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田能遺跡・大阪国際空港(勝部遺跡)

2013年08月08日 12:00

弥生時代をアースダイビング
田能遺跡から岡町まで

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旧猪名川の堤防跡を歩いた後、以前から気になっていた田能遺跡に立ち寄りました。前調べをしていなかったのですが近くに勝部遺跡もあり、歩きながら弥生時代をアースダイビングしている気分になってきました。

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地形図で見ると田能遺跡と勝部遺跡はこの辺り。猪名川から流れてきた土砂が堆積して海岸線が南下している時代です。ちなみに当時の海岸線は神崎川辺り、田能や勝部周辺の土地は稲作に適した土地になっていたのでしょう。

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参考までに「大阪平野のおいたち/梶山彦太郎・市原実」の弥生時代後期〜古墳時代前期の地図を重ねるとこのようになる。

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猪名川橋を渡ります。

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渡って歩道を歩いていると足下にこのようなタイルが。

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すぐに田能(たの)資料館がある。昨年平成23年3月に開館40年を迎えたというから凄いです。

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ここは尼崎市になります。
地図で見ると尼崎市と伊丹市、豊中市の3つの市が接する場所になっていました。

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国指定史跡(しせき)田能遺跡(たのいせき)(昭和44年6月30日指定)

田能遺跡は、尼崎市の東北端、標高7m、猪名川左岸に営まれた弥生(やよい)時代(2300〜1700年前)の集落跡です。遺跡は東西約110m、南北120m以上の広さがあります。
弥生時代はわが国で稲作農耕(のうこう)が始まった時代で、田能の弥生人たちも川ぞいのやや高いところに溝(みぞ)をめぐらし、住居をつくり、低湿地(ていしっち)で水田を作ったようです。遺跡は長期間にわたり生活の場となったため、家の柱穴(ちゅうけつ)、ゴミすて穴、貯蔵(ちょぞう)の穴、排水の溝など多数の遺構(いこう)がありました。人々の生活した竪穴(たてあな)住居も3棟(むね)が明らかになっています。また、ここは墓地としてもつかわれ 、木棺墓(もっかんぼ)8基、土壙墓(どこうぼ)5基、壺(つぼ)・甕棺墓(かめかんぼ)4基が発見されました。
木棺墓のうち16号墓は碧玉製管玉(へきぎょくせいくだだま)の首飾りを、17号墓は白銅製(はくどうせい)の腕輪(うでわ)を身につけており特別な扱(あつか)いをうけた人物の墓と考えられます。壺・甕棺墓は残っていた骨から幼児のものでした。出土した多量の遺物のなかには、近畿地方ではじめて発見された銅剣鋳型(どうけんいがた)、白銅製腕輪(はくどうせいうでわ)のほか銅鏃(どうぞく)、勾玉(まがたま)、管玉、多量の土器、石器などもあり、これらは学術上たいへん貴重なものです。
発掘された遺構は盛土(もりど)して地下に保存し、その上に竪穴住居(たてあなじゅうきょ)、方形周溝(ほうけいしゅうこう)、高床式倉庫(たかゆかしきそうこ)などを復元(ふくげん)して公開しています。

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復元されている円形平地式住居。

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こちらは方形竪穴住居。

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収穫物の貯蔵に使ったであろう高床倉庫。

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敷地内には墓も多く発掘されています。

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資料館に入ってみましょう。

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館内には土器や石器、装身具などが展示されていますが、私が最も関心を持ったのはお墓。人骨とともに木の蓋が発見されていたようです。

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それが今も特殊な加工を施してここにある。
ちょっとびっくり。
でも、かなりリアルに伝わってきます。

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次に訪れたのは最初の地図の(B)の場所。
飛行機が頭上を飛んでくる有名なあの場所、
大阪国際空港(伊丹空港)と隣接する千里川の堤防(土手)です。

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きたっ!

