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大阪城城下町・船場の地形の変遷

2022年11月14日 01:20

大阪城城下町
船場の地形の変遷

大阪市文化財協会(旧称https://admin.blog.fc2.com/control.php?mode=editor&process=load&eno=890#:大阪文化財研究所)の「大阪上町台地の総合的研究」で発表された古地理図を利用して上町台地北端部と船場(せんば)周辺の地形の変遷をできるだけわかりやすく解説したいと思います。地形の変遷を眺めていると船場にある「鰻谷」や「丼池(どぶいけ)」などの地名の由来が見えてくるかもしれません。

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弥生時代後期~終末期の古地理図です。
上町台地の西側に細長い砂州A砂州Bが堆積し、その間の窪地にラグーン(潟湖)が形成されています。砂州Aの北端には砂や礫が堆積して浜堤が形成され周囲より一段高くなっていたようです。上町台地の東側は平野川の河口に位置し砂州が形成され周辺はアシなどが生茂る低湿地帯でした。森の宮遺跡の貝塚がある辺りには縄文時代から続く集落があったようです。

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弥生時代後期~終末期の古地理図に埋没谷を重ねてみました。現在はほとんどが埋められてなくなっていますが、かつては凸凹地形が密集した場所でした。

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古墳時代後期の古地理図です。
上町台地北端部の平坦な土地に法円坂倉庫群がつくられました。ヤマト政権が中国や朝鮮半島との交流が盛んだった時代でもあるのでそれらに関わる倉庫群であったと思われます。ラグーンに港があったと考えられ荷揚げする場所がどこかにあったのでしょう。このラグーンは穏やかで港にするには最適な場所でしたが、北側が土砂などによって堰き止められた可能性が指摘されています。難波の堀江は、上町台地東側の低地の排水不良を解消するために人工的に掘られたと考えられている堀江で、侵食によって川幅が拡張された景観が描かれています。

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飛鳥〜奈良時代の古地理図です。
上町台地の北端部に難波宮が置かれました。台地上は平坦な土地が少なかったので谷が少しずつ埋められていきます。ラグーンが堰き止められて上町台地の谷筋から流れてくる水が溢れて西側に流れ出しました。そこに入江がつくられたと考えられています。道修町付近にあった入江なので道修町入江と呼びます。国際的な湾港であった難波津の場所はいまだに確定されていませんが、三津寺付近にあったという説や高麗橋付近という説が有名ですが、この古地理図では道修町入江に港湾施設があったのではという考えが盛り込まれています。この辺りの地形は、淀川と大和川からの土砂が大量に流れ込むエリアなので、難波津の場所は時代によって移動していったと考えることもできるかもしれませんね。これは新之介説です。

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中世後半の室町時代の古地理図です。
上町台地の北端部には大坂本願寺寺内町が形成され、大川沿いには渡辺津が発展します。この地は水軍・武士団であった渡辺党の本拠地でもありました。船場の辺りは、砂州が堆積して津村や三津村の集落が形成されています。津は港を意味しますので、津村も三津村もはじまりは漁村だったのでしょう。集落の周辺は畠地だったと思われます。

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豊臣後期(1598〜1615年)の古地理図です。
上町台地北端部の谷地形は盛り土などでことごとく改変されました。惣構堀も完成した状態です。東横堀はラグーンを利用して掘られ、東側は猫間川を利用して惣構堀がつくられました。南惣構堀の東側は清水谷の自然地形を利用してつくられています。船場エリアは、北側の標高が比較的高くて安定した場所に家々が建ち並び、南側はまだ家を建てるには不向きな低湿地帯が多く残っていたと思われます。大坂の陣の後に堀川がたくさん掘られますが、それらは土地を嵩上げすることが主な目的でもありました。船場には丼池(どぶいけ)や鰻谷(うなぎだに)といった珍しい地名がありますが、その場所をプロットして過去の地形に重ねたのが次の画像です。

