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十三が歓楽街になる前 2

2007年11月29日 00:10

十三が歓楽街になる前 2

「思い出の十三 イラストマップ」の栄町通り周辺をみていきたいと思います。栄町通りは十三のメインストリートです。それは、今も昔も同じだと思います。

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昔はこの通りに映画館が数件並んでいました。戦前は十三劇場、朝日座、光明館が。戦後は十三劇場(松竹)、十三大映朝日座(大映)、OK映画劇場(日活、新東宝)、光洋劇場(東宝)、十三銀映劇場(東映)、十三アカデミー劇場(洋画)、若草映画劇場(洋画)と7つも映画館があった時代もありました。映画の全盛期の時代ですね。今はサンポードシティの上の第七藝術劇場が一件あるだけです。ちなみに、サンポードシティの前身が戦後建てられた十三劇場と十三朝日座です。第七藝術劇場も一時休館していましたが、2002年に地元の人達の支援を受けて再オープンしました。映画村だった十三の大切な劇場なので応援していきたいと思います。

十三劇場イラスト
「思い出の十三 イラストマップ」
昭和10年から20年頃の十三が描かれています。サーカスや相撲も十三で見れたのでしょうか。朝日座ののぼりに五貞楽とあります。宮村五貞楽だと思います。昭和初期に活躍した関西喜劇の大スターだそうです。十三劇場ののぼりにはターザンの逆襲の文字があります。当時大ヒットした映画です。映画館の前にお風呂やさんがあったようです。いい時代の栄町通りですね。

昭和12年地図02
昭和12年の地図です。イラストマップにも描かれていますが、当時は水路がたくさん残っていました。イラストマップの下の松林に(クズ捨て)河太郎の絵が描かれていますが、人が集まる場所なので、川も汚れだしていたのかもしれませんね。
(追記)
「クズ捨て」ではなく「クズ拾イ」でした。河太郎はガタロと読むそうです。落語の「代書屋」というお噺にガタロがでてきます。
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug131.htm
上のアドレスは「世紀末亭」というサイトの「代書屋」のページです。「世紀末亭」は上方落語をテキストで読むことができます。
ちなみに十三の渡しが「池田の猪買い」という噺にでてきます。


十三駅昭和7
昭和7年の十三駅。ホームの屋根は瓦だったんですね。女性の普段着は着物だった時代ですね。

十三駅前昭和9
昭和9年の十三ロータリー。横断歩道なんてありません(笑)。

日活
OK映画劇場。昭和35年頃でしょうか。映画全盛期の栄町の写真を見てみたいです。

ねぼけ
現在のねぼけ堂です。イラストマップにねぼけ堂が書かれていました。戦前からあったのですね。ねぼけ堂という名のお菓子屋さんは各地にありますが、十三のねぼけ堂は暖簾分けした店で、元の店はもうないそうです。ちなみに、隣のお店は喫茶店の泉です。看板娘のおばあちゃんはもういらっしゃいませんが、おばあちゃんが焼いていたたこ焼きは本当においしかった。

ねぼけお菓子
ねぼけ堂の野球カステラと名物の煎餅。いっぱいお菓子があって何を買っていいのかわからなかったので、店の前のワゴンにあった野球カステラを手に、ご主人に店の名物を聞くと、煎餅を進めてくれたのでそれを買いました。

ねぼけお菓子2
それらしくしてみました。野球カステラの形は、帽子、グローブ、ボール、キャッチャーマスク、スコアボードです。素朴で懐かしい味です。煎餅は固くないです。サクサクでご年配の方でも大丈夫。我が家では一瞬にしてほとんどなくなってしまいました(笑)。

栄町2
今の栄町通り。十三の顔です。このギラギラは嫌いではありません。私が子供の頃から十三はもうギラギラしていたような気がします。そんな十三と下町情緒が残る十三のギャップが好きです。

栄町通り
海外の人には魅力的に見えるのでしょうか。映画「ブラックレイン」(1989)の撮影の時は友達に自慢してました。




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消えた中津川 4

2007年11月26日 07:00

消えた中津川 4 木川篇

木川村は能勢街道の要所として発展したところです。能勢街道とは中津を起点とし中津川の新橋渡し(後に新橋が架橋)を渡り、三国、庄内を越え、池田や能勢方面へ続いていきます。木川村はその昔、木寺村と川口新家村の2つの村があり、明治16年に合併する際2村の名の1つずつをとって木川村としたといいます。

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木川の堤防周辺を歩くと、明らかに平坦ではなく隆起している場所があります。今まで見てきた中で一番変化がある所です。古地図と照らし合わすと中津川が「への字」に湾曲していた辺りになります。湾曲した部分だけに、流れの圧力が掛かる部分で、川の決壊を防ぐため堤防をより高く強固なものにしていた可能性があります。

中津木川00
現在の地図と明治18年の地図を重ねています。中津川が「への字」になって、現在の堤防から飛び出している辺りが隆起している地域です。この地図を見ると淀川改修工事でいかに多くの村が消えていったかがわかりますね。中津町の村々です。(現在の地図はGoogleマップより)

中津木川01
現在の地図です。1は木川墓地。2、3、4は地蔵尊。5は隆起が分かる場所です。善久寺と正通院も昔から場所が変わっていないので、後の地図の場所を合わせる参考にしてください。(Googleマップより)

中津木川02
明治42年の地図です。1の墓地は田んぼの真ん中でした。3の地蔵尊は街道沿いにありました。2と4の地蔵尊は木川村の中です。鳥居が3つあります。街道の右側の木川村にあるのは産土神社と天満神社と思われます。墓地の下にあるのは、おそらく小島村の猿田彦神社だと思われます。3つとも明治の末に神津神社に合祀されなくなります。塚本地区でも新淀川に渡しが出来ましたが、木川地区も不便になったので渡しが復活していたようですね。

