2008年
02月04日
(月曜日)
グリコを食べて大人になった。
グリコを食べて大人になった。
子供の頃よく遊んでいた場所から国鉄の線路の方を見ると、向こう側にグリコの工場が見えていました。江崎グリコが御幣島(現歌島)に大きな工場を作ったのは、昭和6年です。創業から10年ほどしか経っていませんでした。
続きを読む前にクリックお願いします。 → <人気ブログランキング>
いつもクリック ありがとうございます。
創業者の江崎利一氏は、大正10年に40歳の年齢で大阪に出てきて、ゼロから菓子会社を起こしました。昭和48年まで社長として江崎グリコを引っ張ってきた大経営者です。グリコの始まりは、利一氏が地元の有明海で大量にゆでる牡蠣の煮汁を目にした時にさかのぼります。それに多く含まれるグリコーゲンを広く世の中に広めることはできないだろうか。構想を練るうちに到達した答えは、薬にするのではなく、グリコーゲンを一番必要とする育ち盛りの子供に、それも子供が喜ぶ菓子の中に入れてはどうかというものでした。

昭和6年、竣功間もない大阪工場(江崎グリコ70年史より)
豊崎工場が手狭になり、新たな工場の場所を御幣島(現歌島)に決めました。国道から離れていて、周辺は農地しかない不便な場所であったが、国鉄沿いで電車内からよく見え、宣伝効果があると考えたからだそうです。利一氏は創業当初から宣伝効果をたえず考えておられた方です。

昭和6年の大阪工場(江崎グリコ70年史より)
電車の窓からグリコの巨大な看板が見えました。このシンボルマークも一粒三百メートルというキャッチフレーズも利一氏のアイデアです。アイデアだけでなく、マーケッターでもありました。ちゃんと小学校で子供に意見を聞いて検証していたようです。

昭和7年の包装をしている工場内の風景(江崎グリコ70年史より)
当時は塚本駅がまだ開設されていませんでした。通勤は十三駅と歌島方面が近道であったと記されています。

昭和10年頃の野球大会(江崎グリコ70年史より)
家族主義的経営を目指しており福利厚生も当時から充実していたようです。

昭和7年の新聞広告(江崎グリコ70年史より)
「斯界に雄飛する新工場の偉容 神戸より 見える見えるグリコの工場 やがて大阪」
原稿の右下にある看板から線で引き出して「日本一の人形大看板」と書かれているのがとってもチャーミングです。

昭和20年6月 空襲で全焼した大阪工場(江崎グリコ70年史より)
利一氏は従業員全員を集めて次のように述べられました。「グリコは破産同様になってしまった。しかし、私は悲観していない。工場も機械も焼けてしまったが、さすがの戦火にも焼けなかった資産がある。それはグリコの名前であり、マークであり、ノレンである。われわれが過去20年以上かけて、精魂こめてつくりあげた信用は人々の記憶の中に残され、焼けもせず、なくなっていないはずである。」

昭和29年 大阪工場でのラジオ体操(江崎グリコ70年史より)
戦後は乾パンの製造からスタートし、昭和22年には玩具菓子グリコを復活させました。そして昭和29年3月に大阪株式市場に上場を果たします。

昭和42〜48年のパッケージ(江崎グリコ70年史より)
グリコキャラメルではなくグリコです。これも利一氏のこだわりです。「グリコはキャラメルではなく栄養菓子であり、先発各社(森永、明治)と違う点を強調する名前でないと先発2社を追い越せない」 すごいことを言われる方です。
子供の頃、散髪屋さんで散髪の後にグリコのキャラメルをもらうのが楽しみでした。

昭和44年のグリコアーモンドチェーン(江崎グリコ70年史より)
こんなお店は見たことないですが、当時は駄菓子屋さんでグリコを買った印象がないんですね。おそらく子供のお小遣いで買うには高かったのかな?グリコは買ってもらうものだったような気がします。

現在の工場はこんな看板です。
←ここにも参加しています。クリックお願いします。
子供の頃よく遊んでいた場所から国鉄の線路の方を見ると、向こう側にグリコの工場が見えていました。江崎グリコが御幣島(現歌島)に大きな工場を作ったのは、昭和6年です。創業から10年ほどしか経っていませんでした。
続きを読む前にクリックお願いします。 → <人気ブログランキング>
いつもクリック ありがとうございます。
創業者の江崎利一氏は、大正10年に40歳の年齢で大阪に出てきて、ゼロから菓子会社を起こしました。昭和48年まで社長として江崎グリコを引っ張ってきた大経営者です。グリコの始まりは、利一氏が地元の有明海で大量にゆでる牡蠣の煮汁を目にした時にさかのぼります。それに多く含まれるグリコーゲンを広く世の中に広めることはできないだろうか。構想を練るうちに到達した答えは、薬にするのではなく、グリコーゲンを一番必要とする育ち盛りの子供に、それも子供が喜ぶ菓子の中に入れてはどうかというものでした。