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丼池は難波薬師という寺の境内にあった池の名で、水が溜まりやすい窪地はラグーンの痕跡だったのかも。鰻谷は、砂州と砂州の間にできた細長い谷間がウナギのように長かったので鰻谷となったのかもしれません。三津寺は、御津(みつ)が由来で、日本書紀や万葉集にも港として御津が出てきます。大阪湾側に形成されたラグーンにできた港が難波津だったのでしょうか?北浜は大川沿いの北の浜が地名の由来で古代にできた砂州の高まり。このように地形の変遷を眺めながら地名の由来を探っていくのも面白いかもしれませんね。

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三好長慶の飯盛城と芥川山城をフィールドワーク

2022年11月05日 00:45

天下人・三好長慶の飯盛城と芥川山城

戦国時代に畿内(摂津・山城・河内・和泉・大和)や四国などを支配し最初の天下人とされる戦国武将の三好長慶。その居城であった山城・飯盛城と芥川山城をフィールドワークしてきました。どちらも摂津国と河内国を一望できる素晴らしい場所。当時の痕跡も数多く残っています。ほどよくいい汗がかけるよいコースでした。

飯盛城をフィールドワーク



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四條畷神社

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境内に飯盛城跡への登山道があります。

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ここから登っていきましょう。

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尾根を登っていく斜面はかなり急峻。

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登り切るといい眺めが現れました。

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飯盛山は地質図を見ると花崗閃緑岩のようですね。コアストーンがむき出していました。

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登ってきた場所からは京都方面が見えます。正面に男山と天王山。その奥が京都盆地です。

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少し左に目線を移すと芥川山城方面が見えます。

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ここは堀切。

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堀切とは尾根を遮断する空堀。いまはその堀切の底を歩いてる。

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自然石を使った野面積みの石垣。

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20m以上の長さで続く石垣。一部が豪雨で崩落して応急処置を施している。

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飯盛城と天下人・三好長慶
飯盛城は標高314mの飯盛山に築かれた戦国時代の山城です。城の範囲は東西約400m、南北約700mを測り、大阪府内最大級の規模を誇ります。飯盛城は、享禄年間(1528~32)、河内守護代木沢長政によって築城され、天文20年(1551) に安見宗房が入城した後、永禄3年(1560)、三好長慶が芥川山城(高槻市)から移り、居城としました。 長慶は、近畿と四国の大部分を治め、将軍足利義輝を京都から追放して政治の実権を握った人物で、「最初の天下人」として知られています。長慶の入城後、 飯盛城では大規模な連歌会(飯盛千句)が催されたことや、イエズス会の修道士ロレンソ了斎が長慶配下の武将を洗礼したことなどが記録からわかっています。
飯盛山頂の南側の尾根にはVⅢ郭 (千畳敷郭) を中心とした曲輪が築かれています。 近年行われた発掘調査で建物の礎石や壁土、食器類、茶道具などが見つかっていることから、居住のための空間であったと考えられます。 一方、山頂北側の尾根にはⅠ郭 (高櫓郭)を中心に大小様々な曲輪が階段状に配され、要所に堀切や土橋、切岸などが設けられていることから 防御のための空間であったと考えられます。
Ⅰ郭とV郭 (御体塚郭)を取り巻くように築かれた石垣は、飯盛城が安土城に先行する本格的な石垣づくりの城であったことを物語っています。これらの遺構は、三好長慶によって整備されたものと考えられ、「天下人の城」にふさわしい威容を誇っています。

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広範囲に山城の痕跡が残っていることがよくわかります。

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急斜面の石垣は段築状にして崩れないようにつくられています。

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本郭があった場所からの眺め。六甲山や明石海峡、上町台地がよく見渡せます。当時は手前に広大な深野池がありました。

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高櫓郭があった場所に飯盛城趾の石碑があります。

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堀切と土橋。尾根を分断する堀切に土橋を設けていますが、この土橋を切り崩せば敵に侵入を防ぐことができる。