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ゴ〜

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〜〜

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〜〜〜

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〜〜〜〜

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〜〜〜〜〜

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〜〜〜〜〜〜 って下りて来たこの場所が
勝部遺跡です。

勝部遺跡の研究報告所」より
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ちなみに勝部遺跡の場所はココ。

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で、千里川にかかる橋を渡って

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遊歩道に入った場所に

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勝部遺跡収蔵庫(C)があります。

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この遺跡では集団で争って倒れた人の人骨が見つかっていたようです。

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勝部遺跡(かつべいせき)

弥生時代(約二千年前)は、日本ではじめて稲作が行われた時代です。稲作は人々に豊かな生活をもたらしましたが、その反面、生み出された多くの貯えをめぐって、人々の間にさまざまな争いを引き起こしました。そんな時代の姿をうかがわせてくれるのが、この勝部遺跡です。
勝部二、三丁目から大阪国際空港南部にかけて広がるこの遺跡からは、これまでに弥生時代から平安時代にかけての集落、墓地、水田など、数多くの生活の跡がみつかっています。
弥生時代の遺構の中でも、とくに注目されるものとして、十四基もの木棺墓があります。木の板を組み合わせて作られた、これらの木棺の中には、腰に石の槍先 (剣とも考えられています)が突き刺さった人骨や、石のやじりがまるで打ち込まれたかのように体内から出土した人骨がみられ、集団間の争いで倒れた人たちの姿を彷彿とさせてくれます。また、稲作の直接の証拠となる炭化した米粒や、全国的にも珍しい弓筈状鹿角製品(ゆはずじょうろっかくせいひん)なども出土しています。
この遺跡は、弥生時代後期以後、生活の痕跡が一時とだえ、古墳時代中期以降、再びムラが営まれたようです。そして鎌倉時代以降は整然と区画された田畑がひろがり、最近まで見られたような田園になっていったものと思われます。

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さて、ここは(D)の場所。

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千里川の旧流路です。

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昭和42年に千里川の決壊で大きな被害があり、その後付け替えられました。

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以前はここで90度に曲がっていたのです。

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旧走井(はしりい)村を通り

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浄行寺の山門前を通って

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府道99号線を越えた向かいに

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前から気になっていた地蔵尊がある。

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古そうな石仏があった。

さて、そこから阪急の岡町駅へ。
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駅の近くにこんな石柱が。
史跡 大石塚 小石塚古墳。

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奥に柵がありその奥が古墳のようだがよくわからない。

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大石塚古墳、小石塚古墳ともに前方後円墳で、大石塚古墳は桜塚古墳群の中で最も大きな古墳なのだそうです。桜塚古墳群は現存する古墳が5基しかないのですが、確認されたものは44基もあるのだとか。北摂地域もアースダイビングするには面白いかもしれませんね。


より大きな地図で 旧猪名川跡を歩く を表示

(関連記事)
豊中・利倉春日神社2010.09.14
豊中旧利倉村を歩く2010.09.22
旧猪名川跡を歩く・前編2013.07.29
旧猪名川跡を歩く・後編2013.08.03
田能遺跡・大阪国際空港(勝部遺跡)2013.08.08

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庄本・椋橋総社のふとん太鼓

2012年10月15日 22:30

庄本・椋橋総社のふとん太鼓

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豊中庄本にある椋橋総社(くらはしそうしゃ)の御旅所です。
この横たわっているものは何でしょう。

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これ、獅子舞です。

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立派な布団太鼓が3台連なっていますが、椋橋総社の秋祭りで布団太鼓が曳航する時、その先頭を行くのが獅子舞です。

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ふとん太鼓は宮之町、中之町、南之町・嶋之町の3台。

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法被(はっぴ)に鯉が描かれている。
椋橋総社では鯉は氏神の使いとして扱われているようです。

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椋橋総社拝殿です。
その前になぜが釜が置かれている。
聞いてみると湯立て行事用のお湯を沸かしているのだとか。

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以前の記事でも書いたが、
この地区のすぐ手前で幹線道路が終わっている。

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山手幹線、山幹通りと呼ばれるあの道路です。

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この地区に幹線道路を通す話があった時、地元で反対運動が起こり、
地主達が土地の買収に応じず今に至っています。

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正面に阪急電車は走っている。もしここに幹線道路が出来ていたら阪急電車を越えるための陸橋が作られ、さらに神社と住居地域が分断された場所になっていたでしょう。庄本周辺は交通の便が少し不便だがいい町並みが残っている。当時の方々の判断は素晴らしかったと私は思っています。

さて、
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ふとん太鼓が参道に入りました。

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ここからはこの巨大なふとん太鼓を持ち上げて宮入します。
見ているこっちまで力が入る。


約1分の映像です。映像後半の向こうに見える森が椋橋総社です。

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よいやーさー!
よーいさー!

