2013年10月07日 06:00
神戸・阪神間古代地形散歩
神戸アースダイバー
1. 西求女塚古墳と処女塚古墳
太古の時代、神戸・阪神間はどのような場所だったのだろう。
奈良や大阪に比べてこのエリアの古代の情報は少ないように思う。ただ、国道43号線を車で走っていると、測道沿いに西求女塚(にしもとめづか)古墳や処女塚(おとめづか)古墳があることに気づきます。おそらく有力な豪族が古墳時代にはいたのでしょう。
資料を見ると、旧石器時代や縄文時代の遺跡は低地からはほとんど発見されておらず、詳しい事はあまりわかっていないようです。ただし、縄文前期初頭ぐらいから縄文人は海岸低地まで生活圏を拡大していたのではないかといわれています。その時代は、海水面が今より2~3メートル高い縄文海進といわれる現象が起きている。縄文人はその時どのような風景を見ていたのでしょう。そんなことをイメージしながら古代の地形を想像し歩いて行きたいと思います。

カシミール3Dで海水面を数メートル高くした大阪湾の地形図です。埋立地エリアは意図的に薄くしています。あくまでもイメージですが、なんとなく縄文海進時代の海岸線が見えてきますね。その地形図に現在も残る代表的な古墳と有力な神社をプロットしてみました。

神戸・阪神間の拡大です。西求女塚古墳、処女塚古墳、東求女塚古墳が海岸線に沿って並んでいます。神社を見ると、西宮神社のみが標高の低い場所にあることも興味深い。元々海だった場所に砂が堆積してできた砂州に鎮座しているのでしょう。

カシバードで上町台地上空から神戸方面を見てみました。難波津や住吉津と務古水門(むこのみなと)がほどよい距離にあることがわかる。神功皇后にゆかりのある港でもあります。

西宮上空から神戸方面を見た縄文海進時代の海岸線のイメージです。縄文人がこのエリアでどのような生活をしていたか想像するのも面白い。おそらく山麓エリアが居住地であり、狩りや木の実を食料にしながら、海岸では魚や貝を採っていたのではないでしょうか。

神戸市垂水区の上空です。海岸に近い高台に兵庫県下最大の前方後円墳である五色塚古墳がありますね。

神戸市灘区の上空です。西から西求女塚(にしもとめづか)古墳、処女塚(おとめづか)古墳、東求女塚(ひがしもとめづか)古墳が並んでいる。作られた順番も西からで、西求女塚古墳は阪神間で最も古い古墳でもあります。
さて、

国道2号線と国道43号線が交わる岩屋交差点です。

そのすぐ側に西求女塚古墳があります。

公園の名前は求女塚西公園。ちょっとややこしいですね。

林を上っていくと

円形の場所が現れました。

これが前方後方墳の後方部。

芝生が伸びきってふかふかだ。

後方部から前方部を見たところ。

前方部には遊具が置かれています。

古そうな石柱。昭和30年のもので求女塚と刻まれている。

裏の文字が読みづらいが菟原処女(うないおとめ)の伝説のひとつであることが書かれているようです。

この古墳で最も注目すべき点は、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)7面を含む青銅鏡12面が出土していること。

三角縁神獣鏡といえば、「魏志倭人伝」で、魏の皇帝が倭の女王に「銅鏡百枚」を与えたことが記しているあれのことです。倭の女王とは言うまでもなく卑弥呼のことで、この地でそれが7枚も出たという事は、ヤマト王権と深い関わりがあり、この地を支配していた豪族の墓である可能性が高い。

この古墳は国の史跡でもあります。

側面から全体を見たところ。盛り土で凹凸が少ない形状になっているが、わずかに前方後方墳のカタチがわかる。

パノラマで見るとこのような感じ。
さて、江戸時代の摂津名所図絵には3つの古墳が描かれています。

西求女塚古墳が敏馬(みぬめ)神社と龍泉寺に並んで求塚として描かれています。

ここには本住吉神社の参道横に東求女塚古墳が描かれている。現在の東求女塚古墳は、塚は崩されて公園になっています。

これには処女塚古墳と東明八幡神社が描かれている。東明八幡神社の境内には大きな松の木が描かれていますね。

処女塚古墳です。

角地にあるので全体が見渡せる。

史跡處女塚古墳。「處」は「処」の旧字です。

文字は辛うじて読めますが、「整備する前の古墳の形」がまったく見えない。形状は前方後方墳になります。

古墳の上に上がってみました。

後方部の上はきれいに整備されています。

後方部から前方部を見たところ。

階段の所にこんな解説板がありました。

古くから処女塚と東西の求女塚には悲恋の「菟原処女(うないおとめ)の伝説」というものがあります。葦屋の美女をめぐる恋の悲劇で2人の男の求愛に板ばさみになり、美女は命を断ち、男たちもその後を追うという話。そんな3人が実在したとは考えにくいですが、伝説として今の時代にも残っているという事に深いものを感じる。