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飯盛城の南端にある南丸。左側の高まりは土塁。この下は虎口になっています。

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飯盛城の出入口である虎口。入り口の両側にも石垣が残っています。

芥川山城をフィールドワーク



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三好山(芥川山城)への入り口

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ここから登っていきます。

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芥川山城の入り口付近にある堀切と土橋。

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城山城跡の碑の左側にある坂道を少し下がると

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大手石垣があります。中央部が崩れていて下にその石が転がっていました。

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山上は木々が整備されて見晴らしが素晴らしいです。

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正面に生駒山と飯盛城はその下に位置します。

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主郭部は平坦な広場になっていて三好長慶と長慶に仕えた松永久秀を祀った社がありました。西側と北側は急峻な崖で天然の要害であったことがよくわかります。

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芥川山城跡(大字原)
芥川山城跡は三好山(通称城山)にあり、大阪平野を見渡す天然の要害を巧みに利用した戦国時代屈指の城郭である。最高所に主郭を設け、 周囲の郭には土塁や空堀、大手には当時としては珍しい石垣を配置するなど、その偉容を今に伝える。

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永正13年(1516)までに管領細川高国が築城し、家臣の能勢頼則に城を守らせた。その後、阿波・徳島から摂津に進出した三好長慶が、主君である細川晴元に替わって、天文22年(1553)に入城した。長慶は永禄3年(1560)、長子義興に家督を譲り、河内飯盛城に移るまでの約七年間、座城。配下で高槻ゆかりの松永久秀らを重用しつつ、足利将軍家を擁立せずに畿内一円に号令した。さながら城は政権の首都であり、長慶が織田信長に先駆けた天下人とされる所以である。長慶は、眼下の真上村と郡家村の水論(水争い)を裁いたように、地域の人々と向き合う政治に力を注ぐ。堺の商人と交わって、連歌や茶の湯に親しみ、キリスト教を認めるなどの教養を示した。
主郭の発掘調査では、本格的な建物跡がみつかり、戦国時代の城郭のイメージを一変する成果となっている。永禄11年(1568)、三好一族を追った織田信長はまず、この城を目指し、天下の形勢を見定めた後に上洛を遂げた。将軍足利義昭の家臣和田惟政が入城し、高山右近の父である飛騨守を城代とするも、翌年には高槻城へと移り、芥川山城は徐々に役割を終えることになった。

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東大阪をフィールドワーク

2022年05月08日 23:12

東大阪市の高低差をフィールドワーク

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東大阪FW① 新之介のFacebook ページへ↓
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訳あって久しぶりに東大阪市をフィールドワークしてきました。まずは東大阪市との境界近くの大東市住道から。この地は寝屋川と恩智川が合流するかつての舟運の拠点、細長い三角の土地の先端に航海安全の住吉神のお堂があったから角堂浜(すみのどうはま)。それが地名の由来ですが川筋の地形が大きく変わった今もコンクリートの高い塀に囲まれた端っこに住吉神社のお堂があります。そこから東高野街道に向かう途中に平野屋新田会所跡に立ち寄り。中垣内の集落に入り山側の先にいくと中垣内越えの道標がありました。
隣の集落・善根寺にある春日神社には磐座や直越道の碑がありました。そこから300mほど横道にいったところに大きな大坂城築城残石があり「東足立・西社地」と土地の境界などの刻印がいくつか刻まれています。日下に入ると東高野街道から少し山側に神武天皇聖蹟盾津顕彰碑が。神武東征の頃は近くに河内湖の港(津)があったと思われます。日下といえば縄文時代の貝塚が有名ですが、すぐ横に日下川が流れており、集落は河内湾に近くて川が刻んだ谷の高台であったのでしょう。
江戸時代の庄屋・旧河澄家(入場無料・トイレあり)からヒトモトススキの群生地へ。海岸に生える植物が山裾に残ることからかつては海岸線が近かったことの示す植物とされています。すぐ近くには芝山古墳跡の表示板があり、横の住宅地が前方後円墳の古墳跡だろうか。上に登ると見晴らしが素晴らしい。最後に立ち寄った加納の古社である宇波神社は、「波」の字がつくことから北側に湖が広がっていたことが名前の由来だとか。東大阪市の北側の一部だけですが、次は石切さんや枚岡神社周辺をフィールドワークしようかと思っています。