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3台のふとん太鼓が神社近くに並んだ所。
ここから1台ずつ境内に入って行く。

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ところで、この獅子舞ってよく見ると毛むくじゃらですね。

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ふとん太鼓の先頭を歩く宮司さんと獅子舞。

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獅子舞はそのまま拝殿に。

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ここでふとん太鼓の細部を見てみましょうか。
宮之町のふとん太鼓です。立派な彫刻が施されていますね。

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金物も手が込んでいる。
私が言うのもなんですがいい仕事です。

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周囲は十二支が掘られていた。ちなみに来年の巳。

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さて、南之町・嶋之町のふとん太鼓は入ってきました。

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迫力満点!

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境内に3台のふとん太鼓が並んだ。壮観です。

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実はこのふとん太鼓、夜になると本宮の夜のみ梵天太鼓に変わるのだそうです。
残念ながら今回は見る事が出来なかった。ふとん太鼓から梵天太鼓に変わる祭りも珍しいのではないでしょうか。来年はぜひ見てみたい。


(関連記事)
住民が守った鎮守の森、庄本・椋橋総社2010.04.08
庄本・椋橋総社のふとん太鼓2012.10.15


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旧新田小学校木造校舎

2011年11月03日 16:21

大阪府内最古の木造校舎
豊中・旧新田小学校校舎

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北大阪急行「桃山台」駅から北へ約10分ほど歩いたところに木造校舎が残っています。

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旧新田(しんでん)小学校。大阪府指定文化財(有形文化財建造物)です。

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ちょうどいま、
11月3日(木・祝)~11月6日(日)
10時~16時まで一般公開中です。


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明治33年に建設されて昭和48年まで校舎として使用されていたようです。

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「學」の鬼瓦だ。

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いいですね~

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どこか懐かしい感じがする。

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職員室入口。

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左の入口は教室です。

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こっちは、向かって右側の建物。

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ここも教室の入口です。

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横に用務員室がある。

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裏に回ってみました。出っ張っている部屋は校長室。

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窓枠は防犯の為なのか金網で覆われています。

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手前のは池の跡かな…

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正面玄関です。建築当初はすぐに応接室があって、奥に職員室がありました。昭和30年頃は校長室と応接室として使われていたようです。

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わ~

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めちゃんこ

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ええ感じ♪

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窓際に席が好きやったな…

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私は木造校舎をギリギリ知っている世代。
小学1年生の時は木造校舎でした。2年の時に潰されたように記憶している。

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懐かしい椅子と机。

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穴あいてましたよね ^ ^

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消しゴムのカスを丸めてこの穴に転がして入れてたでしょ。

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この机はパカっと開くヤツ。
これは知らないんです。

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黒板消し!

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寒暖計が掛かっていたのかな。

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わ~、名前が残ってる。なかまえさんがうらやましい…

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窓の鍵 ♪

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他の教室には貴重な資料がいろいろ展示されているのですが、これは明治時代のオルガンです。素敵です!

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これは石盤とろう石。昭和の初めごろまで練習用筆記具として使われていたそうです。

なんかiPadに似てるな…

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写真も展示されていました。これは大正末期~昭和初期頃の運動会の写真です。
そうか!校舎の正面が校庭だったのですね。

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これは昭和6年の運動会の写真。
両手に旗を持って踊っているようですが、日の丸の旗のようです。
建物が少し違うようですが増築校舎のようです。

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これも同じく昭和6年の運動会です。
人の円の中で座って三味線を弾く人が見える。歌を歌っているのでしょうか。

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現在は校舎の前には道路が出来て、正面には幼稚園が出来ています。
昭和48年に小学校は移転、旧新田小学校校舎は昭和50年に大阪府の文化財に指定されました。

(文化財ニュース 豊中より)
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これは昭和47年、旧校舎最後の運動会の写真です。奥の校舎が現在も残る木造校舎。とても貴重な文化財ですね。この日は年配の方々も来られて懐かしそうにしておられました。

学校を残すことはお金に換えられないもっと大事な物を残すことだと思います。大阪の精華小学校校舎は貴重な建物なのに売却されてしまう。

文化っていったい何なんだろう?
文化の日にそんなことをちょっと考えてしまいました…



より大きな地図で 旧新田小学校・木造校舎 を表示


(おまけ)
めっちゃ素敵な空間なのでミニチュア風にしてみた。
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