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大阪大空襲と市電

2008年06月08日 00:30

大阪大空襲と市電

昭和16年12月8日、日本はアメリカ、イギリス軍と戦争状態に入りました。市民生活は戦時色一色にぬりつぶされます。衣料、食料、生活品などは配給制に、男子は国民服にゲートル、戦闘帽、女性はエプロン、モンペ姿と、挙国一致の態勢がかたちづくられました。

昭和20年3月13日午後11時20分過ぎ、大阪市を初めての大空襲が襲います。浪速区、西区、南区、港区、大正区、東区、西成区、天王寺区と、市内中心部が黒々とした焦土と化しました。6月1日正午、今度は市内北西部が集中攻撃を受けます。第一回の大空襲より規模がはるかに大きかったそうです。6月7日午前11時10分、市内北東部、都島区、大淀区、旭区、東淀川区が狙われました。この日、十三地域も焼け野原になりました。さらに6月15日と続き、その後8月14日まで空襲は繰り返されました。そして、終戦の8月15日を迎えることになります。

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十三地域での応召(おうしょう)の様子です。家族や地域の人達に見送られて戦地に向われたのですね。右の壁は北野中学(北野高校)の壁です。地元の応召風景の写真ははじめて見ました。貴重なお写真です。

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「子どもたちの昭和史」より
昭和17年頃の紙芝居の様子です。この写真は大阪ではありませんが、見物人は、小学生くらいまでの子どもと老人ばかりです。働きざかりの人達は戦地か工場に行っています。

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「子どもたちの昭和史」より
本土爆撃は始まると、いなかがある子どもは縁故疎開をし、いなかがない子どもは学校ごと空襲のない地方に集団疎開をしました。何ヶ月も親元を離れるのはとてもつらかったのだと思います。

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「子どもたちの昭和史」より
この防空壕は床があって上等なのだそうです。背中が土にふれないように、炭だわらがつるしてあります。電球もありますね。

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「子どもたちの昭和史」より
こちらは家の中に掘られています。すぐに逃げ込めますが、家が焼けてしまうと大変です。

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「なにわ今昔」より
「日本の家は木と紙でできている」。そこでアメリカ人は、燃やすことに注目したわけです。ヨーロッパなどは石と土で出来ているので壊すしかありません。大型爆撃機B29が放つ焼夷弾(しょういだん)は、火の砲弾なのだそうです。

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「大阪市100年より」
B29から大量に落とされた焼夷弾は、火の雨のように降りそそぎ、家々を燃やしていきました。

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「なにわ今昔」より
住民達は火を消すために必死です。消火ポンプとホースで食い止めようとしています。

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「なにわ今昔」より
6月1日の爆撃です。中央右に大阪城が見えます。その下が中之島です。福島の辺りから煙が出ているように見えます。

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「大阪市100年より」
この写真も6月1日だそうです。大阪港からすごい煙が出ています。現在は天保山マーケットプレースや海遊館がある場所です。次から次から焼夷弾が落ちていきます。

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「なにわ今昔」より
こちらは6月7日の写真だそうです。燃えているのは福島区の倉庫群だそうです。すごい煙です。

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「なにわ今昔」より
桜橋の辺りです。住民は逃げずに火を消そうとしているのでしょうか。ハシゴを担いでいます。

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「なにわ今昔」より
路上で焼けた市電。運行中に空襲が来たのかもしれません。

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「昭和の大阪」より
焼け野原になった市内です。縦の道路が御堂筋、横の川は長堀川です。大丸とそごうが焼け残っています。左中央上のビルは四つ橋の電気科学館です。ここも焼け残りました。ただ木造の家屋は全滅です。ポツポツと土蔵だけが残っています。

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「なにわ今昔」より
3月14日の御堂筋です。最初の大空襲の翌日です。旧イトマンビル屋上から撮影されています。左の焼け跡は北御堂です。何も残っていません。

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「大阪市営交通創業100年」より
港区の辺りだそうです。市電が走っています。まだ戦時中の写真のようです。この焼け野原の中を走る市電ってすごいと思います。

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「大阪市営交通創業100年」より
続きの写真です。後ろにも反対行きでしょうか。市電が確認できます。

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「子どもたちの昭和史」より
終戦を迎え戦地からお父さんが帰ってきました。ドラマではよく見るシーンですが、リアルな写真を見ると胸が熱くなります。子どもが直視しているのが印象的です。


(関連サイト)
『デジカメ散歩日記ー大阪大空襲』 TOSSY
大阪大空襲の記録はこちらで見れます。
『おおさか市内で戦争と平和を考える』


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大阪市電がつくった道路

2008年06月06日 06:06

大阪市電がつくった道路

大阪の道路は、秀吉の築城以来、東西を「通り」南北を「筋」と呼び、碁盤の目のようにつくられました。もともと水運が盛んだったこともあり、道路の整備がほとんど行われておらず、近代都市として発展していくには、道路の整備拡充が急務になっていました。

明治42年頃から大正5年頃にかけて、3期線(18路線)が開通します。大阪市内の主要道路が市電の敷設に合わせて、この時代につくられました。しかし立ち退きを強いられる沿道住民の反対運動は半端ではありませんでした。さらに不況になったこともあり工事は予定通り進みません。ところが、明治末期に北の大火(明治42年)と南の大火(明治45年)が起こります。もめていた新線の建設がこれによって容易に進むことになったのだそうです。現在の都市道路の原型がこの時代につくられたのですね。

