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御堂筋の歴史

2009年03月02日 07:30

大大阪と御堂筋

御堂筋の計画が最初に公式の道路計画に挙げられたのは大正8年だったそうです。そこにはこのような事が書かれていました。「種種の意味において、本市最高級の機能を達成すべき」ものであって、「是非共これを永遠の必要」から考えて「大大阪の中心街路たるに恥じざる幅員と体裁とを具備」させなければならない、と。

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御堂筋の計画を含む第一次大阪都市計画事業は市会においても激しい論争の的になりました。野党の強い反対を押し切り、大正10年与党の多数の力で原案は通過します。

この工事でもっとも難航したのは用地買収であったと思われます。予定地に住む多くの人達は長年の生活と商売の場を奪われることになりました。その用地買収費と移転費は莫大で総事業費の90%にも上ったといわれています。実は移転を免れた人達も大変で、沿線から約63メートルにわたる地域の地主は受益者負担金なるものを支払わないといけませんでした。それは何かというと、御堂筋が出来れば儲かるであろう利益を計算し、その額に応じた金額を税金として納めるというものです。それらの費用も用地買収費等に使われたといわれています。この歴史的な事業の裏には、その犠牲になった人達や金銭的な負担を強いられた人達が多くいたことを忘れてはいけません。

御堂筋の建設は大正15年(1926)に開始されました。昭和5年(1930)には地下鉄(梅田-心斎橋間)工事も始まり、11年後の昭和12年(1937)5月11日、梅田から難波を結ぶ約4キロの御堂筋は完成したのです。

旧御堂筋
「大阪市街大地圖(大正14年の地図)」より
御堂筋とは元々北は淡路町から南は長堀川までの道幅約5.4メートルの街路で、道筋には北御堂と南御堂があり、人形問屋や履物問屋などが密集していたそうです。○が御堂筋の始まりと終わり。赤い線は拡張される道幅が記されています。

旧淀屋橋筋
「大阪市街大地圖(大正14年の地図)」より
御堂筋の北は淀屋橋筋という名前でした。淀屋橋筋と御堂筋は少しだけずれおり、その突き当りの写真が残っています。

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「ふるさとの想い出写真集 大阪」より
これが淀屋橋筋の突き当りの写真です。北から南を向いています。上の地図と照らし合わすと、突き当りを右に行くと御堂筋があるわけですね。

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「ふるさとの想い出写真集 大阪」より
この写真は淀屋橋筋の北側、上の地図の○の場所です。右の建物は残り、左側が全て取り壊されます。ということは、右の建物の場所は現在石原ビルディングが建っている場所のようですね。

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「大阪市100年」より
もう少し引くとこうなります。手前の橋は旧淀屋橋、土佐堀通りも右側はまだ市電が通れない細い道でした。

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「大阪市100年」より
御堂筋完成後も残る建物に色を付けてみました。これが…

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「大阪市100年」より
こうなります。左上に見える木も目印になります。

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「ふるさとの想い出写真集 大阪」より
昭和4年頃の航空写真です。街路樹の一部はもう植えられているようです。左手前は北御堂と洋館は相愛女学校です。御堂筋の両脇にはたくさんの家屋がびっしり。この地域の人達が受益者負担金を支払わされたわけですね。

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「大阪市100年」より
関一(せきはじめ)市長が目指した都市計画の中でも象徴的な存在である御堂筋は、昭和12年5月11日に完成しました。しかしその完成を見ることなく、昭和10年1月26日、61年4ヶ月の生涯を閉じています。

この写真は心斎橋のそごう百貨店の屋上からの写真ではないかと想像しています。手前が長堀通りで、中央の大屋根は手前が南御堂、奥が北御堂。その奥にはガスビル(昭和8年竣工)が見えます。イチョウの木は小さかったのですね。

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右は現在も健在のガスビル。御堂筋の顔のひとつですね。

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御堂筋ができて約70年、街並みはすっかり変わってしまいましたが、イチョウの木は同じ場所で時を刻んでいます。この先もずっと大切にしていきたいですね。



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(追記)
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「ふるさとの想い出写真集 大阪」より
昭和初期の南御堂と大谷女学校の生徒の写真です。
TOSSYさんのコメント通り大谷女学校は御堂筋の拡張工事で阿倍野区に移転しました。