中津木川03
明治18年の地図。5の辺りをみると、川から堤防を越え民家までの距離が極端に短いのがわかります。他はそれぞれの距離がもう少しあります。なぜでしょうか?おそらく中津川の水面と堤防の高さには、かなりの高低差があったのではないかと考えました。だから、川からこんなに近い場所なのに家を建てれたのだと思います。そうでなければ安心して住めないですよね。

隆起001
現在の5の場所です。右の道と左の道にだんだん高低差ができていきます。おそらくここが中津川の堤防だったのだと思われます。撮影した位置は地図上の5の下の辺りから北東の方向を見ています。

隆起003
左の道を少し進んだ所。緑地帯がありました。右側に工事中の家が数件ありましたが、右側の道路沿いに玄関があるとすると、この道の出入り口は地下になります。

隆起004
高低差が少し分かると思いますが、この土自体がかなり盛ってあります。

隆起002
高低差が分かりやすい壁がありました。壁の上が先ほどの右の道の高さです。2メートルぐらいはあるでしょうか。かなり古い石垣ですね。もしかして、中津川の堤防跡だったりして…

木川墓地
木川墓地です。昔は田んぼの真ん中にあったのですが、今は敷地も狭くなって、交通量の多い淀川通り沿いにあります。ここには戦国武将島左近の供養墓とその孫で中津川の治水に人力を尽くした島道悦の墓碑があり結構有名な墓地です。

2地蔵
2の地蔵尊です。民家の横の歩道の真ん中にあります。向こうに堤防が見えます。昔からここにあったとすると木川村の中にありました。

3地蔵
能勢街道沿いの地蔵尊。昔はこの前を多くの人々が行き来してさぞ賑わっていたのでしょう。今は人通りがほとんどありません。

4地蔵
4の木寺子安地蔵尊。古くから木寺村にあった地蔵尊のようです。淀川改修工事により今の場所に移されたました。このお地蔵さんの後ろ一帯の宅地開発が始まりました。木川の町もどんどん変わっていくのですね。


(追記)
新橋
明治32年撮影。淀川改修工事前の中津川に架かる新橋と十三渡御用帳(中津町史より)
新橋の写真を見つけましたので追記します。北岸からの撮影とあるので手前が木川です。意外と川幅が狭いと思われませんか?実はこの写真、私は対岸が木川だと思っています。明治18年の地図を見ると、橋のたもとに建物が記されています。写真にも同じ場所に建物があります。皆さんはどう思われますか。




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消えた中津川 3

2007年11月24日 18:46

消えた中津川 3 十三篇

十三の渡しがあった川は今の淀川ではなく、その前にこの地に流れていた中津川です。昔から中国街道や能勢街道の通行の要として「十三渡」と木川の「新橋渡」が利用されていました。

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明治11年、中津川に私設の十三橋が完成し十三の渡しはなくなりました。明治後期の淀川改修工事でその橋もなくなります。その後、新淀川に十三大橋(先代の十三大橋)が架橋され、中津川は河川としての機能を失い埋め立てられていきます。中津川の跡を歩きましたが、その痕跡はまったく見当たりません。唯一、土地が隆起している地域がありました。ただ、これが中津川の堤防跡かは不明です。

中津十三01
現在の地図(Googleマップより)。
緑色の辺りが隆起している所です。1は空楽寺周辺。2は銀座通りにある地蔵尊。3はその西側にある地蔵尊。4は元今里墓地です。それぞれ歴史があり、昔からこの地にありました。当時どの辺りにあったかをみていきたいと思います

中津十三02
明治42年の地図です。中津川の埋め立てが進み、明治40年には修徳館の建設が始まっています。緑色の隆起している辺りは、この当時中津川の堤防からは離れており、大野川(中島水道)との間にあたります。2と3の地蔵尊は中津川の堤防沿いにあったことがわかります。元今里墓地も中津川と大野川(中島水道)に挟まれた場所にありました。

中津十三03
明治18年の地図です。緑色の隆起している辺りは、中津川と大野川(中島水道)との間で今里村の辺りになります。細い街道は野里や尼崎方面につながっており、この道しかありませんでした。この地域は昔から水害の多く、少し小高い土地を利用して今里村の集落が出来たのかもしれません。1の空楽寺は、まだここにはありませんでした。

ガレージ神社
1の空楽寺の横のガレージの中にある地蔵尊です。いつからあるのかは不明ですが、昔の今里村集落の中心に位置するので、由緒あるお地蔵さんかもしれません。

空楽寺
空楽寺。1577年に開基とあります。1908年(明治41年)に西区からこの地に移ってきました。

空楽石垣
空楽寺の敷地内にある石垣。この地が平坦でなかったので家を建てるときは、こんな石垣があちこちにあったのではないかと思います。

隆起01
空楽寺の裏の私道。写真ではわかりにくいですが、隆起しています。

隆起02
上の写真の反対方向からみた写真。撮影場所自体が少し坂になっていて、この路地はさらに隆起しているのがわかります。

隆起03
さらにその下から見た写真。左の家をみると高低差がわかります。この道の後ろは大野川跡の道路になります。北から南方面を見ています。

銀座
2の銀座通りにあるみかえり地蔵尊。お社が新しくなりました。

風呂近
3の福智延命地蔵尊。目立つ場所にあって、子供の頃から一番親しみのあるお地蔵さんです。

元今墓地
4の元今里墓地。いつからこの地にあるのでしょう。今里村のお墓です。




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