2008年
03月26日
(水曜日)
十三の由来 5
十三の由来 5 摂津国絵図篇
摂津国で最も古い絵図は、慶長十年(1605)の摂津国絵図だそうです。この絵図には、郡ごとに色を変えて郡の範囲と村々の位置が示され、郡名・村名・村高やほかに山・河・海の地形、主要な街道、一里塚のしるし、名所旧跡等が描かれています。西宮市立中央図書館で複写が見れるということで見てきました。
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「慶長十年摂津国絵図」より
原本の複写プリントが見れるのですが、ピントが合っていませんでした。細かい文字が読みにくいのが残念です。モノクロコピーをさせていただきました。「十祖村」の文字が見えますでしょうか。

コピーでは文字が読みにくいので書き起こしました。川は中津川です。赤い太いラインは中国街道です。渡しの文字がありませんが、ここは間違いなく十三の渡しの場所です。「十祖村」の文字が不思議な感じがします。

「慶長十年摂津国絵図」より
こちらは小さい複写プリントのコピーです。こちらの方がまだピントが合っています。下の部分が切れているのが残念…。「十祖村」と読めます。が、「十租村」と読めなくもないです。ピントが甘いのが悔まれます。

「摂津国の元禄国絵図の模写本」より
元禄十五年(1702)に描かれている絵図です。村の名前がかなり変わっています。慶長十年から約100年経っています。この絵図では、川の中に拾三舟渡の文字が確認できます。
簡単にまとめると…
「慶長十年摂津国絵図」に書かれた村名が正しいとすれば、1605年頃、「十祖村」という名前の村が存在し、渡しもその村にありました。1691年頃の「大坂大絵図」では「ぢうそう渡」と記されており、1701年刊行の「摂陽郡談」では「十三」の文字が記されています。また、1702年頃の絵図には「拾三舟渡」という文字も確認できました。この時代のあたりで「十三(じゅうそう)」というけったいな地名?ができあがったのではないでしょうか。みなさんはどう思われますか?
※情報をいただいた西岡氏に感謝いたします。

夙川沿いにある西宮中央図書館。環境のいい場所にあります。
※「慶長十年摂津国絵図」は西宮市と兵庫県の指定文化財です。毎年11月3日に指定文化財を観覧できるそうです。

もうすぐですね。今年は、久しぶりに夙川の桜並木を散歩してみようかな。
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摂津国で最も古い絵図は、慶長十年(1605)の摂津国絵図だそうです。この絵図には、郡ごとに色を変えて郡の範囲と村々の位置が示され、郡名・村名・村高やほかに山・河・海の地形、主要な街道、一里塚のしるし、名所旧跡等が描かれています。西宮市立中央図書館で複写が見れるということで見てきました。
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「慶長十年摂津国絵図」より
原本の複写プリントが見れるのですが、ピントが合っていませんでした。細かい文字が読みにくいのが残念です。モノクロコピーをさせていただきました。「十祖村」の文字が見えますでしょうか。

コピーでは文字が読みにくいので書き起こしました。川は中津川です。赤い太いラインは中国街道です。渡しの文字がありませんが、ここは間違いなく十三の渡しの場所です。「十祖村」の文字が不思議な感じがします。

「慶長十年摂津国絵図」より
こちらは小さい複写プリントのコピーです。こちらの方がまだピントが合っています。下の部分が切れているのが残念…。「十祖村」と読めます。が、「十租村」と読めなくもないです。ピントが甘いのが悔まれます。

「摂津国の元禄国絵図の模写本」より
元禄十五年(1702)に描かれている絵図です。村の名前がかなり変わっています。慶長十年から約100年経っています。この絵図では、川の中に拾三舟渡の文字が確認できます。
簡単にまとめると…
「慶長十年摂津国絵図」に書かれた村名が正しいとすれば、1605年頃、「十祖村」という名前の村が存在し、渡しもその村にありました。1691年頃の「大坂大絵図」では「ぢうそう渡」と記されており、1701年刊行の「摂陽郡談」では「十三」の文字が記されています。また、1702年頃の絵図には「拾三舟渡」という文字も確認できました。この時代のあたりで「十三(じゅうそう)」というけったいな地名?ができあがったのではないでしょうか。みなさんはどう思われますか?
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夙川沿いにある西宮中央図書館。環境のいい場所にあります。
※「慶長十年摂津国絵図」は西宮市と兵庫県の指定文化財です。毎年11月3日に指定文化財を観覧できるそうです。

