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昭和一桁の十三 2

2007年12月16日 00:00

昭和一桁の十三(じうさう) 2

開通した十三大橋

十三大橋の開通は昭和7年、十三橋の架かる旧能勢街道は大阪池田線として拡幅整備されることになり、昭和5年1月に着工し、昭和7年1月に開通した。「近代大阪」に開通当初のことが書かれています。

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(前文省略)

新しく立派になつた十三大橋は、阪急の専用軌道橋と平行して、やや斜めにみたところが、色彩感も、重圧感も一番美事である。阪急電車が十三駅の構内から、漸次、橋にかかるとき、低い構内から堤防に向つて、車が登つて行くに随ひ、やや斜めに中央の扇状構が、堂々として視界に伸び上がつて来るところは立派だとおもふ。
十三橋附近、池田へ行く大道路の改修は、この辺の感覚をすっかり一変させてしまった。愕くべき急転である。名物のやきもち屋も、道路と橋とに対して、その店舗を何とか改築しなければならなくなつた。そして「享保十三年開業=今里屋」の大看板を慌しく上げた。このやきもち屋は、もう一軒橋の南の袂にも同じやうに、古きを誇る店があって、どちらも、本家呼ばはりをしてゐる。享保年間のやきもちに隣りして、昭和年代の新しい「さかまんぢう」が店を開いてゐる。

「近代大阪 近畿景観第三編 / 北尾鐐之助」より

※今里屋に関しては、11月11日のブログを参照ください。南詰めの店のことも書いています。

十三大橋竣工01
十三大橋親柱(絵葉書より)
北詰から見た写真です。この写真、開通当初の写真ではないかと思います。現在はなくなっていますが、ランプのデザインがモダンですね。
(追記)この写真は土木図書館所蔵の写真のようです。

十三大橋竣工02
十三大橋側面(絵葉書より)
南詰から見た写真です。これも竣工当初の写真だと思います。この写真のすごい所は、旧の十三橋が写っていること。淀川改修工事の間、新淀川にはまず木製の仮橋が架けられました。そして明治42年にこの鉄橋が完成したのです。それから20数年後の昭和7年、今の十三大橋が開通しました。
(追記)この写真も土木図書館所蔵の写真のようです。

十三大橋001
現在の北詰から見た写真です。親柱が時代を感じさせます。




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昭和一桁の十三 1

2007年12月14日 23:15

昭和一桁の十三(じうさう) 1

堤防沿いのバス

昭和7年に創元社から刊行された「近代大阪」という本があります。著者は北尾鐐之助。昭和4年から7年頃の大阪の街を歩き、その風景をスナップ写真の様に描写した文章で、近代化していく大阪の記録資料としても貴重な本です。その中に当時の十三の町並みが書かれていました。昭和7年刊行の本なので、漢字が旧字体です。引用させていただくにあたり、新字体に変えました。

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(前文省略)

これからは、十三橋、阪急電鉄を中心として、大阪=池田線の開通に連れ、或ひは西より東の方へ発展して行くであらう。西の方に比べると、すべてが明るく、すべての生活に落ちつきをみせてゐる。殊に新淀川の堤防下に造られた、東西線のアスフアルト道路に沿っては、可なり立派な住宅が軒を並べ、旅館がある。料理店がある。冠木門がある。巨松の立つた庭園がある。尤も(もっとも)さうかとおもふと、製板工場の空地に二、三本ひよろひよろと低い黒松が立つて、パンと珈琲とを売る天幕張(てんとはり)の店がある。蠅の多い硝子箱の上に、小さなラヂオの喇叭(らつぱ)が従来に向つてぽかんと立ち上り、そこからは、景気のよい松内アナウンサーの声が、淀川の空遠く埃りと共に舞ひ上つてゐたりする。

(中略)

