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「大大阪観光」に行った?

2009年06月12日 07:00

「大大阪観光」に行って来ました。

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阪急「石橋」駅から歩いて約10分、大阪大学総合学術博物館 待兼山修学館で
昭和12年のモダン都市へ 』という展覧会が開催されています。(入館料無料)

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会期が7月11日(土)まで延長されていました。
パンフレット(PDF)

この展覧会の目玉は、
昭和12年(1937)に制作された「大大阪観光」という
観光映画が観れること。
この映画は大阪市指定文化財に指定されていて、かなり貴重です。
私もずっと観たいと思っていたのですが、機会がありませんでした。
この機会を逃すと次にいつ観れるかはわかりませんよ^^

約30分の映画なのですが、ずっとループして上映しているので
途中から観ても大丈夫。終わったらすぐに最初から始まってくれます。

私はこの時代の写真を結構見ているのですが、
その見慣れた写真が動くんですよ!
めっちゃ感動!
当時の大阪にタイムスリップできました。
(まるでパリの映像を見てるような感じでした♪)
やはり映像はリアリティが違う。

2回観ました^^

映像以外にも、膨大な数の資料も展示しています。

大阪が一番輝いていた時代を映像で見れるチャンスです。
お勧めです。


(関連記事)
大阪が「大大阪」になる前
大阪が「大大阪」になった日
大大阪と御堂筋
昭和の大阪城天守閣の歴史
地下鉄御堂筋線の歴史


(おまけ)
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私は石橋駅で降りたのはたぶん初めてだと思うんだけど、
水路が駅の下を通って、商店街の中を通り抜けてるんですね。
覗き込むを魚がいました。たぶんカワムツだと思うんだけど
商店街に水が流れてるなんて、結構好きかも…。
川づたいを2往復しました^^

(追記)
大阪市交通局 昭和レトロ映像②というDVDに「大大阪観光」が収録されていました。
下記でダイジェスト映像がみれます。
『大阪市交通局 昭和レトロ映像 ②』


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大阪城の歴史

2009年04月02日 08:37

昭和の大阪城天守閣の歴史

昭和2年(1927)、昭和天皇の御大典(ごたいてん)の式典が行われる事が発表され、昭和3年11月にそれが行われました。全国の都道府県市町村では記念事業が行われ、大阪府では大規模な植林事業が行われています。大阪市はこの時たいへんユニークな記念事業を行ったのです。

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関一(せきはじめ)大阪市長は、失われた太閤時代の天守閣を復興しようではないかと提案しました。それも市民に寄付を呼びかけ、建物の中に大阪の歴史を示す歴史資料館にしようというものです。昭和3年2月、大阪市会において満場一致で可決され、8月から市民に寄付金の呼びかけが行われました。当時大阪は経済的に厳しい状況でしたが、この事業は大変な反響を呼び、半年後には目標額の150万円が集まったそうです。一番の大口は住友財閥の住友吉右衛門氏の25万円だったとか。おそらく今のお金に換算するとビックリする額です。

当時の大阪城内は今と違って、軍用地だったので一般市民は入れませんでした。そこに観光客が入ってくるのですから、軍部も簡単にOKとは言いません。しかし昭和天皇の御大典記念事業です。軍部はいくつかの条件を付けて応じざるを得ませんでした。その条件で建てられたのが今も大阪市立博物館として残る第四師団司令本部の本庁舎です。この建設費は募金額の約6割、80万円が使われました。ちなみに天守閣の建設費は約47万円、残りは公園等の整備などに使われたそうです。

昭和6年、市民の寄付でつくられた天守閣は竣工します。しかしこの年、満州事変が勃発、昭和12年には日中戦争に突入します。昭和15年になると大阪城内の規制が厳しくなり、昭和17年には天守閣は軍部に明け渡す事になりました。日本はとても悲しい時代に突入していくことになったのです。

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「写された大阪-近代100年のあゆみ」より
天守閣が建築される前の大阪城です。敷地内にびっしり建てられているのは軍の施設です。

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「大阪市100年」より
鉄骨が組み上がっています。敷地内は曲がりくねっているので鉄骨等が運び込めません。京橋口からロープウエーをつくって資材を運んだそうです。写真左の鉄骨の柱はそれなのかな?

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「大阪市100年」より
かなり組み上がっています。手前の木は桜でしょうか。満開のようですね。まだあるのかな?

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「写された大阪-近代100年のあゆみ」より
この建物は陸軍第四師団本部。元々和歌山城にあった紀州御殿を明治中頃に移設したものだそうです。奥に天守閣の鉄骨が見えますね。

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「写された大阪-近代100年のあゆみ」より
手前の建物は天守閣と同時期に建てられた陸軍第四師団司令部の本庁舎。本丸内にあったたくさんの倉庫等の建物が全て取り壊され、この新庁舎に移されました。

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「大阪市100年」より
竣工です。当時大阪市内で大きな建築物は8階建てくらいでしょうか。この天守閣は高さが55メートル、ビルの高さでいうと12~3階の高さです。また、石垣にはいっさい重量が掛からない工法をとっているそうで、後年耐震性を調べた所、震度7.5程度の大地震でもびくともしないそうです。ビックリだ!

