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大阪マルビルの壁面緑化を偽装とかいってるけどそんなに問題なの?

2014年02月01日 08:00

大阪マルビルの壁面緑化は偽物が使われていて
問題だと話題になっています。

でも、そんなに大きな問題なの?

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(写真はゴリモンさんにお借りしました)

(関連記事)
決してやってはならないこと火(ホ)と「ニワ」と鍋釜
安藤忠雄研究じゃなくて(マルビル緑化偽装問題について)建築エコノミスト 森山のブログ
安藤忠雄氏提案の緑化計画 新梅田シティ/マルビルゴリモンな日々
大阪マルビル緑化プロジェクト「都市の大樹」始動大和ハウス工業

数日前より、突然というか、いまさらというか、大阪マルビル壁面緑化に偽物(造花)が使われていることに対して「決してやってはならないこと」というブログ記事がSNSで拡散されています。別にその記事を批判するつもりはまったくありません。おしゃっていることは正論です。

大阪マルビルの壁面緑化工事の完成時から葉っぱが造花だという指摘はありました。当初からそれが許せない方はいましたし、大阪マルビル壁面の緑化計画自体を批判している方もおられます。

私自身は壁面の緑化を楽しんでいる市民のひとりです。10年後に当初のイメージ画像のような緑で覆われたマルビルになるとええなぁと思っています。工事完成時から葉っぱが造花だという指摘はありましたが、工事の予算も限られているでしょうから部分的に造花を使っていても別にいいのではと思っていました。ただ、造花を使っていることはHPに書いたほうがいいでしょう。要は5年後、10年後も植物がちゃんと育つ造園計画になっているかが重要だと思っています。植物が育てば造花を取り除けばいい。壁面の緑化部分は、年4回の定期巡回を行い、剪定や整枝、除草や追肥、消毒などを行うと言っている。数年後、現在は6階までしかない緑化部分を継ぎ足していくことになるかもしれない。しかしイメージ通りに育たないかもしれない。それはそれでいいのではないか。とにかくやってみないとわからない。とりあえずやってみなはれ精神的なところが大阪らしくて好きなのです。

「やってみなはれ精神」とは大阪マルビルの元オーナーであった吉本晴彦氏とも親交があった故・鳥井道夫氏の父親であるサントリー創業者鳥井信治郎氏の有名な言葉。「結果を怖れてやらないこと」を悪とし「なさざること」を罪と問うというのがサントリーの社風になっています。安藤忠雄氏が提案した緑化計画は、ある意味とんでもない提案なのですが、それを大和ハウスも積水ハウスも実行に移したことが素晴らしい。ほんまにやってしまいはった。そこに私は共感しています。造花のことなんてちっぽけなことです。
(ゆうてもうた。ごめんなさい…)


とりあえず私はこの壁面緑化がどうなっていくのか、
10年間しっかりと見守っていきたいと思います。
大阪の根っこには「やってみなはれ」が根づいています。
これは10年がかりの実験だと思うのです。


(追記 4/7)
森山氏のブログ記事「安藤忠雄研究じゃなくて(マルビル緑化偽装問題について)」がなぜかまた拡散されてSNSで回ってきました。1月末に散々拡散してもう終わったものだと思っていたらまたです。リンク先を見て納得しました。ハフィントンポストが同じ記事を転載したようです。転載の投稿日は2014年04月05日 16時38分。なんでだろうと思っていたら、翌日6日の情熱大陸で安藤忠雄さんが取り上げられていました。情熱大陸は影響力のある番組ですから、それに便乗して一度拡散した実績がある上記の記事が転載されたのだろうなぁと思いました。そう考えると別になんら不思議ではありません。ハフィントンポストもアクセス数が命ですから安藤忠雄さんに関わるネタなら何でもよかったのでしょう。このネタって私にとってはどうでもいいネタなのですが、どうも建築に近い方々はわーわーと大いに反応されています。みなさんいったい何を期待しているのでしょう。そもそも安藤忠雄さんは提案はしたけど設計・施工は株式会社フジタと大和リース株式会社ですし、施主の大和ハウス工業株式会社です。クレームならそちらに言ったらいいと思うのですがみなさん攻撃の矛先が安藤忠雄さんへ向いてる。その方が注目されるからでしょうか。その方が自分に無害だからでしょうか。なぜ企業側を批判しないのでしょう?恐いから?そんな偏った個人攻撃的内容なのに誰も何も言わない。建築の世界はちょっと変です。と、ちょっと批判めいた事を書いてしまいましたが、もしかしたら今回の転載は情熱大陸に合わせたものではなく、偶然にたまたま重なっただけかもしれません。また忘れた頃にどこかで転載されるかもしれませんね。


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梅田繊維街の移転

2008年08月21日 02:20

大阪駅前の歴史(8) 
梅田繊維街移転篇


昭和34年11月、梅田繊維街は大阪市より大阪駅前区画整理の提示を受けます。梅田繊維街借家人組合は区画整理に反対し、市当局と数十回にわたる折衝を進めていきました。話合いを重ねる内に、集団移転という打開策が浮上してきます。しかし市当局側から提示された候補地には組合の希望を満たす土地はありませんでした。

