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十三の由来 3

2008年01月12日 01:00

十三の由来3 摂陽郡談篇

十三という地名の由来は、「淀川 で上流から13番目の渡しであったから」という説が一般的のようです。「13番目の渡し」を検証するには、いつの時代から十三と呼ばれるようになったかを調べる必要があります。そして、その時代にいくつの渡しが存在したかを調べていきたいと思います。

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古地図や古文書の中で十三が表記されている一番古いものは、今のところ「摂陽郡談」ではないかと思います。
「摂陽郡談」とは元禄十四年(1701年)に刊行された摂津国の地誌です。原本は十七巻十七冊からなり、当時の名所旧跡、神社仏閣などが細かく書かれていて、その中でも和歌を尊重していたようで、地方の和歌名所をよんだ歌の収録集的な体裁をとっています。この本の中では、十三の地名の由来は書いてはいませんが、いくつか十三という文字が出てきますので紹介します。

村里西成郡
成小路村(郷中に十三村の小名あり)

済の部
十三済  西成郡新田村より、堀村に渉る処也。本庄済の下(成小路或小島)の渉とも云へり。

川の部
十三川  西成郡成小路村の渡を云へり。東は長柄川、西は伝法川に落。世に十三と称す。

※ 済とは渡しのことです。

「摂陽郡談」では、この時代の十三がどんな場所であったかまでは書かれていません。ただ、当時から、十三という地名は存在していましたが、あくまでも成小路(なるじょうじ)という村の渡し場の地名でした。しかし、「十三済」や「十三川」とあるように、渡し場のあった地域を総称して「十三」と呼んでおり、知名度は高かったと思われます。街道を通る人に物を売る商売があったかは不明ですが、今里屋久兵衛の創業が享保十二年(1727年)ですので、街道を往来する人を目当てに商売をしている人がいたかもしれません。

十三のルーツはもっと前の時代にさかのぼる必要があるようです。
ちなみに、「摂陽郡談」に書かれている渡しを中津川の下流から並べると、
野里済、十三済、本庄済、長柄済、今市済、平田済、江口済、一屋済、鳥飼済、三島江済、礒島済、鵜殿済、水無瀬済となります。
十三済は上流から数えて12番目でした。
ところで、この時代から「ジュウソウ」と呼ばれていたのでしょうか?読み方もなぞの一つです。

絵図
河絵図 寛政九年(1797年)の古地図に「摂陽郡談」に書かれている渡しを入れてみました。ふと気づいたのですが、淀と水無瀬済の間にもうひとつ渡しがあったとすれば十三済までちょうど13になります。古地図にはワタシと書かれていますが、「摂陽郡談」にはありませんでした。摂津国の外になるので書かれていなかったのかもしれません。当時ここにも渡しが一つあれば、中津町史にあった「淀町より第十三次の渡なりと。」と合致します。
あくまでも「摂陽郡談」が刊行された1701年の時点ということですが…





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十三の由来 2

2008年01月11日 01:00

十三の由来2 中津町史篇

十三の地名の由来は、わかっていません。ただ、昔からいろいろな説が言われていました。「なぜこんな地名なの?」と思うのは今も昔も変わらないようです。今回は中津町史に書かれていることを紹介します。

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古老の伝ふる説数多あり。
曰く淀町より第十三次の渡なりと。
曰く江戸より西国にかけて第十三次の渡なりと。
曰く初代舟子の通称もて呼ばれし遺称なりと。
曰く南浜の長者十三なる者神崎の遊里に通はん為に特設したる渡なればなりと。
思ふに是上古における条里の遺称ならん。(中略)
南に九条村、北に十八条村ありて十三はその中間に介在せり。(中略)されば「十三」は十三条の略称の遺存なることは明らかなり。殊に里を作せる単位坪の名を有せる八ノ坪の小字名を存し、又隣境鷺洲町には坪の名を有せる小字名の存するの多きも又傍証たるべきか。 
(※中津町史より抜粋 ※旧字体を新字体に変えています)

