2008年
01月27日
(日曜日)
昭和一桁の塚本
昭和一桁の塚本
昭和9年7月20日、国鉄塚本駅が開業しました。それまでの塚本周辺は、一望千里の葦原だったそうです。それに、十三蓮根の発生地として蓮池が散在していたとか。
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いつもクリック ありがとうございます。
塚本駅は西淀川区の玄関駅でもあり、工業地域の発展にともない、乗降人員が爆発的に増えていき、阪神間での乗降人員が第一位になりました。それにともない駅周辺も急激に発展していきます。昭和10年には、塚本土地区画整理組合が結成され、翌年には工事が着工、塚本周辺の農地や水路はどんどん埋め立てられ、新しい道路が出来、家が次々に建てられていきました。

昭和9年に完成した国鉄塚本駅(西淀川今昔写真集より)
出典元には初代塚本駅とありますが、開業前の竣功写真でしょうか。駅のホームが見えないので、これ本当に塚本駅?と個人的に思ってるのです。

昭和9年の塚本駅東側です。
右端にあるのが塚本駅だと思います。左側に高架のトンネルがありますが、花川へはここを抜けていきます。駅周辺の土地はまだ荒れていますね。

昭和9年の増設工事中の下淀川鉄橋
奥に見えるのが開業間もない塚本駅です。

昭和9年の塚本周辺の風景
回りはほとんどが畑ですね。左端の大きな屋根は超安寺です。真ん中にある森は塚本の地に古くからあった八阪神社跡の森です。明治42年に富島神社に合祀され神社はなくなってしまいましたが、敷地はまだ残っているようです。右端は北野中学校です。3年前の昭和6年にこの地に移転してきました。

昭和6年、竣功間近い北野中学校の新校舎(北野120年史より)
奥に見えるのが中津第三小学校(成小路小学校)。
北野中学校の当時の正門は南側だったんですね。

昭和4年の地図です。
塚本駅も北野中学もまだありませんが、塚本駅の周りは何もなかったことがよくわかります。北野中学の敷地内にある学校は、中津第三小学校(成小路小学校)です。昭和初期までは旧塚本村がこの地域の中心地でした。現在の塚本四丁目です。

昭和17年の航空写真。
数年で塚本地域にたくさんの家が建ちました。八阪神社跡の森は木が伐採され何もありません。

現在の地図(Googleマップより)
八阪神社跡の敷地だった所に、塚本神社があります。敷地はかなり小さくなってしまいましたが、塚本に神社が復活したことはうれしいことです。

塚本の超安寺。塚本村に古くからあるお寺です。創建は明暦元年(1655年)、約350年前です。昔は星とりの目薬というのを売っていたそうです。現在の本堂は改築されて立派になっていますが、私が小学生の頃は敷地内は墓地になっており、井戸もありました。当時、習字を地域の子供達に教えており、私も小学3年から6年まで通っていました。習字の後、敷地内をうろうろ探検してました。私が今でも墓地に関心があるのは、この時の影響かもしれません(笑)。
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塚本駅は西淀川区の玄関駅でもあり、工業地域の発展にともない、乗降人員が爆発的に増えていき、阪神間での乗降人員が第一位になりました。それにともない駅周辺も急激に発展していきます。昭和10年には、塚本土地区画整理組合が結成され、翌年には工事が着工、塚本周辺の農地や水路はどんどん埋め立てられ、新しい道路が出来、家が次々に建てられていきました。

昭和9年に完成した国鉄塚本駅(西淀川今昔写真集より)
出典元には初代塚本駅とありますが、開業前の竣功写真でしょうか。駅のホームが見えないので、これ本当に塚本駅?と個人的に思ってるのです。

昭和9年の塚本駅東側です。
右端にあるのが塚本駅だと思います。左側に高架のトンネルがありますが、花川へはここを抜けていきます。駅周辺の土地はまだ荒れていますね。

昭和9年の増設工事中の下淀川鉄橋
奥に見えるのが開業間もない塚本駅です。

昭和9年の塚本周辺の風景
回りはほとんどが畑ですね。左端の大きな屋根は超安寺です。真ん中にある森は塚本の地に古くからあった八阪神社跡の森です。明治42年に富島神社に合祀され神社はなくなってしまいましたが、敷地はまだ残っているようです。右端は北野中学校です。3年前の昭和6年にこの地に移転してきました。