さて、処女塚古墳の隣にある東明八幡神社です。ゴールドの鳥居がなかなかパンチがあってよろしい。

由緒には、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮半島へ船出の際、武内宿禰(たけのうちすくね)大臣が、その健勝を祈って此の地に松を植えられた。とある。

現在の境内にはその松はないようですが、先ほどの摂津名所図絵が描かれた寛政年間(1796〜1798)には大きな松の大木があったようですね。

この祠にその武内松の一部が保存されている。

これを読むと明治時代に枯れたようです。

このような立派な石碑もある。

ところで、話はまったく変わってしまいますが、境内にあったこの石柱のキズがとても気になった。

これって、戦時中のグラマン戦闘機による機銃掃射の弾丸跡ではないだろうか。かなり生々しく残っています。とても貴重な戦争遺構です。

神戸・阪神間にはまだまだ興味深い古代遺跡が眠っていそうです。アースダイビングするには意外と面白いエリアかもしれません。これから少しずつ古代の地形を歩いて行きたいと思います。
より大きな地図で 神戸アースダイバー を表示
【神戸アースダイバー】
1. 西求女塚古墳と処女塚古墳 2013.10.07
2. 古代の祭祀場・保久良神社 2013.10.15
3. 古代の祭祀場・甑岩・越木岩神社 2013.10.20
4. 六甲山上の古代祭祀場とストーン・サークル 2013.11.08
5. 六甲山の天狗岩 2013.11.10
6. 西宮市北山公園の磐座・前編 2013.11.11
7. 西宮市北山公園の磐座・後編 2013.11.18
8. 海民と五色塚古墳 2013.11.28
9. 西宮の巨大なローリングストーン 2013.12.5
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1. 西求女塚古墳と処女塚古墳
太古の時代、神戸・阪神間はどのような場所だったのだろう。
奈良や大阪に比べてこのエリアの古代の情報は少ないように思う。ただ、国道43号線を車で走っていると、測道沿いに西求女塚(にしもとめづか)古墳や処女塚(おとめづか)古墳があることに気づきます。おそらく有力な豪族が古墳時代にはいたのでしょう。
資料を見ると、旧石器時代や縄文時代の遺跡は低地からはほとんど発見されておらず、詳しい事はあまりわかっていないようです。ただし、縄文前期初頭ぐらいから縄文人は海岸低地まで生活圏を拡大していたのではないかといわれています。その時代は、海水面が今より2~3メートル高い縄文海進といわれる現象が起きている。縄文人はその時どのような風景を見ていたのでしょう。そんなことをイメージしながら古代の地形を想像し歩いて行きたいと思います。

カシミール3Dで海水面を数メートル高くした大阪湾の地形図です。埋立地エリアは意図的に薄くしています。あくまでもイメージですが、なんとなく縄文海進時代の海岸線が見えてきますね。その地形図に現在も残る代表的な古墳と有力な神社をプロットしてみました。

神戸・阪神間の拡大です。西求女塚古墳、処女塚古墳、東求女塚古墳が海岸線に沿って並んでいます。神社を見ると、西宮神社のみが標高の低い場所にあることも興味深い。元々海だった場所に砂が堆積してできた砂州に鎮座しているのでしょう。

カシバードで上町台地上空から神戸方面を見てみました。難波津や住吉津と務古水門(むこのみなと)がほどよい距離にあることがわかる。神功皇后にゆかりのある港でもあります。

西宮上空から神戸方面を見た縄文海進時代の海岸線のイメージです。縄文人がこのエリアでどのような生活をしていたか想像するのも面白い。おそらく山麓エリアが居住地であり、狩りや木の実を食料にしながら、海岸では魚や貝を採っていたのではないでしょうか。