昭和6年、竣功間もない大阪工場(江崎グリコ70年史より)
豊崎工場が手狭になり、新たな工場の場所を御幣島(現歌島)に決めました。国道から離れていて、周辺は農地しかない不便な場所であったが、国鉄沿いで電車内からよく見え、宣伝効果があると考えたからだそうです。利一氏は創業当初から宣伝効果をたえず考えておられた方です。

昭和6年の大阪工場(江崎グリコ70年史より)
電車の窓からグリコの巨大な看板が見えました。このシンボルマークも一粒三百メートルというキャッチフレーズも利一氏のアイデアです。アイデアだけでなく、マーケッターでもありました。ちゃんと小学校で子供に意見を聞いて検証していたようです。

昭和7年の包装をしている工場内の風景(江崎グリコ70年史より)
当時は塚本駅がまだ開設されていませんでした。通勤は十三駅と歌島方面が近道であったと記されています。

昭和10年頃の野球大会(江崎グリコ70年史より)
家族主義的経営を目指しており福利厚生も当時から充実していたようです。

昭和7年の新聞広告(江崎グリコ70年史より)
「斯界に雄飛する新工場の偉容 神戸より 見える見えるグリコの工場 やがて大阪」
原稿の右下にある看板から線で引き出して「日本一の人形大看板」と書かれているのがとってもチャーミングです。

昭和20年6月 空襲で全焼した大阪工場(江崎グリコ70年史より)
利一氏は従業員全員を集めて次のように述べられました。「グリコは破産同様になってしまった。しかし、私は悲観していない。工場も機械も焼けてしまったが、さすがの戦火にも焼けなかった資産がある。それはグリコの名前であり、マークであり、ノレンである。われわれが過去20年以上かけて、精魂こめてつくりあげた信用は人々の記憶の中に残され、焼けもせず、なくなっていないはずである。」

昭和29年 大阪工場でのラジオ体操(江崎グリコ70年史より)
戦後は乾パンの製造からスタートし、昭和22年には玩具菓子グリコを復活させました。そして昭和29年3月に大阪株式市場に上場を果たします。

昭和42〜48年のパッケージ(江崎グリコ70年史より)
グリコキャラメルではなくグリコです。これも利一氏のこだわりです。「グリコはキャラメルではなく栄養菓子であり、先発各社(森永、明治)と違う点を強調する名前でないと先発2社を追い越せない」 すごいことを言われる方です。
子供の頃、散髪屋さんで散髪の後にグリコのキャラメルをもらうのが楽しみでした。

昭和44年のグリコアーモンドチェーン(江崎グリコ70年史より)
こんなお店は見たことないですが、当時は駄菓子屋さんでグリコを買った印象がないんですね。おそらく子供のお小遣いで買うには高かったのかな?グリコは買ってもらうものだったような気がします。

現在の工場はこんな看板です。
2007年
11月20日
(火曜日)
消えた中津川 1
消えた中津川 1 野里篇
今から約100年前に行われた淀川改修工事により、淀川の流路は劇的に変わりました。必要とされなくなった中津川は徐々に埋め立てられ、今では跡形もなく人々に忘れ去られようとしています。野里には中津川があったなごりがわずかに残されています。
続きを読む前に <人気ブログランキング> をクリックお願いします。
住吉神社の境内に中津川の堤防跡が残されています。境内の東面が少し高くなっています。その盛り上がった部分が堤防の跡のようです。元々、神社の東側は中津川に面しており、神社と中津川の間には大和田街道がはしっていました。大阪と尼崎や西宮を結ぶ近道として整備され、中津川を渡るのに野里の渡しが利用されていました。十三の渡しのひとつ下流の渡しになります。
「摂陽郡談」に「野里済(わたり)」はもう記されています。また「摂津名所図会大成」にも「中津川の下流 野里村にあり この街道は大坂より尼がさきにいたる近道なるがゆへに西国往返の旅人兵庫西の宮尼が崎等の諸商人ことごとくこの渡しを越ゆるにより常に行人間断なく 別けて尼がさきの魚商人飛脚をはじめ西宮兵庫の飛脚諸商人日毎に通行して頗る賑わしき道条なり」とあります。

現在の地図に中津川を重ねてみました。塚本地区が中津川と新淀川に挟まれて中州状態になっています。実際、改修工事の時はこういう状態になって不便だったようです。(現在のマップはGoogleマップより)

(鷺洲町史より)年代が記されていなかったのですが、本の発行が大正14年なのでその時の地図かもしれません。徐々に埋め立てられている様子がわかります。

野里付近のアップです。住吉神社が中津川の堤防沿いにあったことがわかります。

野里の住吉神社の正面です。南から北に向かっています。右の道が大和田街道になります。この向こうに野里の渡しがあります。この道の右側が川でした。

正面の鳥居の奥の木が生い茂っている辺り、土が盛られたように高くなっているのがわかりますでしょうか。

この写真は最初の写真の逆方向から見ているのですが、石垣の向こうがこんもり盛土になっているのがわかります。鳥居は東側にあるもので正面のものではありません。

東側の鳥居の奥。盛土がわかりますでしょうか。でも、どちらにしろ、ちょっと堤防を想像するのは難しいかもしれませんね。

タバコ屋さんの店の前に唐突に置かれた石碑。野里の渡しと槲の橋の跡。まわりにそれらしき面影はまったくありませんでした。散歩するワンちゃんのいい標的になっていました(笑)。