昭和6年、竣功間近い北野中学校の新校舎(北野120年史より)
奥に見えるのが中津第三小学校(成小路小学校)。
北野中学校の当時の正門は南側だったんですね。

昭和4年の地図です。
塚本駅も北野中学もまだありませんが、塚本駅の周りは何もなかったことがよくわかります。北野中学の敷地内にある学校は、中津第三小学校(成小路小学校)です。昭和初期までは旧塚本村がこの地域の中心地でした。現在の塚本四丁目です。

昭和17年の航空写真。
数年で塚本地域にたくさんの家が建ちました。八阪神社跡の森は木が伐採され何もありません。

現在の地図(Googleマップより)
八阪神社跡の敷地だった所に、塚本神社があります。敷地はかなり小さくなってしまいましたが、塚本に神社が復活したことはうれしいことです。

塚本の超安寺。塚本村に古くからあるお寺です。創建は明暦元年(1655年)、約350年前です。昔は星とりの目薬というのを売っていたそうです。現在の本堂は改築されて立派になっていますが、私が小学生の頃は敷地内は墓地になっており、井戸もありました。当時、習字を地域の子供達に教えており、私も小学3年から6年まで通っていました。習字の後、敷地内をうろうろ探検してました。私が今でも墓地に関心があるのは、この時の影響かもしれません(笑)。
2007年
12月02日
(日曜日)
忘れられた塚本の八阪神社
忘れられた塚本の八阪神社
塚本には古来八阪神社という由緒ある神社があり、住民の尊崇を集めていました。しかし明治42年、中津町の利島(とじま)神社(明治43年に富島神社に改称)に合祀されなくなってしまいます。
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八阪神社が無くなった後、塚本には富島神社の御旅所が設けられました。夏祭りには、ご神霊を移す渡御(とぎょ)が営まれていました。渡御は神輿を担いだ行列が淀川を橋で渡り、成小路と塚本にある御旅所へ行き、また富島神社の戻っていくというものです。当時は青年団20〜30人で神輿を担いでいたようですが、あまりの重さに十三大橋の途中で神輿をおいて帰ったというエピソードもあったとか。行列の先頭は神宮が猿田彦の面をかぶり馬に乗っていたといいます。盛大なお渡りで大いに賑わいました。神輿には大きなものと子供の神輿があり、行列の衣装もみなそろえていたそうです。そんなお祭りも、戦争によって中断されなくなってしまいました。
現在の塚本神社は昭和38年に、富島神社から独立したものです(9/18のブログを参照ください)。現在の塚本神社には八坂神社の遺構はなにもありません。記念碑があるだけです。ただし、富島神社の西側の鳥居に八坂神社の鳥居が残されているということです。

「思い出の十三 イラストマップ」
お渡りの様子が描かれています。お神輿を担いだ一行がこれから十三大橋を渡っていきます。

「思い出の十三 イラストマップ」
十三側のイラスト。成小路の御旅所の前を馬に乗った神宮さんが歩いています。こちらは、富島神社にもどるのでしょうか。本来は馬に乗った神宮さんと神輿を担いだ一行が行列を成して富島神社と成小路、塚本の御旅所を往復していたのだと思われます。

現在の地図(Googleマップより)
八阪神社のあった場所です。墓地とお寺は昔から位置が変わっていませんので、古地図との位置合わせの参考です。

昭和4年の地図。八阪神社の敷地の大きさがよく分かります。ただし、神社の地図記号がありません。

明治43年の地図。浄圓寺は大正8年にこの地に移転してきますのでまだありません。赤の矢印は下の写真の撮影場所の参考です。

(中津町史より)大阪府立修徳館の写真。右側に見える森が八阪神社の森です。残されている写真で唯一、八阪神社の一部が写った貴重な写真です。資料をいろいろ探しましたが、八阪神社の写真は皆無です。