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「なにわ今昔」より
竣工当時の大阪城全景です。本丸内は紀州御殿以外の建物は全てなくなっていますね。

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「なにわ今昔」より
これは昭和20年8月14日の空襲の写真。天守閣は奇跡的に戦火を免れ、翌日終戦を迎える事になります。


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おっ!天守閣の下に桜の木がありました。でも3枚目の写真と比べると場所が違います。残念。

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この2つの建物は市民のお金で出来ているんですね。改めて先人の方々に感謝です。

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大阪市立博物館は現在閉館中ですが、平松市長は「民間活力を導入した活用を検討 」と「『元気な大阪』をめざす政策推進ビジョン(案)」でおっしゃっています。期待してますよ♪

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天守閣に登るのは小学校以来かも…


(おまけ)
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大阪城といえば私はこのタイムカプセルを思い出してしまいます。大阪万博の時に埋められましたが、中に入っているものを横の博物館で展示していたのではなかったかな?結構覚えているんですよね。おそらく何度か見ていると思います。2000年に一度開封していたみたい。

『タイム・カプセルEXPO'70』


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地下鉄御堂筋線の歴史

2009年03月23日 07:30

地下鉄御堂筋線の歴史

大正時代、大阪市内を移動する主要な交通機関は路面電車でした。しかし今後も増え続けるであろう人口と交通量のことを考えると、新たな交通手段が必要になってきました。大正13年、帝国鉄道協会と土木学会から高速鉄道の報告書があがってきます。そこには現在の御堂筋線を含めて4つの地下鉄路線が計画されていました。

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梅田から難波までの区間は大阪でも非常に地盤が悪い所で、当時の土木技術ではかなりの難工事が予測されました。そのこともあり「地下鉄ではなく高架線路にすべき」という声が多かったようです。しかし関市長と初代電気局建設部長の清水氏の英断により、地下鉄にすることが決定されました。もしこの時点で安全策をとり高架線路にしていたら今頃大阪市内の風景はどのようになっていたのでしょう。

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
第1線は江坂を起点に梅田、難波、天王寺を結び我孫子に達するルート。第2線は森小路から梅田を経由して松屋町筋を南下して天王寺に至るルート。第3線は第1線の大国町から分岐して玉出に至るルート。そして第4線は大阪港から大阪市の中央部を横断し、平野に至るルートでした。現在のルートと比べると微妙に違っていて面白いです。

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
昭和5年、梅田~心斎橋間の工事が始まります。ここは大阪市役所の前、向こうの橋は旧大江橋です。手前の大きな機械で土留めの鋼矢板を打ち込んでいます。鋼矢板は日本で製造されていなかったので全て輸入品でした。

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「大阪市100年」より
土留めの鋼矢板の打ち込みが終わると、掘削作業に入ります。当時はショベルカーなんてないのでツルハシショベルで掘るわけです。失業救済事業として一般の労働者もかなり多く携わっていたようです。

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
ここに淀屋橋が架かります。市電がえらい端っこに付け替えられていますね。この下でトンネルが掘られています。

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「大阪市100年」より
これは大江橋の建設風景。地下鉄工事は御堂筋の工事と同時に行われています。「えらいもんができよるなぁ」と市民は思っていたでしょうね。ちなみに正面の福徳生命が気になったので調べてみました。後に第百生命になり現在はマニュライフ生命となっています。場所は現在の大阪三菱ビルです。

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「大阪市100年」より
昭和7年頃の御堂筋です。手前の板が引いてある道が備後通り、次が瓦町通り、その向こうが淡路町通りで、次の平野町通りに建設中なのがガスビルです。

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
昭和8年5月20日、梅田~心斎橋間が開通します。この写真は開業直前の写真です。午後3時の営業運転開始前の午後2時頃だそうです。人があふれかえっていますね。最初の電車はすし詰め状態で心斎橋に向ったそうです。開通当初は梅田仮停留場で現在の新阪急ビルの辺りに出入口がありました。

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「なにわ今昔」より
昭和8年頃の写真だと思われます。下の方に梅田仮停留場が写っています。阪急百貨店の左側に建設中の場所が写っていますが、ここが梅田停留場です。

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
阪急百貨店との連絡工事中です。下では地下通路が出来ています。

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
阪急百貨店との連絡の位置関係がよくわかるイラストです。

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「なにわ今昔」より
電車の搬入口は南御堂前にありました。その場所まで電車を引っ張っているところです。
人と車と牛と…。のどかですね^^

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「大阪100年」より
なるほど、こうして入れますか。
「地下鉄はどこから入れるんでしょうねぇ?」というフレーズを思い出した人は
間違いなく40代以上です^^

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
昭和10年10月6日、梅田停留場が完成します。ここはおなじみの場所です。
どこだかわかりますか?
あっ!現在の写真を撮るのを忘れてしまった^^;

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
改札を抜けるとドーム状の屋根とエスカレータです。奥に車止めが見えますね。
当時は電車も壁もここまででした。

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現在はこうなっています。左の線路は新大阪・千里中央方面行きです。

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
この写真はホームから撮影されています。エスカレータの左側にもトンネルがありますね。

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現在は壁で覆われていますが、この奥にトンネルが残っているかもしれませんね。

(おまけ)
地下式にするか高架式にするかで紛糾を極めていた時、地下式に強く反対したのはなんと小林一三さんだったそうです。理由はこのルートは河川が多いので、地下式にすればその下をくぐらないといけない。非常に危険であり、高架式より工期も長く、費用も巨額になるということからです。当時の関市長らの判断がいかに英断だったかを伺えるエピソードです。


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(追記)
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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
現在の梅田駅のホームは平成元年(1989)に完成していますが、それまでは狭くて、通勤ラッシュの時間帯は人であふれかえっていました。