神戸市垂水区の上空です。海岸に近い高台に兵庫県下最大の前方後円墳である五色塚古墳がありますね。

神戸市灘区の上空です。西から西求女塚(にしもとめづか)古墳、処女塚(おとめづか)古墳、東求女塚(ひがしもとめづか)古墳が並んでいる。作られた順番も西からで、西求女塚古墳は阪神間で最も古い古墳でもあります。
さて、

国道2号線と国道43号線が交わる岩屋交差点です。

そのすぐ側に西求女塚古墳があります。

公園の名前は求女塚西公園。ちょっとややこしいですね。

林を上っていくと

円形の場所が現れました。

これが前方後方墳の後方部。

芝生が伸びきってふかふかだ。

後方部から前方部を見たところ。

前方部には遊具が置かれています。

古そうな石柱。昭和30年のもので求女塚と刻まれている。

裏の文字が読みづらいが菟原処女(うないおとめ)の伝説のひとつであることが書かれているようです。

この古墳で最も注目すべき点は、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)7面を含む青銅鏡12面が出土していること。

三角縁神獣鏡といえば、「魏志倭人伝」で、魏の皇帝が倭の女王に「銅鏡百枚」を与えたことが記しているあれのことです。倭の女王とは言うまでもなく卑弥呼のことで、この地でそれが7枚も出たという事は、ヤマト王権と深い関わりがあり、この地を支配していた豪族の墓である可能性が高い。

この古墳は国の史跡でもあります。

側面から全体を見たところ。盛り土で凹凸が少ない形状になっているが、わずかに前方後方墳のカタチがわかる。

パノラマで見るとこのような感じ。
さて、江戸時代の摂津名所図絵には3つの古墳が描かれています。

西求女塚古墳が敏馬(みぬめ)神社と龍泉寺に並んで求塚として描かれています。

ここには本住吉神社の参道横に東求女塚古墳が描かれている。現在の東求女塚古墳は、塚は崩されて公園になっています。

これには処女塚古墳と東明八幡神社が描かれている。東明八幡神社の境内には大きな松の木が描かれていますね。

処女塚古墳です。

角地にあるので全体が見渡せる。

史跡處女塚古墳。「處」は「処」の旧字です。

文字は辛うじて読めますが、「整備する前の古墳の形」がまったく見えない。形状は前方後方墳になります。

古墳の上に上がってみました。

後方部の上はきれいに整備されています。

後方部から前方部を見たところ。

階段の所にこんな解説板がありました。

古くから処女塚と東西の求女塚には悲恋の「菟原処女(うないおとめ)の伝説」というものがあります。葦屋の美女をめぐる恋の悲劇で2人の男の求愛に板ばさみになり、美女は命を断ち、男たちもその後を追うという話。そんな3人が実在したとは考えにくいですが、伝説として今の時代にも残っているという事に深いものを感じる。

さて、処女塚古墳の隣にある東明八幡神社です。ゴールドの鳥居がなかなかパンチがあってよろしい。

由緒には、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮半島へ船出の際、武内宿禰(たけのうちすくね)大臣が、その健勝を祈って此の地に松を植えられた。とある。

現在の境内にはその松はないようですが、先ほどの摂津名所図絵が描かれた寛政年間(1796〜1798)には大きな松の大木があったようですね。

この祠にその武内松の一部が保存されている。

これを読むと明治時代に枯れたようです。

このような立派な石碑もある。

ところで、話はまったく変わってしまいますが、境内にあったこの石柱のキズがとても気になった。

これって、戦時中のグラマン戦闘機による機銃掃射の弾丸跡ではないだろうか。かなり生々しく残っています。とても貴重な戦争遺構です。

神戸・阪神間にはまだまだ興味深い古代遺跡が眠っていそうです。アースダイビングするには意外と面白いエリアかもしれません。これから少しずつ古代の地形を歩いて行きたいと思います。
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【神戸アースダイバー】
1. 西求女塚古墳と処女塚古墳 2013.10.07
2. 古代の祭祀場・保久良神社 2013.10.15
3. 古代の祭祀場・甑岩・越木岩神社 2013.10.20
4. 六甲山上の古代祭祀場とストーン・サークル 2013.11.08
5. 六甲山の天狗岩 2013.11.10
6. 西宮市北山公園の磐座・前編 2013.11.11
7. 西宮市北山公園の磐座・後編 2013.11.18
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