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東大阪FW② 暗越奈良街道(前半)新之介のFacebook ページへ↓
https://www.facebook.com/100063685626419/posts/393037772829074/?d=n
東大阪市を東西にまっすぐ貫くように通る暗越奈良街道。高麗橋が起点となっていますが江戸時代の起点は玉造。大坂と奈良を結ぶ最短コースとして広大な河内低地に点在する集落を結んでいます。今回は自転車と徒歩で暗峠まで往復してきました。総距離62km、前半後半の2回に分けてご紹介します。里程元標跡がある高麗橋から竹内街道の起点でもある難波宮跡を通り玉造稲荷神社へ。伊勢参宮本街道の起点でもあり奈良までは同じコースです。二軒茶屋の前にはかつて猫間川が流れ石橋がかかっていました。国道308号線の脇を通るくねくね道がかつての街道。明治時代の今昔マップが見れるiPhoneのアプリ・スーパー地形を片手に自転車で進んでいくと道標が点在しています。大今里の妙法寺の境内は契沖史跡になっているということで立ち寄り。深江の深江郷土資料館にも立ち寄りました。この地域は菅笠(すげがさ)が有名で、菅の田が復元されていました。この菅を加工した菅編みの技術が受け継がれている地域で、伊勢神宮の式年遷宮や宮中の祭祀である大嘗祭などで菅御笠(すげのおんかさ)や菅御翳(すげのおんさしは)などを収めたそうです。素晴らしい菅細工(すげざいく)の技術に感動。古代氏族の笠縫氏が移り住み菅笠をつくるようになったのだとか。生駒山が近くに見える松原は宿場があった地域で明治時代に宿が廃止されるまで16軒の旅籠があったそうです。生駒の急坂を登ったところに椋ヶ根橋があるのでそこに自転車を置いて歩いて行きます。近くには松尾芭蕉の有名は句碑があります。奈良から大坂に向かって暗峠越えをしたのが芭蕉最後の旅になったといわれています。観音寺の観音延命の水を見た後は、急坂道を歩いて行きます。有名は急坂のくねくね道にはタイヤが空回りした痕が。その先に弘法の水があります。古代からこの道を通る人々の喉を潤してきました。いまもコンコンと水が湧いていますが飲めないようです。手にとってみると冷たくて気持ちいい。もうすぐ暗峠です。峠の写真などは後半へつづきます。

