2013年09月13日 07:00
梅田北ヤードの解体状況と
梅田墓地とその場所の検証

梅田北ヤード(うめきた)の解体作業が進んでいます。
手前にあった建物はすっかりなくなってしまったね。

レールと枕木の撤去も進んでいる。
なんかどんどん普通の土地に変わっていくのがさびしいな。

レールと枕木はどこかで再利用されるのでしょうね。

奥のドーム屋根の建物も解体が始まっています。

手作業で屋根をはがしていました。

屋上がテニスコートになっていた建物も足場が組まれています。
手前では架線を撤去しているのでしょうか。

解体作業がじわりじわりと旧梅田墓地に近づいてきました。

ここは西梅田一番踏切。
大きな木の下に数年前まで供養塔と地蔵尊、そして工事の時に掘り起こされた墓石が置かれていました。
(2008年撮影)

2008年に撮影した写真です。
(2008年撮影)

木の下に供養塔や地蔵尊、墓石がならんでいます。
(2008年撮影)

工事の時に土の中から掘り起こされた墓石。
すべてが無縁墓と思われます。
(2008年撮影)

手前に供養塔があります。
(2008年撮影)

此の附近は曾根崎村千日墓地跡と伝えられているが此の度多数の遺骨を発掘したので此処に埋葬し供養塔を健立して無縁諸佛の安らかな眠りを祈るものである
昭和五十八年四月
願主 大阪鉄道管理局 大阪工事局 西村昭三書
(2008年撮影)

供養塔の横に倉庫のような建物がありますが、おそらくその建物を建てる時に墓石や遺骨が出て来たのでしょう。「上方 第56号」で梅田墓地のことが少し書かれています。それによると、梅田墓地の移転は明治20年頃のようです。有縁の墓石は移転していますが、無縁墓はその場に残ったようです。もしかすると、まだかなりの数の墓石や遺骨が土の中に埋まっているかもしれません。
ところで、梅田墓地とは
どういう場所だったのでしょうか。

明治19年発行の地図です。色を付けている場所が梅田墓地。周囲は水路で囲まれ、まわりは田と畑があるだけ。墓地の入口には木橋が架かっていました。
「摂陽群談」より

江戸時代の摂津国の地誌「摂陽群談」に梅田墓所のことが書かれています。曽根崎村の田んぼにあって、町から近く火葬場からの煙が嫌われていたようですね。行基菩薩が開基した歴史ある墓地で、東大寺の昆盧舎那大仏開眼供養の時に造られたとありますから、天平勝宝4年(752)頃でしょうか。凄い。
「上方 第五十六號」より

「上方」にこんな絵がありました。田んぼの真ん中に木々に囲まれた墓地の風景、水路が横を流れています。
「上方 第五十六號」より「盂蘭盆会 七墓巡り之図・長谷川貞信」

これは大阪七墓巡りの図。貞享、元禄の昔から明治初期に至るまで、盂蘭盆(うらぼん)になると、七墓巡りと称して、諸霊供養のため七カ所の墓地を巡訪して回向する人達がいたようです。手にはスリ鉦や木魚、鈴などを持っていますね。団扇や扇子、提灯を持って夜に巡っていたのでしょうか。梅田墓地はその七墓のひとつでした。
「上方」より

こんな七墓巡りのカットもありました。
で、
梅田墓地があった場所を
特定したいと思います。

明治19年発行の地図です。当時の大阪停車場との位置関係はこのような感じ。堂島と墓地は、まっすぐな一本道で繋がっていて、浄祐寺の横の斜め道と繋がっています。その横に架かるのが旧出入橋。現在の地図と位置合わせをするために赤い印の道を使いました。大阪停車場と曾根崎新地を結ぶ水路沿いのくねくね道は今も残る古い道です。

現在の地図といきなり重ねるのではなく、昭和6年の地図と一旦重ねます。

梅田墓地の真ん中を線路が通っているのがわかりますね。

これを現在の地図に重ねるとこのようになります。

航空写真だとこのようになる。
ちょっと逸れますが、
位置合わせに利用した道を少しだけご紹介。

この道は大阪停車場と曽根崎新地を結んでいたくねくね道。いまもくねくねして残っています。

浄祐寺の横にあった斜め道がこれ。

梅田入堀川に架かっていた出入橋。

こちらが浄祐寺。

こちらには赤穂浪士・矢頭長助、右衛七の墓と五大力の墓があります。

古い無縁墓に歴史を感じる。お墓には猫がつきものですね。

ここは都会のど真ん中に残るタイムカプセルです。
さて、

梅田墓地の場所を拡大で見ていきます。

現在の地図と重ねるとこうなります。

黄色いエリアを再度掘り起こすときはぜひ慎重にお願いしたい。

航空写真だとこの場所です。
個人的に、木橋の場所が横断歩道になっているところにちょっと感じるものがあった。
(2008年撮影)