もうすぐですね。今年は、久しぶりに夙川の桜並木を散歩してみようかな。
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2008年
03月23日
(日曜日)
十三の由来 4
十三の由来 4 呼び方篇
「十三」という地名の由来を調べていく中で、一番古い記載は元禄十四年(1701年)に刊行された「摂陽郡談」であると以前書きました。しかし、当時それを「じゅうそう」呼んでいたかはわかりませんでした。読み方についての手がかりを偶然見つけました。
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中之島で見つけた石碑です。道が二又に分かれている場所にあります。寛政十一年(1799)に建てられたと記されていました。「右ハ 梅田 十そう 大仁 尼がさ紀 左り 安治川 やぐら迄十七丁程」と記されています。

「十三」ではなく「十そう」と刻まれています。旅人にとって「十三」は読みにくいので、「十そう」としたのでしょうか。この時代、「十三」は「じゅうそう」と呼ばれていたことがわかります。
大きな地図で見る
石碑の場所です。ちょうどとなりで中之島ダイビルが建設中です。

明治19年の地図です。石碑のとおり、右に曲がり道なりにいくと大仁(だいに)村にたどり着きます。そこから、十三へ向う道と尼崎方面へ行く道に分かれます。尼崎方面へ行く道は野里の渡しを渡ることになります。
もうひとつ、呼び方の手がかりを見つけました。

元禄四年(1691)の大坂大絵図です。何度かみていた地図なのですが、この地図にもちょっとした発見がありました。

川の中に「ぢうそう渡」の文字が確認できます。成小路村から渡し舟が出ていて、ここが十三の渡しだと分かっていたのですが、「十三」の文字がなかったのでこの地図を重要視していませんでした。この地図は「摂陽郡談」より少し古い1691年です。
今回、元禄四年、西暦1691年には、「十三」を「ぢうそう」と呼んでいたことが分かりました。さて、この先どこまでさかのぼれるのでしょうか。
(関連ページ)
十三の由来3 摂陽郡談篇
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「十三」という地名の由来を調べていく中で、一番古い記載は元禄十四年(1701年)に刊行された「摂陽郡談」であると以前書きました。しかし、当時それを「じゅうそう」呼んでいたかはわかりませんでした。読み方についての手がかりを偶然見つけました。
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中之島で見つけた石碑です。道が二又に分かれている場所にあります。寛政十一年(1799)に建てられたと記されていました。「右ハ 梅田 十そう 大仁 尼がさ紀 左り 安治川 やぐら迄十七丁程」と記されています。

「十三」ではなく「十そう」と刻まれています。旅人にとって「十三」は読みにくいので、「十そう」としたのでしょうか。この時代、「十三」は「じゅうそう」と呼ばれていたことがわかります。
大きな地図で見る
石碑の場所です。ちょうどとなりで中之島ダイビルが建設中です。

明治19年の地図です。石碑のとおり、右に曲がり道なりにいくと大仁(だいに)村にたどり着きます。そこから、十三へ向う道と尼崎方面へ行く道に分かれます。尼崎方面へ行く道は野里の渡しを渡ることになります。
もうひとつ、呼び方の手がかりを見つけました。

元禄四年(1691)の大坂大絵図です。何度かみていた地図なのですが、この地図にもちょっとした発見がありました。

川の中に「ぢうそう渡」の文字が確認できます。成小路村から渡し舟が出ていて、ここが十三の渡しだと分かっていたのですが、「十三」の文字がなかったのでこの地図を重要視していませんでした。この地図は「摂陽郡談」より少し古い1691年です。
今回、元禄四年、西暦1691年には、「十三」を「ぢうそう」と呼んでいたことが分かりました。さて、この先どこまでさかのぼれるのでしょうか。
(関連ページ)
十三の由来3 摂陽郡談篇
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2008年
01月12日
(土曜日)
十三の由来 3
十三の由来3 摂陽郡談篇
十三という地名の由来は、「淀川 で上流から13番目の渡しであったから」という説が一般的のようです。「13番目の渡し」を検証するには、いつの時代から十三と呼ばれるようになったかを調べる必要があります。そして、その時代にいくつの渡しが存在したかを調べていきたいと思います。
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古地図や古文書の中で十三が表記されている一番古いものは、今のところ「摂陽郡談」ではないかと思います。
「摂陽郡談」とは元禄十四年(1701年)に刊行された摂津国の地誌です。原本は十七巻十七冊からなり、当時の名所旧跡、神社仏閣などが細かく書かれていて、その中でも和歌を尊重していたようで、地方の和歌名所をよんだ歌の収録集的な体裁をとっています。この本の中では、十三の地名の由来は書いてはいませんが、いくつか十三という文字が出てきますので紹介します。
村里西成郡
成小路村(郷中に十三村の小名あり)
済の部
十三済 西成郡新田村より、堀村に渉る処也。本庄済の下(成小路或小島)の渉とも云へり。
川の部
十三川 西成郡成小路村の渡を云へり。東は長柄川、西は伝法川に落。世に十三と称す。
※ 済とは渡しのことです。
「摂陽郡談」では、この時代の十三がどんな場所であったかまでは書かれていません。ただ、当時から、十三という地名は存在していましたが、あくまでも成小路(なるじょうじ)という村の渡し場の地名でした。しかし、「十三済」や「十三川」とあるように、渡し場のあった地域を総称して「十三」と呼んでおり、知名度は高かったと思われます。街道を通る人に物を売る商売があったかは不明ですが、今里屋久兵衛の創業が享保十二年(1727年)ですので、街道を往来する人を目当てに商売をしている人がいたかもしれません。
十三のルーツはもっと前の時代にさかのぼる必要があるようです。
ちなみに、「摂陽郡談」に書かれている渡しを中津川の下流から並べると、
野里済、十三済、本庄済、長柄済、今市済、平田済、江口済、一屋済、鳥飼済、三島江済、礒島済、鵜殿済、水無瀬済となります。
十三済は上流から数えて12番目でした。
ところで、この時代から「ジュウソウ」と呼ばれていたのでしょうか?読み方もなぞの一つです。