簡単に訳しますと、
古老から伝わる説がいくつもあります。たとえば、
淀町(伏見区淀の辺り)から数えて13番目の渡しである。
江戸より西国にかけて13番目の渡しである。
(これの意味がわかりませんでした。)
渡しの初代の船頭が十三と呼ばれていた。
南浜の十三という名の長者が遊郭(神崎、蟹島)に行くために設けた渡しである。等などいろいろ説はあるが、しかし、推察するに大昔の条里の名残ではないかと思う。
十三は九条と十八条の中間に位置する。(中略)であるから十三条からきているのではないか。その証拠に、条里制で使われている単位の坪がついた地名がこの周辺には多く残っている。


条里制についての説明をかなり端折りましたが、詳しくは12/8のブログ(十三の由来)を参照ください。
一般的に、十三は「淀川 で上流から13番目の渡しがあったから」(淀川区のホームページより)と言われていますが、中津町史では条里制からきていると言い切っています。どちらが正しいかはわかりません。13番目の渡し説が有力と書かれていたりしますが、おそらく個人的な思いや推測などが一人歩きしているようにも思われます。ただ13番目の渡し説も、今後検証していきたいと思っています。

今回は写真がなくてごめんなさい。



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十三の由来

2007年12月08日 21:41

十三の由来 条里制篇

十三という地名の由来はいくつかの説がありはっきりしません。諸説の中で有力とされる説のひとつに、条里制に由来するというのがあります。条里制についてちょっと調べてみました。

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条里制とは簡単に説明すると、飛鳥時代から奈良時代にかけて土地を碁盤の目のように区画し、土地に番地をつけた古代の土地制度です。条里制の研究が始まったのは遅く、大阪府下の研究に関しては、天坊幸彦氏が昭和22年に発表した「上方浪華の歴史地理的研究」が最初になります。その後、天坊氏の研究成果を受けて大越勝秋氏が所説をさらに補強、修正した「河内の条里制の諸問題」を昭和30年代に発表し、大阪市域の条里制の概要がほぼ解明されることになったのです。研究といっても飛鳥時代に行われたことを調べるわけですから考古学の部類になるのです。
十三という地名が条里制からきているのではないかと言ったのは天坊幸彦氏のようです。天坊氏が「四天王寺御手印縁起」という古文書の記載から、「トビ田を飛田とみて西成郡一条をここに求め、神崎川南岸の淀川区十八条に地名をとどめる一八条まで北へ数え進み、同区十三本町の十三の地名は一三条に当たる」と考えたようです。昔から伝わる地名の中には明らかに条里制からきている地名が各地に残っています。十三もそのひとつではないかと天坊氏は考えたのです。

条理制01
大阪市域の条里制(大阪市史より)
東成郡、西成郡の条里制に関しては、市街化によって資料が少なく明確ではないので破線になっています。西成郡の地割がやや傾いているのがわかりますね。理由はわかりません。大阪の中心部は条里制の遺構は皆無です。


条里02
大阪市北部の条里地割(大阪市史より)
破線と条数は、最初の地図を参考にして重ね合わせてみました。16条の辺りで中島大水道が直角に曲がっているのと地割がピッタリと合致しました。中島大水道は古水道を利用して1678年に農民達が作った治水等を目的にした水路です。古水道は条里制の名残の水道だと考えられています。オレンジ色の辺りが淀川改修工事前の十三です。十三は成小路村の一集落でした。18条の辺りが現在の淀川区十八条です。十八条の地名の由来は、いろいろな資料に書かれているのをみると、ほぼ条里制からきているということで間違いないようです。


条里03
明治18年の地図に地割を重ねてみました。
地割でみるかぎり、十三地区は一四条になります。多少の誤差が考えられますが、西成郡の条里制の記録がほとんど残されていないのと、研究者が研究を始めた昭和初期には市街化が進み、田んぼや水路がほとんど残されていないなどが原因で、条里制の正確な地割がわかっていません。西成郡の地割は研究者の推定になります。





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