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東大阪FW③ 暗越奈良街道(後半)新之介のFacebook ページへ↓
https://www.facebook.com/100063685626419/posts/393349712797880/?d=n
標高約110mの場所にある椋ヶ根橋から急坂道を1時間ほど歩き、標高約400mの場所にある弘法の水を過ぎると集落が現れます。集落の先にある石畳の峠が標高455mの暗峠(くらがりとうげ)。江戸時代は脇往還として盛んに利用され、20軒近くの茶店や旅籠で賑わいました。名前の由来には諸説ありますが、鞍のような嶺から「鞍ヶ嶺峠」と呼ばれていたものが、木々が生い茂り暗かったことから「暗峠」と呼ばれるようになったといわれています。また「椋ヶ嶺(くらがね)」がなまって「くらがり」になったとも。峠を過ぎて信貴生駒スカイラインのトンネルの抜けると坂道の向こうに奈良盆地が広がります。手前の緑が矢田丘陵、その奥に笠置山地の山々と左側に若草山も見えます。色が少し明るい若草色の場所です。道から下を見渡すと美しい段々畑が広がっていました。
再び来た道を下りて途中から「府民の森なるかわ園地」に入っていくと神津嶽ふれあい広場という休憩所があります。そこからの見晴らしが素晴らしい。すぐ近くの小高い丘の上には枚岡神社神津嶽本宮があります。そこから山道を下ると枚岡山展望台の建物が現れます。ここからの見晴らしは抜群で上町台地のビル群と六甲山のシルエット、さらに大阪湾と淡路島までよく見えました。椋ヶ根橋で再び自転車に乗って河内国の一宮である枚岡神社へ。こちらは水があちこちから沸いているのが印象的です。また奈良の春日大社とも縁が深く狛犬ではなく鹿が石段下の両脇に配置されています。
帰路の途中に「花園多目的遊水池」へ。普段は公園ですが、堤防で囲まれた広大な低地は洪水の時に大量の水が貯留できるようになっています。そこから集落が南北に点在するコースを通って行きます。途中の今米には大和川の付け替えで尽力した中甚兵衛記念碑が、隣接する屋敷林は中甚兵衛ゆかりの家と言われています。古箕輪には水路の交差点と言われる場所が。周辺の低地には井路がいくつも作られ舟が行き交っていましたが、それらは立体交差していたようでこの樋門で水位の調整し各村の井路へ荷物を運んでいたそうです。ラストの写真2点は寝屋川です。河内低地を流れる河川の象徴的な景観ではないかなと思っています。

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東大阪FW④ 石切劔箭神社・辻子谷 新之介のFacebook ページへ↓
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石切劔箭神社から辻子谷を登って興法寺へ向かい、さらに山の裾野に点在する集落をめぐって瓢箪山稲荷神社までフィールドワークをしてきました。
辻子谷の集落は生駒山を越えて宝山寺に至る辻子越えの道に面して発達しています。谷を流れる音川沿いにはかつて水車がたくさん設置され、明治末期から大正にかけての最盛期には44輌もあったといわれます。それを動力として漢方薬や香辛料の粉末製造に利用されてきました。電動化により水車はなくなりましたが、いまでも坂道を歩いていると当時の石積みがたくさん残り、ほのかに漢方薬の香りがしてきます。平成21年度に水車が復活しましたが、残念ながら現在は止まっていました。
そこから山を登り役行者が開基し弘法大師空海が諸堂を整備したと伝わる興法寺へ。さらに、鎌倉時代に建てられた三昧尾石造十三重塔へのコース。かなりハードな登山道でした。
額田の大石神社に立ち寄り、四條の古い町並みを散策して瓢箪山稲荷神社へ。双円墳と呼ばれる形状で南側には羨道の天井石が露出しています。