河絵図 寛政九年(1797年)の古地図に「摂陽郡談」に書かれている渡しを入れてみました。ふと気づいたのですが、淀と水無瀬済の間にもうひとつ渡しがあったとすれば十三済までちょうど13になります。古地図にはワタシと書かれていますが、「摂陽郡談」にはありませんでした。摂津国の外になるので書かれていなかったのかもしれません。当時ここにも渡しが一つあれば、中津町史にあった「淀町より第十三次の渡なりと。」と合致します。
あくまでも「摂陽郡談」が刊行された1701年の時点ということですが…
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十三という地名の由来は、「淀川 で上流から13番目の渡しであったから」という説が一般的のようです。「13番目の渡し」を検証するには、いつの時代から十三と呼ばれるようになったかを調べる必要があります。そして、その時代にいくつの渡しが存在したかを調べていきたいと思います。
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古地図や古文書の中で十三が表記されている一番古いものは、今のところ「摂陽郡談」ではないかと思います。
「摂陽郡談」とは元禄十四年(1701年)に刊行された摂津国の地誌です。原本は十七巻十七冊からなり、当時の名所旧跡、神社仏閣などが細かく書かれていて、その中でも和歌を尊重していたようで、地方の和歌名所をよんだ歌の収録集的な体裁をとっています。この本の中では、十三の地名の由来は書いてはいませんが、いくつか十三という文字が出てきますので紹介します。
村里西成郡
成小路村(郷中に十三村の小名あり)
済の部
十三済 西成郡新田村より、堀村に渉る処也。本庄済の下(成小路或小島)の渉とも云へり。
川の部
十三川 西成郡成小路村の渡を云へり。東は長柄川、西は伝法川に落。世に十三と称す。
※ 済とは渡しのことです。
「摂陽郡談」では、この時代の十三がどんな場所であったかまでは書かれていません。ただ、当時から、十三という地名は存在していましたが、あくまでも成小路(なるじょうじ)という村の渡し場の地名でした。しかし、「十三済」や「十三川」とあるように、渡し場のあった地域を総称して「十三」と呼んでおり、知名度は高かったと思われます。街道を通る人に物を売る商売があったかは不明ですが、今里屋久兵衛の創業が享保十二年(1727年)ですので、街道を往来する人を目当てに商売をしている人がいたかもしれません。
十三のルーツはもっと前の時代にさかのぼる必要があるようです。
ちなみに、「摂陽郡談」に書かれている渡しを中津川の下流から並べると、
野里済、十三済、本庄済、長柄済、今市済、平田済、江口済、一屋済、鳥飼済、三島江済、礒島済、鵜殿済、水無瀬済となります。
十三済は上流から数えて12番目でした。
ところで、この時代から「ジュウソウ」と呼ばれていたのでしょうか?読み方もなぞの一つです。

河絵図 寛政九年(1797年)の古地図に「摂陽郡談」に書かれている渡しを入れてみました。ふと気づいたのですが、淀と水無瀬済の間にもうひとつ渡しがあったとすれば十三済までちょうど13になります。古地図にはワタシと書かれていますが、「摂陽郡談」にはありませんでした。摂津国の外になるので書かれていなかったのかもしれません。当時ここにも渡しが一つあれば、中津町史にあった「淀町より第十三次の渡なりと。」と合致します。
あくまでも「摂陽郡談」が刊行された1701年の時点ということですが…
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