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地下鉄御堂筋線の歴史

2009年03月23日 07:30

地下鉄御堂筋線の歴史

大正時代、大阪市内を移動する主要な交通機関は路面電車でした。しかし今後も増え続けるであろう人口と交通量のことを考えると、新たな交通手段が必要になってきました。大正13年、帝国鉄道協会と土木学会から高速鉄道の報告書があがってきます。そこには現在の御堂筋線を含めて4つの地下鉄路線が計画されていました。

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梅田から難波までの区間は大阪でも非常に地盤が悪い所で、当時の土木技術ではかなりの難工事が予測されました。そのこともあり「地下鉄ではなく高架線路にすべき」という声が多かったようです。しかし関市長と初代電気局建設部長の清水氏の英断により、地下鉄にすることが決定されました。もしこの時点で安全策をとり高架線路にしていたら今頃大阪市内の風景はどのようになっていたのでしょう。

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
第1線は江坂を起点に梅田、難波、天王寺を結び我孫子に達するルート。第2線は森小路から梅田を経由して松屋町筋を南下して天王寺に至るルート。第3線は第1線の大国町から分岐して玉出に至るルート。そして第4線は大阪港から大阪市の中央部を横断し、平野に至るルートでした。現在のルートと比べると微妙に違っていて面白いです。

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
昭和5年、梅田~心斎橋間の工事が始まります。ここは大阪市役所の前、向こうの橋は旧大江橋です。手前の大きな機械で土留めの鋼矢板を打ち込んでいます。鋼矢板は日本で製造されていなかったので全て輸入品でした。

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「大阪市100年」より
土留めの鋼矢板の打ち込みが終わると、掘削作業に入ります。当時はショベルカーなんてないのでツルハシショベルで掘るわけです。失業救済事業として一般の労働者もかなり多く携わっていたようです。

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
ここに淀屋橋が架かります。市電がえらい端っこに付け替えられていますね。この下でトンネルが掘られています。

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「大阪市100年」より
これは大江橋の建設風景。地下鉄工事は御堂筋の工事と同時に行われています。「えらいもんができよるなぁ」と市民は思っていたでしょうね。ちなみに正面の福徳生命が気になったので調べてみました。後に第百生命になり現在はマニュライフ生命となっています。場所は現在の大阪三菱ビルです。

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「大阪市100年」より
昭和7年頃の御堂筋です。手前の板が引いてある道が備後通り、次が瓦町通り、その向こうが淡路町通りで、次の平野町通りに建設中なのがガスビルです。

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
昭和8年5月20日、梅田~心斎橋間が開通します。この写真は開業直前の写真です。午後3時の営業運転開始前の午後2時頃だそうです。人があふれかえっていますね。最初の電車はすし詰め状態で心斎橋に向ったそうです。開通当初は梅田仮停留場で現在の新阪急ビルの辺りに出入口がありました。

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「なにわ今昔」より
昭和8年頃の写真だと思われます。下の方に梅田仮停留場が写っています。阪急百貨店の左側に建設中の場所が写っていますが、ここが梅田停留場です。

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
阪急百貨店との連絡工事中です。下では地下通路が出来ています。

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
阪急百貨店との連絡の位置関係がよくわかるイラストです。

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「なにわ今昔」より
電車の搬入口は南御堂前にありました。その場所まで電車を引っ張っているところです。
人と車と牛と…。のどかですね^^

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「大阪100年」より
なるほど、こうして入れますか。
「地下鉄はどこから入れるんでしょうねぇ?」というフレーズを思い出した人は
間違いなく40代以上です^^

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
昭和10年10月6日、梅田停留場が完成します。ここはおなじみの場所です。
どこだかわかりますか?
あっ!現在の写真を撮るのを忘れてしまった^^;

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
改札を抜けるとドーム状の屋根とエスカレータです。奥に車止めが見えますね。
当時は電車も壁もここまででした。

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現在はこうなっています。左の線路は新大阪・千里中央方面行きです。

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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
この写真はホームから撮影されています。エスカレータの左側にもトンネルがありますね。

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現在は壁で覆われていますが、この奥にトンネルが残っているかもしれませんね。

(おまけ)
地下式にするか高架式にするかで紛糾を極めていた時、地下式に強く反対したのはなんと小林一三さんだったそうです。理由はこのルートは河川が多いので、地下式にすればその下をくぐらないといけない。非常に危険であり、高架式より工期も長く、費用も巨額になるということからです。当時の関市長らの判断がいかに英断だったかを伺えるエピソードです。


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(追記)
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「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
現在の梅田駅のホームは平成元年(1989)に完成していますが、それまでは狭くて、通勤ラッシュの時間帯は人であふれかえっていました。
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御堂筋の歴史

2009年03月02日 07:30

大大阪と御堂筋

御堂筋の計画が最初に公式の道路計画に挙げられたのは大正8年だったそうです。そこにはこのような事が書かれていました。「種種の意味において、本市最高級の機能を達成すべき」ものであって、「是非共これを永遠の必要」から考えて「大大阪の中心街路たるに恥じざる幅員と体裁とを具備」させなければならない、と。

