやうな家がつづいてゐる。
これ等の新築家屋は、みな例のコンクリート塗の有平糖のやうな形体を並べてゐる。耳鼻咽喉科医院によろしく、ラヂオと電気の店によろしく、美髪学校によろしく、運道具と蓄音機の店によろしく、オイル・サーヴィスによろしい。すべて古い家のない近代風景であるが、コンクリートの道路が広く、真白な壁の町をつくって、夏の頃などは、目が痛くて歩かれない。町の発展といふものが、みな一様にこんな風にあらねばならぬとすると、私などは少しやりきれない。十三西ノ町の、あの細い盛り場から、ひよつくりとこの大道路に出やうものなら、全く、大河へ放たれた小魚のやうな感じで、いままで歩いてゐる十三の町は、路次のやうに、その入口がどこであつたか分からぬやうなことになる。

「近代大阪 近畿景観第三編 / 北尾鐐之助」より

街道昭和12年
昭和12年の地図です。黄色の道路が大道路と書かれている新しい道路です。緑色の道は旧道路です。水路にも色を付けて分かりやすくしました。水色の○印は「勢ひくるりと廻り右をして」とある辺りです。今里屋には赤の○印を入れました。

街道明治42年
明治42年の地図です。上の地図と比べやすいように、旧道路と水路に色を付けてみました。この地図にある橋は旧の十三橋です。木製の橋で12/16の十三大橋の写真に小さく写っていた鉄製の橋の前に架けた仮橋です。おそらく…

街道イラスト
(思い出の十三 イラストマップ~十三大橋北詰周辺)
水色の○印辺りの店が大道路ができて、後ろ前が反対になった一角です。このイラストは昭和10年~20年の記憶のマップなので、時間が経過しています。大道路沿いに店舗が出来ていますね。水色の○印の所に階段が描かれています。それだけ段差があるのです。「裏は二階建で、表は平屋」と書かれていましたが、かなりに段差があります。。

交差点昭和9年
昭和9年の十三駅前の交差点の写真です。建物の間に細い道らしきものが見えますが、これが商店街の入り口でしょうか。

十三大橋北詰
現在の十三大橋の袂。橋の袂から交差点の方向を見ています。真ん中にある格子状のデザインの建物が今里屋久兵衛です。

ロープや
イラストマップにも描かれていますが、金網とうしと縄・ヒモの店。現在も橋の袂でご商売を続けておられます。





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