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西行と江口の君堂

2009年11月05日 08:00

西行と江口の君堂

江口の君堂に行ったのは今年の春です。

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それが今日までなぜ記事にしなかったかというと、
この話しが平安時代と、めちゃ古いこともあって、簡単に説明しにくかったからです。
本題に入る前に、時代背景と西行法師の説明を簡単にしておきます。

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この 江口の君堂 こと 寂光寺 が有名になったのは
西行法師 遊女 との歌問答が有名になったからです。

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西行(1118~1190)は、出家僧でありながら諸国を渡り歩いた歌人でもあります。
新古今和歌集に94首も載っている大歌人で、家柄もよく、
祖先は藤原鎌足という武士の家系、頭がよく、武士としての技量も一流で、
なおかつ容姿端麗だったとか。
しかし、22歳という若さで妻子を捨てて出家の道に進みました。

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ちなみにこの時代、まだ大阪という名前がありません。
渡辺綱(わたなべのつな)が渡辺氏を起こし、
その子孫が「渡辺党」という水軍も兼ねた武士集団を結成し、
大阪湾岸や淀川を勢力圏として仕切っていた時代です。
( この辺がややこしい…^^; )

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そんな時代の 江口 はというと、
淀川本流と神崎川とが分かれる場所に位置していたことから、
水上交通の要衝としてかなり賑わっていたそうで、
神崎(尼崎)、蟹島(加島)と並ぶ歓楽街、 遊女の里 として栄えました。


さて、ここからやっと本題です ^^;
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時は1167年の平安時代末期、西行法師は天王寺へ参詣する途中、この地を訪れます。
しかし、あいにくの雨。
次第に雨脚が激しくなり、とある粗末な家の戸をたたきました。

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中から出てきた女性は、西行の姿を見て家の中に入れようとしませんでした。

世の中をいとふまでこそ
かたからめ 
仮のやどりをおしむ君かな


( ※ この世の執着を捨てることはあなたにとって難しいでしょうが、
雨宿りもだめだとはあなたは意地悪な人だ )

それに対し、女性のほほえんで

世をいとふ人としきけば 
仮のやどに 
心とむなとおもばかりぞ


( ※ あなたはこの世の執着を捨て出家された方、
一時的であれこんな粗末な家に心とどめるようなことを
なさいませんようにと思ったのです )

※新之介解釈
※歌は東淀川区史より。
ネットで見ると同じ歌が漢字のありなしでいろいろ出てきますね。
ひらがなが読みやすいのでこれにしました。


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この女性は西行に対して、出家したことへの厳しさや覚悟を改めて認識させたのです。
女性は 遊女妙(ゆうじょたえ)として「新古今和歌集」にも出ています。
当時、江口の遊女は都の公卿や貴族と接する機会が多かったようで、
文化レベルの高い人が多かったのかもしれませんね。

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その後、彼女は出家し80歳という高齢で亡くなりました。

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弟子の尼僧たちが、寺の名前を宝林山 寂光寺 と命名しますが戦乱期に消失、
その後、正徳年間(1711~1716)に再興され現在にいたります。

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本堂はその頃のものでしょうか。こちらは代々尼僧が住持されているそうです。

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境内に古い石造が集められていました。

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とても歴史を感じるお寺です。
でも、840年も前のお話なのでいまいちピンとこないですよね。

今の時代だと 「玄関の前でいったい何やっとんねん!」 って
突っ込みたくなりますが、まあ、何かで 西行 が出てきたら
江口の里のことを少しだけ思い出してもらえるとうれしいです。


より大きな地図で 江口の里 を表示


追伸
最後まで読んでくれてありがとう。
今回の記事に関心も持ってもらえる方は少ないかもしれないな…
でも、とても有名な話なので、できるだけわかりやすくしたつもりです。
新古今和歌集がちょっとだけ身近に感じれたらいいんだけど… ^^


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瑞光寺のくじら橋

2009年04月21日 09:45

瑞光寺・雪鯨橋

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東淀川区役所が地元の伝承を絵本にしています。その中に「くじら橋」というお話があります。

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ここは阪急上新庄駅から歩いて数分の所ある瑞光寺(ずいこうじ)。由緒あるお寺です。

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このお寺にはちょっと変わった橋があります。

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それが雪鯨橋(せつげいきょう)。クジラの骨で造られた橋です。

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くじら橋とはこんなお話です…
時は宝暦6年(1756)、4代住職の譚住知忍(たんじゅうちにん)という名僧が紀伊の国の太地浦(たいじうら・和歌山県太地町)を通りかかると、村はクジラが捕れず飢えに苦しんでいました。村長の覚右衛門と網元の次右衛門は偉いお坊さんが訪れたことを知り、涙ながらに祈祷をお願いします。

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しかし、仏の道には生き物を殺すことを禁ずる教えがあるので何度も断りますが、村人が苦しむ姿を見かねて、2週間の祈りを続けました。そして満願の日の朝、水平線が黒く染まるほどの鯨の大群が現れたのです。村人は喜び沖にでます。

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知忍禅師(ちねんぜんじ)は浜に上げられ次々と解体されるクジラの姿を見て呆然と立ち尽くし、こっそりと瑞光寺に戻りました。

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「和尚にお礼をせねば」と覚右衛門達は瑞光寺をたずね、黄金30両と鯨の骨18本を置いて帰ります。知忍禅師は鯨の冥福と生き物の命を大切にするという気持ちをこめて、弘済池(こうさいち)に鯨の骨で橋を造りました。

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という実話です。現在ある橋は6代目。

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古くなるたびに太地町の協力で架け替えられています。

『雪鯨橋のかけかえ作業~鯨骨埋設』 クジラTOPICS
『雪鯨橋が骨付け替え』 ☆大阪百科☆ニュース

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5代目の骨はここに置かれていました。

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こんな所にも骨が。井戸のフタのオモリでしょうか。

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この骨のゲートはおそらく今年からだと思います。

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ところで、このくじら橋は地元の郷土史に関心のある方にはちょっと知られた存在です。

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というのも、こんな小冊子もあるから。
これは淀川区役所が発行している郷土史で、ほぼ全ての大阪市立図書館においています。この冊子は地元にお住まい(私の家の近く♪)の三善貞司(みよしていじ)先生が編者で、地域の郷土史をとてもわかりやすく解説しています。『淀川流域の伝承』には鯨橋のことも書かれています。三善先生は地域史研究者として有名な方です。

淀川区、淀川流域の史跡・伝承に関心のある方はぜひ図書館でお探しください。もっともっと広く読んでもらいたい郷土史です。


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ボンカレー発見!

2009年03月26日 07:30

ボンカレー発見!

私は古い町並みを好んで歩き回っていますが、今まで大阪市内であの看板を見たことがありませんでした。先日、ついにあの方と出会うことが出来ました!

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東淀川区の東端の方をうろうろしている時にちょっとエエ感じの一角を発見。

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イタ――(゚∀゚)――!!

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この商店は、パン、菓子、タバコ、切手など何でも置いているお店。今のコンビニみたいなお店ですね。駄菓子も置いてるのかな。子供が中から出てきました。こういうお店はどの町にも必ずありましたよね。

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ボンカレーは子供の頃大好きだったなぁ。
仁鶴さんのCMを思い出しませんか?
「大五郎、3分間待つのだぞ」というやつ。

ちゃんとホームページで当時のCMが見れるようにしてくれています。
めっちゃ懐かしい!

http://www.boncurry.jp/history/
↑1972年のページにCMがありますよ。
仁鶴さんめっちゃ若い。10回くらいみてしまった^^;


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