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四天王寺の日想観

2016年03月27日 00:53

海に沈む夕日に極楽浄土を想う

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四天王寺では年に2回、春分の日と秋分の日に日想観(じっそうかん)の法要が行われる。この日は、西門(極楽門)から見てその先にある石鳥居の向こうに夕日が沈むのである。

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四天王寺がこの地に建立されたころは、上町台地の丘の上から海がよく見えていた。その海に沈む夕日の向こうには極楽浄土があり、夕日に浄土の想いをはせる法要が古来より行われてきたのである。

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この辺りは夕日がきれいに見える事から、夕陽丘町という地名も残っている。すぐ近くにある一心寺も、夕日がよく見える丘の上に位置しているが、法然上人が日想観を行うのに最適な地をもとめ、いまの場所にあるのだ。

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2016年3月21日は快晴で最高の夕日を拝むことができ、すこしだけ極楽浄土が見えたような気がした。


光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨
(こうみょうへんじょう じっぽうせかい ねんぶつしゅじょう せっしゅふしゃ)

南無阿弥陀仏



※「日想観」の読みは「にっそうかん」ともいうが、
四天王寺では「じっそうかん」という。
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等高線で空堀(南惣構堀)の場所を探せ

2015年09月09日 00:15

等高線から南惣構堀跡を探してみた

「惣構はもちろん、二の丸・三の丸まで寄せ手の人数で埋め立てよ。その埋めようも、三歳ほどの幼児でも自由に上がり下りができるほど徹底的に行え」とは、大坂冬の陣の和睦後に家康が本多正淳に言ったといわれる言葉です。南惣構堀(みなみそうがまえぼり)は幅が10間(約18m)もあり石垣はなかったと言われています。豊臣期の大坂城の絵図はほとんど残っておらず、ましてや当時の惣構堀が描かれた絵図はまったくといっていいほど残っていません。ですので南惣構堀の場所や形は後に描かれた絵図や古文書等から想定するしかなく諸説あり、いまだに正確なことが分かっていないのです。発掘もほとんど行われておらず、天王寺区上本町3丁目の発掘現場が唯一の惣構堀跡だと言われています。で、私も何度か場所の検証をしていたのですが、今回はカシミール3Dの等高線を利用して場所を探ってみたいと思います。

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カシミール3Dは等高線も表示できます。この地図では1m単位で等高線を入れていて5m毎に太くしています。ちなみに東横堀川右側に見える太い等高線が標高5mです。位置がわかるように発掘現場と空堀商店街、真田丸跡の場所も記しておきます。

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地形図に大阪実測図を重ねたものです。

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黄色の線は高津屋吉右衛門肝煎地と瓦屋藤右衛門請地(瓦土取場)を記したもので、この場所に空堀が存在したと考えられています。(※新修大阪市史より)

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その地形図に大阪文化財研究所の『近世城下町大坂の誕生と拡大』にある「豊臣前期の大坂城下町想定図(松尾作図)」を重ねてみました。左側の黄色の線と掘の場所が重なっているところの等高線をアップで見てみましょうか。なにか見えてきそうです。

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等高線を追っていると堀の痕跡らしき窪みが見えてきませんか。

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黄色線の範囲内で地形の窪みを素直になぞっていくとこんな堀跡が見えてきます。

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発掘現場周辺は盛土のため堀の痕跡はありませんが、ほぼ間違いなくあったであろう場所を赤く記しました。で、残った左側の場所に何かの痕跡らしき跡(a,b)があります。

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(a)の窪みがあやしいのでそれを通って、空堀商店街を通るラインを想定してみました。

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再度、「豊臣前期の大坂城下町想定図(松尾作図)」と重ねてみるとほぼ同じラインである事が分かります。右側のラインが若干いびつになっていますが、黄色線が正しいとして地形の形を鑑みながらラインを引くとこのような形になります。

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今回は等高線と高津屋吉右衛門肝煎地、瓦屋藤右衛門請地にこだわって検証してみました。瓦屋藤右衛門請地に関しては相当量の土が掘られたこともあり等高線のラインがどこまで堀跡と関連しているかはわかりません。この地形図を持って現地を歩くと新たな発見があるかも。なんどかうろうろしている場所ですが、ちょっと実際に歩いてきます。


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秀吉大阪城の南惣構堀の場所検証

2015年08月30日 02:00

南惣構堀の場所再検証

大坂冬の陣の講和の条件で徳川陣営によって徹底的に破却されてしまった南惣構堀(空堀)。そのおおよその場所は分かっているのですが、記録がほとんど残っていないため正確な位置がわかっていません。私も何度か検証を試みているのですが、前回作った南惣構堀の形状がどう考えてもおかしいので今回はその修正データを作りました。

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これが前回のデータです。
何がおかしいかというと、東横堀川との接点に無理がありました。
僊台武鑑の古地図では、長堀川らしき堀の北側に接していたのでそれに合わせたのですが、よく考えてみると長堀川が開削されたのは1625年で、大坂の陣の10年後なんですよね。

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ですので、瓦屋藤右衛門請地と高津屋吉右衛門肝煎地の場所に合わせて素直にラインを引き直してみました。古地図の堀の北側に道が描かれていますが、おそらく土塁の上に作られた道ではないかと思いますのでそれも書き込んでみました。

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東半分はほぼこんな感じだと思うのですが、西半分は瓦屋藤右衛門請地の枠の中にどうやっても収まらない。なので臨機応変にラインを引いていますができるだけ古地図のイメージに合わせています。

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現在の地図に重ねるとこんな感じです。土塁の道と空堀商店街が重なるようにしてみました。

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豊臣時代の正確な地図が存在しないだけに、なんとなくモヤモヤは残ったままなのですが、そんな中でも僊台武鑑の古地図は地形図と照らし合わせてもかなり近いと改めて思いました。堀のラインを入れていない地形図もアップしていますので、みなさんも検証してみてはいかがでしょうか。
ちょっと涼しくなってきましたので、もういちど周辺をフィールドワークして来ようと思います。


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