2008年09月05日 10:10
十三の由来 6 「地名伝承学論」篇
古代の文化遺産としての地名研究と保存につとめておられる池田末則氏の著書に『地名伝承学論』があります。その中で『十三』についても書かれていますので簡単にまとめてみました。
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○「十三(じゅうそう)」駅はツツミ(川堤)の義で、淀川流域の湿地帯であった。(P47)
○大阪市内の十三(じゅうそ)は淀川堤の十三(つつみ)のことであるが、十三をトミと読み、富神社が建てられ恵比寿(市の神)を祭神とするなど、地名用字から信仰が起こった。(P137)
○大阪市淀川区の町名、「十三(じゅうそう)」は淀川の「堤(つつみ)」で、『玉勝間』には「文選の古き訓に十をツツと訓めり」とみえ、「十三(ツツミ)」は「十楚(じゅうそ)」「重相」「十相」「十増」とも書いた(『大和地名大辞典』)。(P222)
『地名伝承学論ー補訂(クレス出版)』より
池田氏の著書によると、奈良・平安時代に官による地名の改変命令があったそうです。それは中国風に漢字二字にし、好字(こうじ)、嘉名(かめい)で整えよというものでした。この時に全国のかなりの地名が変わってしまったそうです。また日本各地に「十三(トミ)塚」にかかわる地名が約300もあるそうで、そのことについても推考されています。その関連で上記の事が書かれていました。
淀川改良工事前の「十三」は今の場所ではなく、中津川の南岸の堤付近にありました。奈良・平安時代にその場所がどう呼ばれていたかの資料は見つけられませんが、「堤(つつみ)」と呼ばれていた可能性は否定できません。その「つつみ」という呼び名を「十(つつ)」「三(み)」として、漢字をあてたのでしょうか。
ただし、元の十三があった地域に富(とみ)神社やえびす神社は確認できませんでした。地域の神社は歴史ある鷺嶋神社で、少し離れた場所に小さい兵衛府神社が確認できます。現在、神津神社の境内に十三戎神社がありますが、これは戦後勧請されたもので「十三-トミ-富」と縁起のいい名前なので、1月の十日戎は毎年賑わっています。

明治18年測量の地図です(着色してみました)。赤い地域が十三と呼ばれていた地域です。地図を見ると、北対岸は村から離れており、堤の辺りは人家が少ししかありません。その中に今里屋久兵衛がありました。すぐ三差路になっていて、左は中国街道、右は能勢街道と合流していました。

中津川はくねくね蛇行していたので、大雨の時はよく氾濫し下流域は洪水に悩まされていました。淀川改良工事は明治29年の「河川法」制定とともに国直轄事業として始まり、淀川下流の神崎川、大川、中津川を1つの大放水路にまとめる工事などを実施し明治42年工事は完了しています。この時に地図上から十三の地名はなくなりました。ところが、明治43年に開通した箕面有馬電気軌道が淀川北岸の堤防の上に設置した駅名に「十三」という名前をつけます。これが新しい十三の始まりです。

明治44年の地図 「實地踏測大阪市街全圖(日文研)」より
当時は堤防の上に十三駅が設置されました。大正5年に現在の位置に移動しています。大正14年に東淀川区が誕生し、「十三東之町」と「十三西之町」という地名が生まれました。町名に十三が復活したのはこの時です。十三橋は今の十三大橋の先代の橋です。

中津の富島神社にある十三思昔会の碑です(裏側)。淀川改良工事で旧十三町民がばらばらになり、旧町民の人達が発起し大正10年に建てました。

十三思昔会の文字が確認できます。
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(関連サイト)
『元の十三の場所』
『十三あん焼と十三焼餅』
『忘れられた鷺嶋神社』
古代の文化遺産としての地名研究と保存につとめておられる池田末則氏の著書に『地名伝承学論』があります。その中で『十三』についても書かれていますので簡単にまとめてみました。
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○「十三(じゅうそう)」駅はツツミ(川堤)の義で、淀川流域の湿地帯であった。(P47)
○大阪市内の十三(じゅうそ)は淀川堤の十三(つつみ)のことであるが、十三をトミと読み、富神社が建てられ恵比寿(市の神)を祭神とするなど、地名用字から信仰が起こった。(P137)
○大阪市淀川区の町名、「十三(じゅうそう)」は淀川の「堤(つつみ)」で、『玉勝間』には「文選の古き訓に十をツツと訓めり」とみえ、「十三(ツツミ)」は「十楚(じゅうそ)」「重相」「十相」「十増」とも書いた(『大和地名大辞典』)。(P222)
『地名伝承学論ー補訂(クレス出版)』より
池田氏の著書によると、奈良・平安時代に官による地名の改変命令があったそうです。それは中国風に漢字二字にし、好字(こうじ)、嘉名(かめい)で整えよというものでした。この時に全国のかなりの地名が変わってしまったそうです。また日本各地に「十三(トミ)塚」にかかわる地名が約300もあるそうで、そのことについても推考されています。その関連で上記の事が書かれていました。
淀川改良工事前の「十三」は今の場所ではなく、中津川の南岸の堤付近にありました。奈良・平安時代にその場所がどう呼ばれていたかの資料は見つけられませんが、「堤(つつみ)」と呼ばれていた可能性は否定できません。その「つつみ」という呼び名を「十(つつ)」「三(み)」として、漢字をあてたのでしょうか。
ただし、元の十三があった地域に富(とみ)神社やえびす神社は確認できませんでした。地域の神社は歴史ある鷺嶋神社で、少し離れた場所に小さい兵衛府神社が確認できます。現在、神津神社の境内に十三戎神社がありますが、これは戦後勧請されたもので「十三-トミ-富」と縁起のいい名前なので、1月の十日戎は毎年賑わっています。

明治18年測量の地図です(着色してみました)。赤い地域が十三と呼ばれていた地域です。地図を見ると、北対岸は村から離れており、堤の辺りは人家が少ししかありません。その中に今里屋久兵衛がありました。すぐ三差路になっていて、左は中国街道、右は能勢街道と合流していました。

中津川はくねくね蛇行していたので、大雨の時はよく氾濫し下流域は洪水に悩まされていました。淀川改良工事は明治29年の「河川法」制定とともに国直轄事業として始まり、淀川下流の神崎川、大川、中津川を1つの大放水路にまとめる工事などを実施し明治42年工事は完了しています。この時に地図上から十三の地名はなくなりました。ところが、明治43年に開通した箕面有馬電気軌道が淀川北岸の堤防の上に設置した駅名に「十三」という名前をつけます。これが新しい十三の始まりです。

明治44年の地図 「實地踏測大阪市街全圖(日文研)」より
当時は堤防の上に十三駅が設置されました。大正5年に現在の位置に移動しています。大正14年に東淀川区が誕生し、「十三東之町」と「十三西之町」という地名が生まれました。町名に十三が復活したのはこの時です。十三橋は今の十三大橋の先代の橋です。

中津の富島神社にある十三思昔会の碑です(裏側)。淀川改良工事で旧十三町民がばらばらになり、旧町民の人達が発起し大正10年に建てました。

十三思昔会の文字が確認できます。
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『忘れられた鷺嶋神社』
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