2010年06月21日 08:00
豊崎~毛馬閘門まで
今回が「長柄(中津)運河跡を歩く」の最終回です。
『長柄(中津)運河跡を歩く2』
『長柄(中津)運河跡を歩く1』

昭和4年測量地図。
より大きな地図で 長柄(中津)運河跡を歩く を表示
Jの場所。

豊崎二之橋。

ここは新御堂筋と

JR線の間。あれは新大阪駅に繋がる東海道線です。

こっち側にはこれといった目印がありません。
豊崎神社がこの先にあります。

ここは新淀川が開削される前、中津川の南詰めで
本庄村の渡し船があった場所でもあります。

旧長柄運河に架かる歩道橋は昔からある主要な道に設置されていたようですね。
今では堤防に行くためだけの橋になってしまいました。
Kの場所。

JR線の下にトンネルがあります。

奥に行くと丸いトンネル。

レンガ造りの構造物が残っています。

ここは旧中津川に架かる鉄橋があった場所の少し手前。
下十三川橋梁の上流部なので上十三川橋梁になるのでしょうか?

かなり古そう…。
明治9年に大阪駅と向日町駅間が開業しましたが、
その時からあるトンネルなのでしょうか?

反対側です。

樋口架道橋。

トンネルの入口は外側も含めてしっかり補強されている感じです。
ええトンネルです。

JR線の上淀川橋梁です。

この橋梁が作られたのは昭和29年。
明治18年測量地図を見ると、この先のルートがまったく異なっている。

またいつか新旧の地図で位置を検証してみますが、
明治9年に開業した鉄道のルートはここから北東方面へカーブしていきます。

現在の阪急京都線と千里線の一部のルートがそれになります。
阪急「崇禅寺」駅~「淡路」~「下新庄」~阪急「吹田」駅の手前までのルートは
旧東海道線の廃線跡なのですね。
Lの場所。

ここの立派な楠が残っています。地図にも樹の記号がある。

ご神木のようです。ここは旧本庄村があった場所。
淀川が開削されるずっと前からこの場所で見守ってくれています。

淀川が出来る前もこの場所は中津川の南岸でした。
本庄村にはこの樹を中心に川上と川下に渡し船がありました。
きっと昔から目印になっていた樹だと思います。
Mの場所。

これが一番上流にある歩道橋です。

豊崎一之橋。

楠が向こうに見えますね。

あっちは長柄橋。

ここも中津川があった頃に渡し船があった場所です。

対岸には水道記念館のレンガ造りの建物が見えます。
Nの場所。

最後は眼鏡橋です。長柄運河の始まりの橋です。

「…長柄運河は新淀川をつくるために出る土砂を海老江まで運ぶために
1902(明治35)年に完成したもので…」

長柄運河跡は埋め立てられたけど、大阪の歴史を学ぶ上でとても重要な運河でした。もしかするとそう遠くない将来、この運河跡は高速道路に変貌してしまうかもしれません。

毛馬(けま)の旧第一閘門(こうもん)と

毛馬洗堰(あらいぜき)の影に隠れて忘れ去られようとしている長柄運河跡。

沖野忠雄先生、これも時代の流れですかねぇ…。
沖野「 たぶんね… 」
ポチッと、応援よろしく♪
今回が「長柄(中津)運河跡を歩く」の最終回です。
『長柄(中津)運河跡を歩く2』
『長柄(中津)運河跡を歩く1』

昭和4年測量地図。
より大きな地図で 長柄(中津)運河跡を歩く を表示
Jの場所。

豊崎二之橋。

ここは新御堂筋と

JR線の間。あれは新大阪駅に繋がる東海道線です。

こっち側にはこれといった目印がありません。
豊崎神社がこの先にあります。

ここは新淀川が開削される前、中津川の南詰めで
本庄村の渡し船があった場所でもあります。

旧長柄運河に架かる歩道橋は昔からある主要な道に設置されていたようですね。
今では堤防に行くためだけの橋になってしまいました。
Kの場所。

JR線の下にトンネルがあります。

奥に行くと丸いトンネル。

レンガ造りの構造物が残っています。

ここは旧中津川に架かる鉄橋があった場所の少し手前。
下十三川橋梁の上流部なので上十三川橋梁になるのでしょうか?

かなり古そう…。
明治9年に大阪駅と向日町駅間が開業しましたが、
その時からあるトンネルなのでしょうか?

反対側です。

樋口架道橋。

トンネルの入口は外側も含めてしっかり補強されている感じです。
ええトンネルです。

JR線の上淀川橋梁です。

この橋梁が作られたのは昭和29年。
明治18年測量地図を見ると、この先のルートがまったく異なっている。

またいつか新旧の地図で位置を検証してみますが、
明治9年に開業した鉄道のルートはここから北東方面へカーブしていきます。

現在の阪急京都線と千里線の一部のルートがそれになります。
阪急「崇禅寺」駅~「淡路」~「下新庄」~阪急「吹田」駅の手前までのルートは
旧東海道線の廃線跡なのですね。
Lの場所。

ここの立派な楠が残っています。地図にも樹の記号がある。

ご神木のようです。ここは旧本庄村があった場所。
淀川が開削されるずっと前からこの場所で見守ってくれています。

淀川が出来る前もこの場所は中津川の南岸でした。
本庄村にはこの樹を中心に川上と川下に渡し船がありました。
きっと昔から目印になっていた樹だと思います。
Mの場所。

これが一番上流にある歩道橋です。

豊崎一之橋。

楠が向こうに見えますね。

あっちは長柄橋。

ここも中津川があった頃に渡し船があった場所です。

対岸には水道記念館のレンガ造りの建物が見えます。
Nの場所。

最後は眼鏡橋です。長柄運河の始まりの橋です。

「…長柄運河は新淀川をつくるために出る土砂を海老江まで運ぶために
1902(明治35)年に完成したもので…」

長柄運河跡は埋め立てられたけど、大阪の歴史を学ぶ上でとても重要な運河でした。もしかするとそう遠くない将来、この運河跡は高速道路に変貌してしまうかもしれません。

毛馬(けま)の旧第一閘門(こうもん)と

毛馬洗堰(あらいぜき)の影に隠れて忘れ去られようとしている長柄運河跡。

沖野忠雄先生、これも時代の流れですかねぇ…。
沖野「 たぶんね… 」
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