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濱中津橋と下十三川橋梁2

2010年06月09日 08:00

濱中津橋と下十三川橋梁 2

濱中津橋と下十三川橋梁」のつづきです。
中津川が流れていた下十三川橋梁があった場所は現在どうなっているのか。
この辺りは子供の頃の遊び場でもあるので、土地勘バリバリです ^ ^

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(C)は中島大水道跡で現在は遊歩道です。
(B)は昔からある旧道です。
(A)は旧下十三川橋梁の南詰めだった場所です。

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これは明治18年頃。

shimo_05_2.jpg
これは昭和4年頃です。

まずは A の場所。
IMG_2543_2.jpg
昭和4年頃は水路だったようです。

IMG_2544_2.jpg
中津川を埋め立てた時にここにだけ水路として残したようですね。
当時はまだ田んぼも多かったので水路は重要でした。

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この雰囲気、子供の頃から変わってません。
昔はちょっと怖かった。

IMG_2579_1.jpg
この上には線路が5本あるみたい。

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古そうなプレートを見つけたけど製造年が読めない…
一番上段は「昭和○年」となっている。「二」年かな??
鐵道省の文字も確認できます。

IMG_2585_2.jpg
こちらは製造年不明ですが、「下十三川橋りょう」の名前が。

IMG_2554_2.jpg
こちらも「下十三川橋りょう」です。
下十三川橋梁の名残はこれだけかな…

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こんなレンガ塀を見つけましたがいつ頃のだろう?
水路を作った時の橋脚でしょうか。

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鉄桁がここに乗っかっていたんでしょうね。

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反対側の出入口です。

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ところでこの「塚本駅信号扱所」って何なんだろう?

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昔からこの建物あったよな…
これに萌える人っているのかな? いないか…^^;

IMG_2574_2.jpg
5秒ルール! そういう安全確認のルールがあるらしいです。

IMG_2595_2.jpg
ここはAとBの間、塚本自動車教習所です。
僕もここで免許を取りましたが昔は川だったんですね。


次は B の場所です。
IMG_2604_2.jpg
ここは、中津川北詰めにあった旧道です。

IMG_2621_2.jpg
野里架道橋というのが正式名称なんですね。
初めて知った。

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車も通る道です。侵入する時にちゃんと確認しないと対向車が来たら大変。
一方通行ではありませんよ。気をつけてね。

IMG_2620_2.jpg
こんなプレートを見つけた。1980年か…ちょっと新しい。

IMG_2610_2.jpg
反対側です。
線路がかなり高い位置にありますね。
これ、この先でカーブして宮原操車場に行く線路です。


C の場所です。
IMG_2630_2_20100607224746.jpg
先ほどの高い位置にあった線路が一番上を走る白い鉄橋。
ここで、線路をクロスして越えて行きます。
この高低差、いいですよね ^^

IMG_2624_2_20100607224747.jpg
文字が読みにくいですが野里乗越橋といいます。

IMG_2634_2.jpg
このがに股が萌える。

IMG_2631_2.jpg
下の鉄橋は水戸川橋梁。
この下は遊歩道になっています。


大きな地図で見る
萌える場所です ^^



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浜中津橋と下十三川橋梁

2010年06月07日 08:00

濱中津橋と下十三川橋梁

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十三大橋の南詰めにある「濱中津橋」をご存知でしょうか。
この橋は鉄道ファンにとって知る人ぞ知る有名な橋なのです。

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元々この橋はわが国最初の鉄道用鉄桁として、明治7年(1874)開通の
大阪~神戸間の下十三川橋梁に使用されたトラス橋でした。

IMG_2811_2.jpg
この先には昭和7年頃まで旧十三橋がありました。
手前の長柄運河に架かるのがこの濱中津橋です。

(関連記事)
満月の夜に現れた遺構
十三大橋の架橋工事2

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明治31年に淀川改修工事が着工、まずは長柄運河の開削から始まりました。

IMG_2850_2.jpg
長柄運河が開削されて、淀川の開削も始まります。
淀川改修工事は明治42年に完工。
その新淀川に同年、旧十三橋が開通しました。

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この濱中津橋は旧十三橋が竣工するのと同時期に
長柄運河に架橋されたのではないかと思っています。
(追記:昭和10年に架橋されたそうです…
明治の終り頃に解体され昭和10年まで約10年間もどこにあったのでしょう?)

IMG_2831_2.jpg
ちなみに明治42年測量の地図を見ると、
下十三川橋梁は無くなっていました。

IMG_2841_2.jpg
明治7年に架橋されてから136年。
よう頑張ってますね。元の色は何色だったんですか?