住吉神社の対岸になるところです。ここにも堤防の跡が残されていました。石垣がその跡のようで、左側が中津川になります。大きな木はくろがねもち(モチノキ科)で堤防に自生していたものらしく、平成15年に大阪市が「緑の遺産」として保存樹に指定しました。

この道沿いに中津川が流れていました。
(追記)
参考になるかわかりませんが、この辺りの古い写真をそえておきます。

(鷺洲町史より)
海老江新家の写真です。撮影時期はわかりませんが、鷺洲町史が大正14年発行なのでその時期だと思われます。海老江新家とは、今でいうと花川の辺りです。場所が特定できませんが、堤防から見下ろしている感じですね。手前の堤防らしき所は新淀川の堤防かもしれません。

(鷺洲町史より)
中津川旧堤防とあります。上にある「くろがねもち」の写真の石垣に似ています。ただ少し違う感じもします。でも電柱は同じ場所にありますね。みなさんのご想像にお任せします(笑)
←ここにも参加しています。クリックお願いします。
今から約100年前に行われた淀川改修工事により、淀川の流路は劇的に変わりました。必要とされなくなった中津川は徐々に埋め立てられ、今では跡形もなく人々に忘れ去られようとしています。野里には中津川があったなごりがわずかに残されています。
続きを読む前に <人気ブログランキング> をクリックお願いします。
住吉神社の境内に中津川の堤防跡が残されています。境内の東面が少し高くなっています。その盛り上がった部分が堤防の跡のようです。元々、神社の東側は中津川に面しており、神社と中津川の間には大和田街道がはしっていました。大阪と尼崎や西宮を結ぶ近道として整備され、中津川を渡るのに野里の渡しが利用されていました。十三の渡しのひとつ下流の渡しになります。
「摂陽郡談」に「野里済(わたり)」はもう記されています。また「摂津名所図会大成」にも「中津川の下流 野里村にあり この街道は大坂より尼がさきにいたる近道なるがゆへに西国往返の旅人兵庫西の宮尼が崎等の諸商人ことごとくこの渡しを越ゆるにより常に行人間断なく 別けて尼がさきの魚商人飛脚をはじめ西宮兵庫の飛脚諸商人日毎に通行して頗る賑わしき道条なり」とあります。

現在の地図に中津川を重ねてみました。塚本地区が中津川と新淀川に挟まれて中州状態になっています。実際、改修工事の時はこういう状態になって不便だったようです。(現在のマップはGoogleマップより)

(鷺洲町史より)年代が記されていなかったのですが、本の発行が大正14年なのでその時の地図かもしれません。徐々に埋め立てられている様子がわかります。

野里付近のアップです。住吉神社が中津川の堤防沿いにあったことがわかります。

野里の住吉神社の正面です。南から北に向かっています。右の道が大和田街道になります。この向こうに野里の渡しがあります。この道の右側が川でした。

正面の鳥居の奥の木が生い茂っている辺り、土が盛られたように高くなっているのがわかりますでしょうか。

この写真は最初の写真の逆方向から見ているのですが、石垣の向こうがこんもり盛土になっているのがわかります。鳥居は東側にあるもので正面のものではありません。

東側の鳥居の奥。盛土がわかりますでしょうか。でも、どちらにしろ、ちょっと堤防を想像するのは難しいかもしれませんね。

タバコ屋さんの店の前に唐突に置かれた石碑。野里の渡しと槲の橋の跡。まわりにそれらしき面影はまったくありませんでした。散歩するワンちゃんのいい標的になっていました(笑)。

住吉神社の対岸になるところです。ここにも堤防の跡が残されていました。石垣がその跡のようで、左側が中津川になります。大きな木はくろがねもち(モチノキ科)で堤防に自生していたものらしく、平成15年に大阪市が「緑の遺産」として保存樹に指定しました。

この道沿いに中津川が流れていました。
(追記)
参考になるかわかりませんが、この辺りの古い写真をそえておきます。

(鷺洲町史より)
海老江新家の写真です。撮影時期はわかりませんが、鷺洲町史が大正14年発行なのでその時期だと思われます。海老江新家とは、今でいうと花川の辺りです。場所が特定できませんが、堤防から見下ろしている感じですね。手前の堤防らしき所は新淀川の堤防かもしれません。

(鷺洲町史より)
中津川旧堤防とあります。上にある「くろがねもち」の写真の石垣に似ています。ただ少し違う感じもします。でも電柱は同じ場所にありますね。みなさんのご想像にお任せします(笑)
Copyright (C) 2006 十三のいま昔を歩こう rights reserved.
Template&Material:TENTEN★くらぶ
無料ホームページ
アフィリエイト レンタルサーバーFC2ブログ