堤の下のアスフアルト道を、長柄から川沿ひに、大和田の方まで乗合自動車が通つてゐるが、ときどき乗客のない空車を尻軽くは走らせて、座席には黒い服を着た女車掌がひとり、お嫁にでも行くやうに、キチンと両手を膝に置いておとなしくゆられて行く。鉄橋を渡る汽車と、電車の騒音が、雷のやうな響を立てる。
「近代大阪 近畿景観第三編 / 北尾鐐之助」より


十三東2
(思い出の十三 イラストマップ~十三東周辺)
このマップは昭和10年から20年の十三を描いているのですが、上記の文章と合致する部分があります。堤防沿いに旅館や冠木門、庭園のあるお屋敷らしき家が描かれています。天幕張の店は橋の袂にある屋台でしょうか。線路の下にも屋台があります。これも天幕張っぽいですね。ラヂオから流れる松内アナウンサーとはNHKの松内則三アナウンサーで当時野球や相撲番組の解説で人気を博した方です。


さくらバス東塚本のりば
昭和5年頃の堤防沿いを走る乗合バス(東塚本のりば)奥に見えるのは国鉄の鉄橋。当時は蒸気機関車が煙をはいて走っていました。地元の方はお気づきかもしれませんが、現在は一方通行でこちら向きには走れません。走る車も少なかったのでしょうね。




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落語と十三と菜の花

2007年12月11日 01:32

落語と十三と菜の花

NHKの連続テレビ小説「ちりとてちん」や上方落語が毎日楽しめる「天満天神繁盛亭」の影響か、最近上方落語がちょっとしたブームのようです。上方落語の中に「十三」がでてくる噺があります。今日は、そんなお話を少しだけお付き合い願います。

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桂米朝さんの本に「米朝ばなし 上方落語地図」という本があります。「上方」という言葉は、元来、京都が都であった頃のことで、現在は東京が「上方」になるわけですが、長い習慣で今でも大阪や京都が「上方」呼ばれています。上方落語には、その土地土地に因んだ噺も多く、今とは違う昔のその場所の雰囲気が噺の中に残っています。

「池田の猪買い」という噺の中で、「淀屋橋、大江橋、蜆(しじみ)橋と、橋が三つある。これを渡るとお初天神が見えたあるな。お初天神の西門のところに、紅卯(べにう)というすし屋の看板が見えたある。これが目印や、そこから北へずーっと一本道。まっすぐに抜けたら、それが池田へ行く道や。十三の渡しに三国の渡しと、渡しを二つ越える……」当時の十三は、辺鄙な場所で閑雅な所だったようです。野駆け(今のピクニック)でもしようということになると、大阪の中心からこの辺りまで出かけたようです。十三に行く手前に、鶴野茶屋、萩の茶屋、車の茶屋などがありました。

この辺りは春になると菜の花の美しい野原がずーっと広がっていたとか。それは美しい風景で、それから採れる菜種油は灯篭用にされていて、豊臣秀吉の時代からこの辺りの名物であったようです。

「十三中道」の絵はこちらを参照ください。
http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/

「データベースへ」→「浪花百景」→「十三中道」

「浪花百景」は江戸末期の安政年間(1854~1860)に出版された錦絵で、100ヵ所の大阪風景が描かれており、開版当時は大阪を訪れた旅人の土産として持ち帰られ、全国に流布したといいます。その中に、十三を描いた絵があります。中道とは、二つのものの間の道という意味のようです。十三周辺は田園が広がりその真ん中に街道がありました。この絵は梅雨時の絵でしょうか。この辺りは菜の花でも有名だったようで、春にはそれは美しい風景が広がっていたのだと思います。


明治18年
明治18年の地図。大阪と十三をつなぐ街道。十三の渡しの向こうで中国街道と能勢街道に分かれます。右にある新橋にも渡しがあり、能勢街道はこちらのルートが一般的でした。


クリックすると河川敷の菜の花が見れます。

こちらでは十三の菜の花が見れます。



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