再び2008年の写真です。右に見えている建物の下から墓石などが出てきたのだと思います。
(2008年撮影)

木の下には小さな池がありました。
(2008年撮影)

現在、この場所には地蔵尊も墓石もありません。
(2008年撮影)

平成22年に永代供養が行われて、しかるべき場所に移転しています。
(2010年撮影・今津っ子さんからの提供)

今津っ子さんからお借りした写真です。何もないですね。
(2010年撮影・今津っ子さんからの提供)

それぞれの移転先です。
(2008年撮影)

ところで、向かいの建物の裏に地蔵尊があります。
(2008年撮影)

これも梅田墓地の名残なのかは不明。
(2008年撮影)

おそらく今も残っているのではないでしょうか。
(2008年撮影)

このお地蔵さんは、これからもうめきた2期区域のまちづくり見続けていくのでしょね。
(関連記事)
『大阪駅ができる前は墓地があった』 2008.03.01
『初代大阪駅の場所』 2008.03.03
『大坂七墓 南浜墓地』 2008.09.08
『大坂七墓 蒲生墓地』 2008.10.16
『大坂七墓巡り1』 2008.10.22
『大坂七墓巡り2』 2008.10.24
『大坂七墓巡り 千日墓地』 2008.10.27
『さよなら千日前・竹林寺』 2009.02.09
『大阪七墓・梅田墓地・飛田墓地の跡のあと』 2010.07.26
『大阪七墓・葭原墓地の沖向地蔵尊』 2010.07.28
『大阪七墓・梅田墓地について』 2013.09.13
※ 梅田墓地跡の写真は作業をしていた方に声をかけて撮らせていただきました。
(追記:2017.08)
2017年8月12日に梅田墓の発掘調査のニュースが毎日新聞から出ましたのでスクリーンショットを記録として貼っておきます。


(追記:2020.08.13)


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梅田墓地とその場所の検証

梅田北ヤード(うめきた)の解体作業が進んでいます。
手前にあった建物はすっかりなくなってしまったね。

レールと枕木の撤去も進んでいる。
なんかどんどん普通の土地に変わっていくのがさびしいな。

レールと枕木はどこかで再利用されるのでしょうね。

奥のドーム屋根の建物も解体が始まっています。

手作業で屋根をはがしていました。

屋上がテニスコートになっていた建物も足場が組まれています。
手前では架線を撤去しているのでしょうか。

解体作業がじわりじわりと旧梅田墓地に近づいてきました。

ここは西梅田一番踏切。
大きな木の下に数年前まで供養塔と地蔵尊、そして工事の時に掘り起こされた墓石が置かれていました。
(2008年撮影)

2008年に撮影した写真です。
(2008年撮影)

木の下に供養塔や地蔵尊、墓石がならんでいます。
(2008年撮影)

工事の時に土の中から掘り起こされた墓石。
すべてが無縁墓と思われます。
(2008年撮影)

手前に供養塔があります。
(2008年撮影)

此の附近は曾根崎村千日墓地跡と伝えられているが此の度多数の遺骨を発掘したので此処に埋葬し供養塔を健立して無縁諸佛の安らかな眠りを祈るものである
昭和五十八年四月
願主 大阪鉄道管理局 大阪工事局 西村昭三書
(2008年撮影)

供養塔の横に倉庫のような建物がありますが、おそらくその建物を建てる時に墓石や遺骨が出て来たのでしょう。「上方 第56号」で梅田墓地のことが少し書かれています。それによると、梅田墓地の移転は明治20年頃のようです。有縁の墓石は移転していますが、無縁墓はその場に残ったようです。もしかすると、まだかなりの数の墓石や遺骨が土の中に埋まっているかもしれません。
ところで、梅田墓地とは
どういう場所だったのでしょうか。