さて、
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明治18年測量の地図です。
下十三川橋梁というのは旧中津川に架かっていた鉄橋です。
中津川は昔から十三川とも呼ばれていました。
「摂陽郡談(1701年)」でも川の部で十三川と紹介されています。


大きな地図で見る
濱中津橋です。ここからサイズを割り出して旧地図にはめてみました。

shimo_03_2.jpg
するとこんな感じ。
中津川の川幅に並べてみると7連がちょうどいい。
地図でも橋の記号が7つ並んでいるように見えます。
実際はどうだったのでしょう?

shimo_05_2.jpg
昭和4年測量の地図です。
下十三川橋梁の遺構って今でも残っているのかな?
怪しそうな所をチェック。

shimo_07_2.jpg
○の場所を歩いてみましたがそれはまた次回に。
この辺りって、子供の頃からの遊び場です。
あまり変わっていないのでタイムスリップしてしまった。

IMG_2555_2.jpg
ちなみに「下十三川橋りょう」の文字が見えますね。



より大きな地図で 濱中津橋 を表示



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100年前の淀川改良工事

2008年09月29日 06:00

淀川改良工事って?

明治元年、大阪開港条約が発布され、大阪港はいち早く門戸を外国に開放しました。政府は当初、川口波止場を新設します。しかし、旧淀川からの土砂が堆積し船舶の航行を妨げ、数年後には全ての外国船は神戸に奪われてしまいました。そのような背景があり、安治川口に一大築港を起こそうとする機運が高まったのです。その設計に3人のオランダ工師があたり、その中にデレーケがいました。デレーケは大阪築港事業は淀川改修が不可欠であると説きます。これがのちの淀川改良工事に発展していくことになるのです。

デレーケの報告書をベースに、淀川改良工事の実施計画概要を完成させたのは日本人技術者です。そのリーダが沖野忠雄でした。改修工事は全区域を5つの地域に分けて説明しています。

1、瀬田川の工事 
川幅を広く水深を深くし、南郷洗堰を設置し、琵琶湖の水位を調節する。

2、宇治川筋の工事
三川合流点付近で、宇治川を付替え、桂川の合流点を八幡まで下げ、巨椋池を切り離す。

3、八幡町から佐太間の淀川筋工事

4、淀川下流域に新淀川を開削、大川との分岐に毛馬洗堰閘門を設置。

5、長柄運河を開削し、六軒屋閘門伝法閘門を設置。

この計画書は明治27年に土木局に提出され、デレーケも検討しているようです。明治29年、この工事を実施する為、新たに河川法が公布、直ちに起工されたのでした。

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明治18年測量の地図です。淀川本流は長柄で中津川と淀川に分かれます。両河川ともくねくねしていて、この地域の人たちは昔から洪水に悩まされていました。明治に入っても、明治3年、5年、6年、9年、15年と大洪水がおこり、そして明治18年の洪水は大阪市内の30を越える橋をことごとく流し去るなど、壊滅的な大惨事を引き起こしました。

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「おおさか100年」より
明治18年の大洪水で流された天満橋。向こう岸が天満。右の煙突は造幣局の辺りかな。この下流(左方向)の天神橋、難波橋、栴檀木橋、大江橋、淀屋橋、肥後橋などほとんどの橋が流されました。

kozui_01.jpg
「大阪市100年」より
明治18年の安治川橋です。左端に写っている橋です。上流から橋梁の木材片が流されてきてここに溜まっています。中央の大きな橋も上流から流れてきたもののようです。右が上流。手前が川口居留地になります。向こうに大きな船が見えますね。安治川橋の橋脚はしっかりと石で出来ていて、橋は鉄製なので持ちこたえていたのでしょう。その後市内に洪水の恐れが生じたため工兵隊により爆破撤去されたそうです。この大水害で淀川改修の声が急速に高まります。

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現在の淀川です。

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重ねるとわかりますが、海老江、伝法、姫島、野里など主要な地域をうまく避けて新淀川は開削されています。残念なのは、中津地域より上流では多くの村が川に沈みました。旧十三地域もそのひとつです。

デレーケ
「淀川百年史」より 明治13年に撮影されたデレーケの写真です。淀川改良工事の起工式にデレーケの姿はありませんでした。明治30年頃は日本人技師が技術を身につけていました。政府はもう外国人技師を必要としていなかったのです。

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毛馬旧閘門の所にある沖野忠雄像

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来年大阪で開催される『水都大阪2009』は淀川改良工事100年記念イベントです。

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私が小学生の頃、地図には「新淀川」と書かれていたと思います。いつから「淀川」になったのかな。