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「ふるさとの想い出写真集 大阪」より
この写真は北御堂です。女学生らしき人達が長刀をしているようです。手前の人達はバレーボール?。相愛女学校の生徒たちでしょうか。

(追記)
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現在の北御堂です。上の写真は戦前の本殿です。昭和20年の空襲で消失しましたが、昭和39年に現在の本殿が再建されています。

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本殿横のスペースは憩いのスペースです。昼休みにはビジネスマンやOLが休憩しています。気候のいい日は気持ちいい場所です。

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御堂筋から少し高台に本殿はあります。

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「なにわ今昔」より
昭和20年の大阪大空襲後の写真です。中央部に石段が確認できます。ここが北御堂です。

(追記)
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「大阪市100年」より
大阪歌舞伎座のアイススケート場です。大阪歌舞伎座があった場所は、現在の千日前ビックカメラの場所です。その6階に大小2つのリンクがあったそうです。この綺麗なモダンガールがだれなのでしょう。

(追記)
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突然ですが美々卯本店。御霊神社の裏にあります。

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大阪が「大大阪」になった日

2009年02月27日 15:00

大阪が「大大阪」になった日

大正14年4月1日、大阪市は東成・西成両郡を市域に編入し、面積、人口とも全国一の大都市になりました。当時の新聞を見るとその時の空気感が伝わってきます。毎日新聞と朝日新聞にどういうことが書かれていたかを見ていきたいと思います。

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「毎日新聞 大正14年4月1日」より (拡大写真)

輝かしい「大大阪市」はいよいよ今日から実現
面積は東京の2倍=人口は世界第6位
これを築き上げた市民の「金と人」の力
新に施行される事業の大観


4月1日の毎日新聞1面の見出しです。写真は長柄、都島の工業地帯の写真が使われています。「金と人」の文字が気になりますね。「人」とは人口の増加のことです。市制が施行された明治30年に約48万人だった人口が今回約213万人に増えています。「金」は市の予算の事で当初約66万円だったものが明治40年には238万円に、そして今回の大大阪実現に伴う14年度予算は総額1億8千万円になっています。まさに奇跡的でもある伸び方です。

それ以外に都市計画中央市場建設、上下水道区画整理の整備を進めていく事が書かれており、大阪が日本一にふさわしい都市になっていく未来像が書かれていました。都市計画では総額2億円で幹線道路を拡張又は新設して路面鋪装を施し、従来の木橋を残らず耐震耐火式に改造。路面電車高速地下線の設置、公園の整備などを大正22年度(昭和8年度)までに完成する予定であると書かれていました。実際地下鉄の梅田-心斎橋間は昭和8年に開通しています。

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大正14年の地図です。東洋製紙(王子製紙の前身のひとつ)や鐘淵紡績(旧カネボウ)など工場が確認できます。大大阪市を象徴する地域だったのですね。

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「新修大阪市史」より
市域の拡張を念のため。緑色の部分が今回併合された地域です。
「十三」もこの時に大阪市になったのです♪


では朝日新聞はどんな紙面だったのでしょう。

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「朝日新聞 大正14年4月1日」より (拡大写真)

「よくわからん写真やぞ!」
と お叱りの言葉が聞こえてきそうですが、
すみません! きちゃなくて…^^;

1面に使われた写真は大阪城の航空写真です。「大大阪の建設」という見出しとともに、大阪市の象徴として大阪城を出してきたのでしょうか。ご存知の方も多いと思いますが、この時代は天守閣がまだありません。天守閣が竣工したのは昭和6年です。昭和天皇の即位記念事業として計画されたので、この時はまだ計画はなかったのではないでしょうか。しかし天守閣の再建は関市長時代の象徴的な出来事。この写真を使った事ははたして偶然だったのでしょうか?