明治19年発行の地図です。色を付けている場所が梅田墓地。周囲は水路で囲まれ、まわりは田と畑があるだけ。墓地の入口には木橋が架かっていました。
「摂陽群談」より

江戸時代の摂津国の地誌「摂陽群談」に梅田墓所のことが書かれています。曽根崎村の田んぼにあって、町から近く火葬場からの煙が嫌われていたようですね。行基菩薩が開基した歴史ある墓地で、東大寺の昆盧舎那大仏開眼供養の時に造られたとありますから、天平勝宝4年(752)頃でしょうか。凄い。
「上方 第五十六號」より

「上方」にこんな絵がありました。田んぼの真ん中に木々に囲まれた墓地の風景、水路が横を流れています。
「上方 第五十六號」より「盂蘭盆会 七墓巡り之図・長谷川貞信」

これは大阪七墓巡りの図。貞享、元禄の昔から明治初期に至るまで、盂蘭盆(うらぼん)になると、七墓巡りと称して、諸霊供養のため七カ所の墓地を巡訪して回向する人達がいたようです。手にはスリ鉦や木魚、鈴などを持っていますね。団扇や扇子、提灯を持って夜に巡っていたのでしょうか。梅田墓地はその七墓のひとつでした。
「上方」より

こんな七墓巡りのカットもありました。
で、
梅田墓地があった場所を
特定したいと思います。

明治19年発行の地図です。当時の大阪停車場との位置関係はこのような感じ。堂島と墓地は、まっすぐな一本道で繋がっていて、浄祐寺の横の斜め道と繋がっています。その横に架かるのが旧出入橋。現在の地図と位置合わせをするために赤い印の道を使いました。大阪停車場と曾根崎新地を結ぶ水路沿いのくねくね道は今も残る古い道です。

現在の地図といきなり重ねるのではなく、昭和6年の地図と一旦重ねます。

梅田墓地の真ん中を線路が通っているのがわかりますね。

これを現在の地図に重ねるとこのようになります。

航空写真だとこのようになる。
ちょっと逸れますが、
位置合わせに利用した道を少しだけご紹介。

この道は大阪停車場と曽根崎新地を結んでいたくねくね道。いまもくねくねして残っています。

浄祐寺の横にあった斜め道がこれ。

梅田入堀川に架かっていた出入橋。

こちらが浄祐寺。

こちらには赤穂浪士・矢頭長助、右衛七の墓と五大力の墓があります。

古い無縁墓に歴史を感じる。お墓には猫がつきものですね。

ここは都会のど真ん中に残るタイムカプセルです。
さて、

梅田墓地の場所を拡大で見ていきます。

現在の地図と重ねるとこうなります。

黄色いエリアを再度掘り起こすときはぜひ慎重にお願いしたい。

航空写真だとこの場所です。
個人的に、木橋の場所が横断歩道になっているところにちょっと感じるものがあった。
(2008年撮影)

再び2008年の写真です。右に見えている建物の下から墓石などが出てきたのだと思います。
(2008年撮影)

木の下には小さな池がありました。
(2008年撮影)

現在、この場所には地蔵尊も墓石もありません。
(2008年撮影)

平成22年に永代供養が行われて、しかるべき場所に移転しています。
(2010年撮影・今津っ子さんからの提供)

今津っ子さんからお借りした写真です。何もないですね。
(2010年撮影・今津っ子さんからの提供)

それぞれの移転先です。
(2008年撮影)

ところで、向かいの建物の裏に地蔵尊があります。
(2008年撮影)

これも梅田墓地の名残なのかは不明。
(2008年撮影)

おそらく今も残っているのではないでしょうか。
(2008年撮影)

このお地蔵さんは、これからもうめきた2期区域のまちづくり見続けていくのでしょね。
(関連記事)
『大阪駅ができる前は墓地があった』 2008.03.01
『初代大阪駅の場所』 2008.03.03
『大坂七墓 南浜墓地』 2008.09.08
『大坂七墓 蒲生墓地』 2008.10.16
『大坂七墓巡り1』 2008.10.22
『大坂七墓巡り2』 2008.10.24
『大坂七墓巡り 千日墓地』 2008.10.27
『さよなら千日前・竹林寺』 2009.02.09
『大阪七墓・梅田墓地・飛田墓地の跡のあと』 2010.07.26
『大阪七墓・葭原墓地の沖向地蔵尊』 2010.07.28
『大阪七墓・梅田墓地について』 2013.09.13
※ 梅田墓地跡の写真は作業をしていた方に声をかけて撮らせていただきました。
(追記:2017.08)
2017年8月12日に梅田墓の発掘調査のニュースが毎日新聞から出ましたのでスクリーンショットを記録として貼っておきます。


(追記:2020.08.13)


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