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毛馬の重要文化財

2008年09月17日 07:20

毛馬洗堰と毛馬第一閘門

平成20年6月、毛馬洗堰(けまあらいぜき)と毛馬第一閘門(こうもん)が国の重要文化財に指定されました。知ってるようで以外と知らないこれらの施設を簡単に紹介します。

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これは毛馬第一閘門です。明治40年に完成しました。堰によって締め切られた新淀川と大川の間に、船を通すための水位差をコントロールする施設です。

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実際に見るとかなりでかいです。

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これは毛馬洗堰です。明治43年に完成。角材を落とし込むことによって流水量を調節していたそうです。

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位置関係を空撮で見てみましょう。でも今は公園になっているのでわかりにくいですよね。

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昭和4年の地図です。左が新淀川、右が大川、下を流れるのが中津運河(長柄運河)です。洗堰って淀川から大川に流れる水量を調節するための施設で、大阪の中心部を水害から守るためでもあります。

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「大阪市100年」より
昭和4年頃の写真です。洗堰、第一閘門、眼鏡橋が確認できます。

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もっと引いてみるとこんな感じ。川幅が今とぜんぜん違いますね。

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「歴史のなかの淀川」より
明治43年の洗堰完成当時の写真です。左が洗堰、右が第一閘門です。

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当時は10個の水通しがありましたが、現在はそのうちの3つが保存されています。

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「歴史のなかの淀川」より
昭和初期の第一閘門です。奥に淀川改修紀功碑が見えます。

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ほぼ同じ角度ですが、淀川改修紀功碑は木に隠れて見えません。

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「歴史のなかの淀川」より
大正4年頃の眼鏡橋です。中津運河(長柄運河)に架かっていました。この運河は改修工事の不要土砂を運搬するため、長柄から海老江までの淀川沿いに開削されました。この写真にも淀川改修紀功碑が写っていますね。

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同じアングルで撮りたかったんだけど…。

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「歴史のなかの淀川」より
大正3年に設けられた長柄起伏堰。長柄橋の下流に設けられた堰で、全幅109メートル、堰板(ゲート)を83枚ならべてあり、これを倒すことで水量を調節していました。当時は手作業だったらしいですよ。上の全体地図の長柄橋の下流に確認できます。

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対岸の柴島から現在の淀川大堰をみたところです。ここで淡水と海水(汽水域)に分かれます。シーバス釣りのポイントとしても有名ですね。1メートルクラスのスズキが釣れます。

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魚道もあります。春には稚鮎がのぼっていきます。

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明治43年の淀川改修工事の完成時に建てられた淀川改修紀功碑。

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その下にある地蔵尊。改修工事の時に掘り出されたそうです。

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残念石も転がっていました。大坂城築城時に運ばれる途中、川に沈んだ石が改修工事の時に多数掘り出されました。


(おまけ)
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毛馬を歩いていたらめっちゃエエ感じの銭湯がありました。

P1030623.jpg
淀川温泉!松の木がエエでしょ。

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(追記)
『淀川・大川・毛馬 私のテリトリー』というブログに
洗堰の現役時代のカラー写真がありました。かなり貴重です。
「懐しい風景 毛馬の洗い堰 1972」
http://hanada.de-blog.jp/yodogawa/2006/04/post_0730.html


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人が作った河川、淀川

2007年09月24日 02:39

淀川が作られてなくなったもの。

昔から旧中津川は曲折し、下流域一帯は洪水が多く、放水路が必要だった。明治29年、河川法の制定により淀川改良工事が可決、新しい淀川の開削が始まり、明治43年度に全工事が竣工した。

元々、十三は成小路(なるしょうじ)村の一集落にすぎなかったらしい。明治22年、町村制の実施により、成小路村を含む5つの村が合わさって中津村となる。しかし淀川改良工事により、中津村の北端であった成小路は新しい淀川の右岸側になってしまった。
大正14年、大阪市域拡張時に新淀川の左岸側の地域が中津の名前を引き継ぎ、引き離されたは成小路は十三南之町というの地名に変わった(現在は新北野)。成小路という歴史ある名はこの時になくなってしまったのだ。

十三付近に成小路の名を残すものが唯一ある。昭和53年に成小路神社が地元住民の熱い思いで再建された。新北野の住民に愛される神社として、成小路という名を後世に残す場所として…

淀川改良工事
明治19年の地図

マップ明治42年
淀川改良工事後の明治42年の地図

淀川
現在の淀川、右は十三バイパス、左はNTTの通信専用橋

成小路神社
新北野にある成小路神社。鳥居と玉垣は中津の富島神社のお旅所に建立されていた時のものです。昭和20年6月の空襲でお旅所が焼けてしまった後、鳥居と玉垣は大切に保管されていました。

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