塚本墓地にある塚本村の絵図。明治38年頃の塚本村が忠実に描かれています。村から神社がなくなるということは村民にとって辛いことだったのだと思います。

昔の塚本村のまわりは、一面田んぼでした。

塚本村の絵図のアップ。八阪神社の様子がわかる唯一の資料です。鳥居と獅子・狛犬、灯篭が描かれています。

富島神社の残されている八阪神社の鳥居。歴史を感じさす風格があります。

左側にある吽形(うんぎょう)と灯篭。これも八阪神社のだと思います。

右側の「阿形(あぎょう)」と灯篭。奥にある石棺のようなものが謎です。何なんでしょうか。八阪神社にあったものなのか、そうでないのかわかりません。

塚本神社。普段は静かですが、7月19日と20日は夏祭りで賑やかになります。大晦日も地元の人たちが列をなして参拝にこられます。子供らが七五三でお世話になりました。私自身も七五三は塚本神社でした。
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塚本には古来八阪神社という由緒ある神社があり、住民の尊崇を集めていました。しかし明治42年、中津町の利島(とじま)神社(明治43年に富島神社に改称)に合祀されなくなってしまいます。
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八阪神社が無くなった後、塚本には富島神社の御旅所が設けられました。夏祭りには、ご神霊を移す渡御(とぎょ)が営まれていました。渡御は神輿を担いだ行列が淀川を橋で渡り、成小路と塚本にある御旅所へ行き、また富島神社の戻っていくというものです。当時は青年団20〜30人で神輿を担いでいたようですが、あまりの重さに十三大橋の途中で神輿をおいて帰ったというエピソードもあったとか。行列の先頭は神宮が猿田彦の面をかぶり馬に乗っていたといいます。盛大なお渡りで大いに賑わいました。神輿には大きなものと子供の神輿があり、行列の衣装もみなそろえていたそうです。そんなお祭りも、戦争によって中断されなくなってしまいました。
現在の塚本神社は昭和38年に、富島神社から独立したものです(9/18のブログを参照ください)。現在の塚本神社には八坂神社の遺構はなにもありません。記念碑があるだけです。ただし、富島神社の西側の鳥居に八坂神社の鳥居が残されているということです。

「思い出の十三 イラストマップ」
お渡りの様子が描かれています。お神輿を担いだ一行がこれから十三大橋を渡っていきます。

「思い出の十三 イラストマップ」
十三側のイラスト。成小路の御旅所の前を馬に乗った神宮さんが歩いています。こちらは、富島神社にもどるのでしょうか。本来は馬に乗った神宮さんと神輿を担いだ一行が行列を成して富島神社と成小路、塚本の御旅所を往復していたのだと思われます。

現在の地図(Googleマップより)
八阪神社のあった場所です。墓地とお寺は昔から位置が変わっていませんので、古地図との位置合わせの参考です。

昭和4年の地図。八阪神社の敷地の大きさがよく分かります。ただし、神社の地図記号がありません。

明治43年の地図。浄圓寺は大正8年にこの地に移転してきますのでまだありません。赤の矢印は下の写真の撮影場所の参考です。

(中津町史より)大阪府立修徳館の写真。右側に見える森が八阪神社の森です。残されている写真で唯一、八阪神社の一部が写った貴重な写真です。資料をいろいろ探しましたが、八阪神社の写真は皆無です。

塚本墓地にある塚本村の絵図。明治38年頃の塚本村が忠実に描かれています。村から神社がなくなるということは村民にとって辛いことだったのだと思います。

昔の塚本村のまわりは、一面田んぼでした。

塚本村の絵図のアップ。八阪神社の様子がわかる唯一の資料です。鳥居と獅子・狛犬、灯篭が描かれています。

富島神社の残されている八阪神社の鳥居。歴史を感じさす風格があります。

左側にある吽形(うんぎょう)と灯篭。これも八阪神社のだと思います。

右側の「阿形(あぎょう)」と灯篭。奥にある石棺のようなものが謎です。何なんでしょうか。八阪神社にあったものなのか、そうでないのかわかりません。

塚本神社。普段は静かですが、7月19日と20日は夏祭りで賑やかになります。大晦日も地元の人たちが列をなして参拝にこられます。子供らが七五三でお世話になりました。私自身も七五三は塚本神社でした。
2007年
11月22日
(木曜日)
消えた中津川 2
消えた中津川 2 塚本篇
塚本地区は淀川改修工事によって、大阪方面へ行くのが非常に不便になった地域です。地続きだったものが、新淀川ができることによって、十三橋を渡るか西成大橋を渡らないと行き来できなくなりました。当時はまだ塚本駅がなかったので、かなりの遠回りです。
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鷺洲町史をみていると、塚本に渡しがあったと書かれています。新淀川の開削が進む中で塚本は新旧の川に挟まれ、一時中ノ島のようになってしまったため、明治35年地元の人たちが新淀川に渡しを設けました。大正7年まであったそうです。当時の塚本は、村の集落(現在の四丁目周辺)以外は、田んぼしかありませんでした。改修工事が完成する明治43年に八阪神社が中津の利島神社(後に富島神社に改称)に合祀されなくなってしまいます。地理的に不便な場所になり、その上村民のよりどころだったであろう八阪神社がなくなってしまいます。塚本の人たちはどういう思いだったのでしょうか。
現在の塚本地域には、中津川の痕跡は皆無です。ただ地図を眺めていると、川の流れていた地域は道がまっすぐで区画がきれいに整っています。たぶん誰かが机上で書いた線がそのまま道路になったのでしょうね。