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「朝日新聞 大正14年4月1日」より 
2面3面は見開きで大きく写真が載っています。しかもかなり大味なレイアウト…。写真も真っ黒で何が写ってるかわかりにくいですが、当日の雰囲気を知ってもらいたかったので載せました。今でこそ全面写真は珍しくないですが、当時見開きの全面写真は画期的な試みだったのではないかと思います。
右上の「大大阪の中心」というタイトルの写真は北浜です。向こうに中央公会堂や市庁舎が写っています(おそらく…)。普通に考えるとこの写真が大大阪の象徴する写真かもしれません。

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「大阪市100年」より
北浜の写真はおそらくこの写真と同じ場所から撮影されていると思います。


「大大阪」の時代は、関一(せきはじめ)というニューリーダーが現れた事で実現しました。この時代、市民は大阪に誇りを感じ、未来に明るい展望をもっていたように思います。

平松市長!
次の世代の人達にも
明るい展望が持てる大阪に
ガンバってしてやッ!!




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「大大阪」と関一

2009年02月13日 07:00

大阪が「大大阪」になる前

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中之島にある大阪市立東洋陶磁美術館の前に、関一(せきはじめ)氏の銅像があります。その脇の石碑にはこのようなことが刻まれています。「…博士の業績には枚挙にいとまありません 市域の拡張を断行し 都市計画を樹立して 近代都市大阪の基礎をつくりました…」 大阪の近代史を語る上で絶対に外せない人物、「関一」とはどういう人だったのでしょう。

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大正2年、第6代大阪市長に元大阪府警察部長の池上四郎氏が就任します。池上氏は自分の不足を補い得る専門知識と能力を持つ人材を探していました。そして白羽の矢が立ったのが、当時東京高等商業学校(現一橋大学)の教授であった関一氏です。大学側は学生も含めて大反対をしました。しかし関氏は決断します。それは学者としての蓄積した学識を大阪市政を通して実践し、自らの学問を発展させようと考えたからです。

大正3年7月、大阪市高級助役に転じた関氏は、まず行きづまっていた港湾事業を進捗させ、市街電車の拡充に努めました。さらに市営住宅など社会施設の充実も図っていきます。しかし大阪市は全国の商工業中心地にもかかわらず、近代都市としての機能が乏しく、道路の未整備や衛生問題、住宅問題など課題が山積み状態でした。そんな中、大正10年に「第一次都市計画」が内閣の認可を受けます。これには梅田-難波間を結ぶ幅約44メートルの御堂筋も計画されていたのです。

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「大阪市100年」より
関氏は41歳という若さで助役に就任しました。この写真は市長3選目の頃でしょうか。

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「大阪市パノラマ地図」より
このパノラマ地図は大正12年頃を描いています。「大大阪」が大正14年から始まるのでその直前の大阪の風景ですね。この場所はたいへん興味深い場所で、右上に市民館、手前に乳児院と左に産院など大阪市の社会事業が描かれています。大正7年の米騒動後、大阪市は職業紹介所や市営住宅の建設など社会事業を積極的に展開していきました。それらは関氏の献策によりところが大きかったようです。

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「大阪市100年」より
北区に市民館が設立されたのは大正10年です。大阪市社会事業の拠点でした。後に北市民館に改称されます。現在の住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」がある場所です。

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「大阪市廳舎新築記念帖」より
市民館が設立された同じ年に新庁舎も竣工しています。それまでは堂島に市庁舎がありました。

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「なにわ今昔」より
堂島にあった頃の大阪市庁舎です。関氏が助役に就任した頃はこの場所で手腕を発揮していました。前の川は蜆(しじみ)川ではなく、梅田入堀に繋がる川です。

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大正3年の大阪市内詳細図(日文研)です。
堂島の旧市庁舎の場所は現在のどこだかわかりますか。

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堂島庁舎があった場所には石碑が残されています。

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NTTテレパーク堂島の一画に旧庁舎はありました。ちなみに右手の道路沿いに蜆川が流れていました。

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「大阪市100年」より
大阪市中央公会堂が竣工したのは大正7年です。後の大大阪成立を祝う大祝賀会もここで行われました。

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「大阪市の100年」より
大正12年、貸室専用として堂島ビルが開業しています。この時代からどんどん近代的なビルディングが建築されていきます。手前は旧大江橋です。

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左のビルが堂島ビル。市電が淀屋橋で曲がっていますね。



(予告編)
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ここは淀屋橋です。手前の橋が淀屋橋、市電の前の自動車の左手にある道が淀屋橋筋です。数年後、ここに幅約44メートルの道路ができます。


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