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御堂筋の計画を含む第一次大阪都市計画事業は市会においても激しい論争の的になりました。野党の強い反対を押し切り、大正10年与党の多数の力で原案は通過します。

この工事でもっとも難航したのは用地買収であったと思われます。予定地に住む多くの人達は長年の生活と商売の場を奪われることになりました。その用地買収費と移転費は莫大で総事業費の90%にも上ったといわれています。実は移転を免れた人達も大変で、沿線から約63メートルにわたる地域の地主は受益者負担金なるものを支払わないといけませんでした。それは何かというと、御堂筋が出来れば儲かるであろう利益を計算し、その額に応じた金額を税金として納めるというものです。それらの費用も用地買収費等に使われたといわれています。この歴史的な事業の裏には、その犠牲になった人達や金銭的な負担を強いられた人達が多くいたことを忘れてはいけません。

御堂筋の建設は大正15年(1926)に開始されました。昭和5年(1930)には地下鉄(梅田-心斎橋間)工事も始まり、11年後の昭和12年(1937)5月11日、梅田から難波を結ぶ約4キロの御堂筋は完成したのです。

旧御堂筋
「大阪市街大地圖(大正14年の地図)」より
御堂筋とは元々北は淡路町から南は長堀川までの道幅約5.4メートルの街路で、道筋には北御堂と南御堂があり、人形問屋や履物問屋などが密集していたそうです。○が御堂筋の始まりと終わり。赤い線は拡張される道幅が記されています。

旧淀屋橋筋
「大阪市街大地圖(大正14年の地図)」より
御堂筋の北は淀屋橋筋という名前でした。淀屋橋筋と御堂筋は少しだけずれおり、その突き当りの写真が残っています。

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「ふるさとの想い出写真集 大阪」より
これが淀屋橋筋の突き当りの写真です。北から南を向いています。上の地図と照らし合わすと、突き当りを右に行くと御堂筋があるわけですね。

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「ふるさとの想い出写真集 大阪」より
この写真は淀屋橋筋の北側、上の地図の○の場所です。右の建物は残り、左側が全て取り壊されます。ということは、右の建物の場所は現在石原ビルディングが建っている場所のようですね。

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「大阪市100年」より
もう少し引くとこうなります。手前の橋は旧淀屋橋、土佐堀通りも右側はまだ市電が通れない細い道でした。

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「大阪市100年」より
御堂筋完成後も残る建物に色を付けてみました。これが…

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「大阪市100年」より
こうなります。左上に見える木も目印になります。

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「ふるさとの想い出写真集 大阪」より
昭和4年頃の航空写真です。街路樹の一部はもう植えられているようです。左手前は北御堂と洋館は相愛女学校です。御堂筋の両脇にはたくさんの家屋がびっしり。この地域の人達が受益者負担金を支払わされたわけですね。

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「大阪市100年」より
関一(せきはじめ)市長が目指した都市計画の中でも象徴的な存在である御堂筋は、昭和12年5月11日に完成しました。しかしその完成を見ることなく、昭和10年1月26日、61年4ヶ月の生涯を閉じています。

この写真は心斎橋のそごう百貨店の屋上からの写真ではないかと想像しています。手前が長堀通りで、中央の大屋根は手前が南御堂、奥が北御堂。その奥にはガスビル(昭和8年竣工)が見えます。イチョウの木は小さかったのですね。

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右は現在も健在のガスビル。御堂筋の顔のひとつですね。

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御堂筋ができて約70年、街並みはすっかり変わってしまいましたが、イチョウの木は同じ場所で時を刻んでいます。この先もずっと大切にしていきたいですね。



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(追記)
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「ふるさとの想い出写真集 大阪」より
昭和初期の南御堂と大谷女学校の生徒の写真です。
TOSSYさんのコメント通り大谷女学校は御堂筋の拡張工事で阿倍野区に移転しました。

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「ふるさとの想い出写真集 大阪」より
この写真は北御堂です。女学生らしき人達が長刀をしているようです。手前の人達はバレーボール?。相愛女学校の生徒たちでしょうか。

(追記)
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現在の北御堂です。上の写真は戦前の本殿です。昭和20年の空襲で消失しましたが、昭和39年に現在の本殿が再建されています。

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本殿横のスペースは憩いのスペースです。昼休みにはビジネスマンやOLが休憩しています。気候のいい日は気持ちいい場所です。

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御堂筋から少し高台に本殿はあります。

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「なにわ今昔」より
昭和20年の大阪大空襲後の写真です。中央部に石段が確認できます。ここが北御堂です。

(追記)
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「大阪市100年」より
大阪歌舞伎座のアイススケート場です。大阪歌舞伎座があった場所は、現在の千日前ビックカメラの場所です。その6階に大小2つのリンクがあったそうです。この綺麗なモダンガールがだれなのでしょう。

(追記)
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突然ですが美々卯本店。御霊神社の裏にあります。