明治18年の地図。如来塚がある墓地が村外れの堤防沿いにありました。槲(かしわ)の橋は明治9年に野里村によって架けられましたが、工事に際し対岸の塚本村と協定が結ばれています。橋本体は野里村が施工するが、対岸は塚本村の領地に当たるので、橋台と取付道路は塚本村で行う。その代わり、月のうち1日、11日、21日の三日間は橋賃銭を塚本村が徴収するというものです。

明治42年の地図。新淀川の堤防に近い辺りから埋め立てが始まっています。新淀川の水量がまだ少なかったのか、川幅が狭いです。

(Googleマップより)
現在の塚本周辺です。中津川があった辺りの道路は平行線がきれいに引かれています。赤い点は如来塚です。

昔の塚本村。(鷺洲町史より)
まわりは田んぼばっかりですね。のどかね風景だったのでしょうね。初夏には蛍が乱舞していたのかもしれません。今の塚本は、カエルもいません。淀川は汽水域なので塩っ辛いです。

昔の如来塚。(鷺洲町史より)
9/14のブログ(塚本の名前の由来)を参照ください。塚本を昔からずっと見守ってくださっている私たちの大切な宝物です。

今日もきれいなお花が供えられていました。
(追記)

明治30年頃の塚本の旧家 「おおさか100年」より
非常に珍しい写真を見つけました。明治時代の塚本村の写真は貴重です。表門の前には川があり、米俵を積んだ舟が出入りしていたそうです。明治18年の地図を見ると水路が確認できますね。
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塚本地区は淀川改修工事によって、大阪方面へ行くのが非常に不便になった地域です。地続きだったものが、新淀川ができることによって、十三橋を渡るか西成大橋を渡らないと行き来できなくなりました。当時はまだ塚本駅がなかったので、かなりの遠回りです。
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鷺洲町史をみていると、塚本に渡しがあったと書かれています。新淀川の開削が進む中で塚本は新旧の川に挟まれ、一時中ノ島のようになってしまったため、明治35年地元の人たちが新淀川に渡しを設けました。大正7年まであったそうです。当時の塚本は、村の集落(現在の四丁目周辺)以外は、田んぼしかありませんでした。改修工事が完成する明治43年に八阪神社が中津の利島神社(後に富島神社に改称)に合祀されなくなってしまいます。地理的に不便な場所になり、その上村民のよりどころだったであろう八阪神社がなくなってしまいます。塚本の人たちはどういう思いだったのでしょうか。
現在の塚本地域には、中津川の痕跡は皆無です。ただ地図を眺めていると、川の流れていた地域は道がまっすぐで区画がきれいに整っています。たぶん誰かが机上で書いた線がそのまま道路になったのでしょうね。

明治18年の地図。如来塚がある墓地が村外れの堤防沿いにありました。槲(かしわ)の橋は明治9年に野里村によって架けられましたが、工事に際し対岸の塚本村と協定が結ばれています。橋本体は野里村が施工するが、対岸は塚本村の領地に当たるので、橋台と取付道路は塚本村で行う。その代わり、月のうち1日、11日、21日の三日間は橋賃銭を塚本村が徴収するというものです。

明治42年の地図。新淀川の堤防に近い辺りから埋め立てが始まっています。新淀川の水量がまだ少なかったのか、川幅が狭いです。

(Googleマップより)
現在の塚本周辺です。中津川があった辺りの道路は平行線がきれいに引かれています。赤い点は如来塚です。

昔の塚本村。(鷺洲町史より)
まわりは田んぼばっかりですね。のどかね風景だったのでしょうね。初夏には蛍が乱舞していたのかもしれません。今の塚本は、カエルもいません。淀川は汽水域なので塩っ辛いです。

昔の如来塚。(鷺洲町史より)
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今日もきれいなお花が供えられていました。
(追記)

明治30年頃の塚本の旧家 「おおさか100年」より
非常に珍しい写真を見つけました。明治時代の塚本村の写真は貴重です。表門の前には川があり、米俵を積んだ舟が出入りしていたそうです。明治18年の地図を見ると水路が確認できますね。
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