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東大阪FW⑤ 日下直越道 新之介のFacebook ページへ↓
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直越道(ただごえのみち)とは、河内国と大和国とを結ぶ古代の道のことで、急峻な生駒山地を最短ルートで横切ることとなりかなり険しい道筋になります。古事記や日本書紀に記されている神武東征では、九州を出発した神武天皇が率いる皇軍は、難波の碕を通って草香邑(くさかむら)から上陸し、大和へ入るために直越道を進みますが、途中の孔舎衛坂(くさかえざか)で長髓彦(ながすねひこ)に行く手を阻まれ、紀伊半島を迂回するという話があります。その直越道ですが日下直越道(くさかただごえみち)ではないかといわれています。
昭和15年(1940)、神武天皇が大和国橿原で即位して2600年にあたる事から、神武天皇聖蹟の調査と顕彰の事業が国家事業として行われました。当時の文部省は、全国19ヶ所の聖蹟を公表し顕彰碑を建てることにしましたが、そのうち2つが生駒山の麓に建てられています。以前東大阪をフィールドワークした時に立ち寄った「神武天皇聖蹟盾津顕彰碑」は、神武天皇率いる皇軍が孔舎衛坂の戦いでこの津まで退き、盾を並べて雄誥(おたけび)をあげた場所とされています。この近くに河内湖(草香江)の港があったと思われる場所です。
最初に立ち寄った場所は須波麻(すはま)神社、「波」が使われていますが、水辺を意味する「渚浜/洲浜(すはま)」から転じたのではないかといわれいる式内社の古社です。かつての汀線に近い場所だったことを意味しているのかもしれません。次に立ち寄ったのが善根寺(ぜんこんじ)の春日神社。こちらに直越道の碑があります。この上には阪奈道路が通っていますが、それを跨ぐように旧道が残っています。ほとんど人が歩かない道のようですが、途中に養蜂の巣箱が置かれていました。近寄り過ぎると刺されますので注意してください。私ですか?うかつにも近寄りすぎてちくりとやられました。処置として針が残っているのでそれを抜いて冷やしましょう。数日で腫れは引きます。
さらに歩いて行くと龍の口霊泉にたどり着きました。善根寺日神社の「おだいつまつり」という酒づくりに伴う神事では、この龍の口の清水で酒づくりを行い氏子に配られていたそうです。龍の口霊泉のすぐ手前に神武天皇顕彰碑に向かう道がありますのでそこに入っていきます。しばらく登ると尾根道がありいくつもの道標があります。それをたどって小高い丘に上がって行くと「神武天皇聖蹟 孔舎衛坂顕彰碑」がありました。この地は、神武天皇の皇軍と奈良盆地に入ることを阻む長髓彦(ながすねひこ)軍との合戦が行われた場所として建てられています。再び尾根道に戻って東側の尾根道を進むと五瀬命(いつせのみこと)負傷碑(厄山)があります。五瀬命は神武天皇の兄で、合戦で流矢が五瀬命の肘に当たり皇軍は進軍を続けることができなくなりました。
再び尾根道に戻り谷道へ下っていきます。しばらく歩くと清らかな水が流れる日下川の谷道にたどり着きます。日下直越道はこの谷を登って行くコースになります。かなり険しい道ですので登らずにそのまま谷を下っていきました。
最後に立ち寄ったのは足立氏屋敷跡。足立氏は古代氏族和気氏の末裔と伝えられ、織田信長や豊臣秀吉に仕えていました。敷地は私有地のため入れませんが、四方を囲んでいる堀の一部を見ることができます。

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東大阪FW⑥ 旧大和川跡 新之介のFacebook ページへ↓
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GWを利用して東大阪市をフィールドワークしてきましたが一旦今回が最終回です。今回は旧大和川跡の高低差を歩いていきました。江戸時代中期、元禄17(1704)年に付け替えられた大和川の旧川跡(玉櫛川・菱江川・吉田川)は新田開発のために埋め立てられ削平されました。砂地で米づくりに適さない土壌だったために主に綿の木が植えられ、それらは「河内木綿」として全国に知られる名産となっていきます。しかし、現在ではほとんどが住宅地となっているためその面影はありませんが、当時の堤防跡と思われる高低差がいたるところに残っています。それらを巡ってきました。
スタート地点は若江。南北朝時代に河内国守護であった畠山氏によって築かれた城郭で、戦国時代には石山本願寺攻撃の拠点として使われましたが、その後廃城となっています。若江鏡神社の本殿奥には鏡塚があり、神功皇后が三韓より凱旋のときに鏡を埋めたところという伝承が残っています。
玉串橋のところに第二寝屋川をまたいで水路が通っていますが、これは大和川の付け替え後に旧堤防跡に沿ってつくられた用水路(玉串川)で第二寝屋川に流れ込みますが、一部は川をまたいで玉串川跡を暗渠として流れています。玉串と花園を結んでいた一本道は馬場だったようで、津原神社の解説板では河内三大馬場で両側には老松、大杉、榎の巨木の並木が続いていたと書かれていました。玉串川が菱江川と吉田川に別れていた辺りは比較的高低差がよく残っている場所です。近鉄河内花園駅前にある花園商店街は堤防の上を通っており東側は高低差がよく残っています。周辺をうろうろしながらかつての堤防の姿を妄想しながら歩いてみてはいかがでしょうか。

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