昭和36年、大阪市は新幹線の新大阪駅ができることに伴い、その周辺を区画整理することに決めます。そして新大阪駅周辺が移転の候補地として持ち込まれたのです。

組合側も大阪駅前と同様な繁盛が見られるであろうとし、具体的に事業を進めていくことになります。しかし事業を進めるには多額のお金が必要です。組合員は一店60万円の積立てを開始し、市当局も法律の許す限りの協力をしたようです。最終的には用地を市が用意し、換地後組合がそれを買い取る形をとりました。

昭和41年、長期間にわたる大阪市との交渉を経て、仮換地の発表を得、約11,000坪の用地が確定しました。その土地に400余の組合員を収容する建築物が建設されていきます。事業は国と大阪府をも巻き込む大事業になりました。昭和42年11月に工事を起工、大阪万博を翌年に控えた昭和44年9月1日、大規模な繊維問屋が協業する「新大阪センイシティ」が華々しくオープンすることになったのです。

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「おおさか100年」より
昭和37年頃の大阪駅前です。阪神百貨店が増築中。その裏に広がる密集地が梅田繊維街です。僅か3500坪ほどの土地に、繊維品卸業の店が700~800(※)もひしめき合っていました。
(※)資料ごとに数字が違うので実際の店舗数はわかりませんでした。この数字は「新大阪センイシティ10年史」より。

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「大阪駅前市街地改造事業誌」より
昭和30年代初期の梅田繊維街の地図です。繊維街は各町内会を結成していました。「丼池町会」「稲荷町々会」「曽根崎中二町会」「親交会」などがそれです。

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「なにわ今昔」より
昭和26年10月撮影。梅田繊維街の賑わいです。繊維街の店のほとんどが土地を持たない借家人でした。ビルができると無償でビルを手に入れられるのは家主だけだったのです。

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「新大阪センイシティ10年史」より
狭い道路に車がひっきりなしに入ってきます。当然駐車場なんてなかったでしょうね。

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「大阪駅前市街地改造事業誌」より 
昭和36年頃です。日本一高い家賃といわれながらも、営業を続けられたのですから、いかに儲かっていたかがわかります。

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「新大阪センイシティ10年史」より
繊維街の家屋はバラック建ても多く、道路も狭小で迷路のようだったようです。

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「大阪駅前市街地改造事業誌」より
これは区画整理の反対運動の様子です。大阪市庁舎に数百体のマネキンがパレードをしたそうで、地元の組織も梅田繊維街の他に地主や家主、外国人の組合などが入り混じっていました。

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「大阪市100年」より
昭和45年頃の梅田繊維街です。駅前第一ビルが完成し、梅田繊維街の多くの店舗は新大阪の新天地に移転しています。

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現在のセンイシティーです。
中学校の頃、自転車でここまで学ランを買いに来ました。裏に刺繍は入ってないけどちょっと長いヤツです w

余談ですが、当時(昭和50年代)は3~4件の学ランの店があって、学校内では有名な場所でした。中ラン(裏に龍の刺繍が入っていた)とか小ラン、ズボンも太いツータックボンタンとか流行りましたね。ちょうど校内暴力全盛時代で金八先生が一番元気だった時代です。


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大阪駅前第1ビル

2008年08月02日 02:00

大阪駅前の歴史(7) 駅前第1ビル篇

大阪駅前ビルの全体プランづくりにおいて、当初ビルの中に映画館が入る想定をしていたようです。というのも第2次土地区画整理事業の区画には松竹会館があり、洋画2館、邦画1館を擁する6階建ての映画館でした。

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昭和37年当時、東京オリンピックを控え一般家庭に急激にテレビが普及しだした頃です。映画産業に不況の波が押し寄せてきた時期でもあり、協議の結果ビル入居は見送られました。

昭和40年5月、駅前第1ビルは西半分から着工されました。しかし、西半分の敷地には買収できていない残存物件(一年後買収完了)がまだ残っていました。東半分の着工は昭和42年12月、西半分の鉄骨が12階まで組み上がった頃です。昭和43年12月、西半棟が完成、昭和45年4月には東半棟も完成、「大阪駅前市街地改造ビル第1号館」は「大阪駅前第1ビル」という名称でようやく完成することになりました。

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「おおさか100年」より
ひときわ大きな建物の松竹会館。

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「大阪駅前市街地改造事業誌」より
この辺りは木造建築だけでなく、ビルもけっこう多かったようですね。

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「大阪市100年」より 工事中の西半分。

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「大阪駅前市街地改造事業誌」より
西半分が完成し、東半分が工事中です。

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「大阪市100年」より
昭和45年7月です。駅前第1ビルの高さは他のビルとほぼ同じですね。大阪神ビルと同じくらいのボリューム感があります。当時はかなり存在感のあるビルでした。

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第1ビルの屋上に狐塚があるのをご存知でしたか。今から約600年前、土地の豪族が一家の守り神としてまつったのが始まりといわれており、昔から地元の人達の愛されてきたものらしいです。

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明治18年の地図にも狐塚がしっかり記されています。

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駅前第1ビルには消防署もあります。

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「大阪市100年」より
北消防署がこの地にあったからですね。これは火の見やぐらです。

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知れば知るほど味わいのある「大阪駅前第1ビル」。

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一階にある立ち飲み屋。いつも夕方になると賑わってますね。エエ感じです。

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地下一階にある喫茶店「マヅラ」。今でもコーヒーは250円です。店の中はもっとエエ感じです。昔のまんまなので、喫煙者の天国ですよ。(私はタバコをやめちゃったけど、昔の喫茶店ってテーブルに必ず灰皿がありましたよね。懐かしい喫茶店です。)


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