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地図は「實地踏測大阪市街全圖 (大正7年)」より 道路は「市電ー市民とともに65年」の図を参考にしています。3期線によってこれらの道路ができました。御堂筋はまだありません。御堂筋の母体となる梅田新道ができています。御堂筋は大正15年から工事にかかり、昭和12年に完成します。

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「大阪市100年」より
大正初め頃の心斎橋筋です。明治30年頃までは、この心斎橋筋が一番広い道だったそうです。この写真はどの辺りでしょうね。

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「ふるさとの思い出写真集」より
参考までにこれも心斎橋筋です。どこだかわかりますよね。大丸百貨店です。大正11年に第一期改築工事が終わった後の写真のようです。こちら側が正面でした。反対側にはまだ御堂筋がない時代です。

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「大阪市100年」より
これは大正時代の堺筋です。市電が通ることによってこんなに広い道路が生まれました。御堂筋が出来るまでは、大阪を代表する幹線道路でした。高い建物は三越百貨店です。向こうが北ですね。

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「大阪市100年」より
明治44年に完成した難波橋です。ここも堺筋ですね。市電の向こうに橋が見えますね。何橋でしょう?

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「大阪市内詳細図」より
大正3年の地図ですが、橋が平行して2本架かっていました。小さい方が元祖難波橋だったんですね。大正7年の地図を見ると旧難波橋は無くなっていました。

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「ふるさとの思い出写真集」より
大正末期の長堀橋です。縦が堺筋、横が長堀通りです。右角の煙突のある建物は木村家パン総本店だそうです。が、ご存知ですか?

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「大阪市パノラマ地図」より
この場所です。あたりまえですが堀があったんですよね。今は地味な堺筋(ゴメンナサイ)ですが、当時はメインストリートだったといってもいいのではないでしょうか。


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梅田を走る市電 開通篇

2008年06月02日 07:00

梅田を走る市電 開通篇

明治36年、大阪に初めての市電が開通し、翌年には大阪駅前にも市電を敷設する計画が市会に提案されました。大阪市内を南北に貫く南北線(梅田停車場前~恵比寿町)と東西線です。しかし、当時の大阪市内は道幅がせまく、線路を引くにはいやが上でも、土地を立ち退かせて道を広げるしかありませんでした。当然、沿道住民の反対運動は相当なもので、工事はかなり難航しました。中には、民事訴訟、行政訴訟、さらには刑事問題にまで発展した地域もありました。

明治41年8月1日、第2期線の開通の日、出発点の九条発電所前には夜明け前から大勢の市民が待ち構えていました。一番電車は午前5時5分に花火の合図と共に出発、沿道では万歳、万歳と歓声があがったそうです。電車の中も大変な状態で、停留所に着くたびに乗るものばかりで、身動きひとつできない超満員。真夏なので暑かったでしょうね。慶祝ムードは夜まで続き、各所に立てられたアーチのイルミネーションが輝き、大阪市内はさながら不夜城のような華やかさだったといいます。

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「大阪市100年」より
この電車は、大阪で初めて運行した時の花園橋付近を走る2階つき電車です。明治37年に登場し、明治44年に姿を消していますが、夕涼みや観月などで人気があったそうです。

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「大阪市営交通創業100年」より
明治41年8月1日の第2期線開通日の写真です。場所は四ツ橋付近だそうです。たくさんの人です。よく見ると傘をさしていますね。当日は天気が悪かったのかもしれません。


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「大阪市営交通90年のあゆみ」より
上と同じ場所のようです。イルミネーションが夜遅くまで夜空を照らしていました。

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「市電」より
開業日の梅田停車場前のアーチです。いつものモサモサですね。アーチに箕面有馬電気鉄道の名前がみえます。お祝いの協賛をしていたのでしょうか。

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「市電」より
こちらは渡辺橋のアーチです。こちらのアーチもモサモサしてます。


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「市電」より
こちらは難波停車場前のアーチです。アーチにもいろいろな形があったんですね。

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第2期の時点の路線です(駅名は主要駅です)。この後、第3期線、第4期線が続いていきます。大正末頃には、ほぼ大阪市内全域を市電が走ることになります。すごい勢いです。敷設工事と同時に道路幅も拡張されました。市内の主要道路はこの時代に拡張されものです。

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「大阪市パノラマ地図」より
大正12年頃の梅田周辺です。この時代には、ほぼ市内全域に市電が走っていました。

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「大阪市パノラマ地図」より
渡辺橋を通っているのが南北線です。堂島川や土佐堀川に船が多く描かれています。水の都大阪を感じますね。

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「大阪市パノラマ地図」より
南北線が難波停車場の前を通っています。千日前の楽天地が目立っていますね。劇場や演芸場などが入ったレジャーセンターみたいなものだったようです。山川吉太郎氏が建てています。山川氏の子孫が十三のサンポードシティの前進になる十三劇場と朝日座を建てました。

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「大阪市パノラマ地図」より
恵比寿町が南北線の終点です。通天閣の所ですね。

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「大阪市100年」より
開通当初の初期型車体です。77号車。前面の番号で形式がわかるのです。私もマニアになってきました(笑)

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「なにわの市電」より
ちなみに当時の車体の色はこんな感じでした。エエ感じです。

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「なにわの市電」より
2階つきの車体は明治時代に数台しか造られませんでした。この5号車はイベントやパレードなどで廃止当日まで大活躍した車体です。


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