2008年08月21日 02:20
大阪駅前の歴史(8)
梅田繊維街移転篇
昭和34年11月、梅田繊維街は大阪市より大阪駅前区画整理の提示を受けます。梅田繊維街借家人組合は区画整理に反対し、市当局と数十回にわたる折衝を進めていきました。話合いを重ねる内に、集団移転という打開策が浮上してきます。しかし市当局側から提示された候補地には組合の希望を満たす土地はありませんでした。
昭和36年、大阪市は新幹線の新大阪駅ができることに伴い、その周辺を区画整理することに決めます。そして新大阪駅周辺が移転の候補地として持ち込まれたのです。
組合側も大阪駅前と同様な繁盛が見られるであろうとし、具体的に事業を進めていくことになります。しかし事業を進めるには多額のお金が必要です。組合員は一店60万円の積立てを開始し、市当局も法律の許す限りの協力をしたようです。最終的には用地を市が用意し、換地後組合がそれを買い取る形をとりました。
昭和41年、長期間にわたる大阪市との交渉を経て、仮換地の発表を得、約11,000坪の用地が確定しました。その土地に400余の組合員を収容する建築物が建設されていきます。事業は国と大阪府をも巻き込む大事業になりました。昭和42年11月に工事を起工、大阪万博を翌年に控えた昭和44年9月1日、大規模な繊維問屋が協業する「新大阪センイシティ」が華々しくオープンすることになったのです。

「おおさか100年」より
昭和37年頃の大阪駅前です。阪神百貨店が増築中。その裏に広がる密集地が梅田繊維街です。僅か3500坪ほどの土地に、繊維品卸業の店が700~800(※)もひしめき合っていました。
(※)資料ごとに数字が違うので実際の店舗数はわかりませんでした。この数字は「新大阪センイシティ10年史」より。

「大阪駅前市街地改造事業誌」より
昭和30年代初期の梅田繊維街の地図です。繊維街は各町内会を結成していました。「丼池町会」「稲荷町々会」「曽根崎中二町会」「親交会」などがそれです。

「なにわ今昔」より
昭和26年10月撮影。梅田繊維街の賑わいです。繊維街の店のほとんどが土地を持たない借家人でした。ビルができると無償でビルを手に入れられるのは家主だけだったのです。

「新大阪センイシティ10年史」より
狭い道路に車がひっきりなしに入ってきます。当然駐車場なんてなかったでしょうね。

「大阪駅前市街地改造事業誌」より
昭和36年頃です。日本一高い家賃といわれながらも、営業を続けられたのですから、いかに儲かっていたかがわかります。

「新大阪センイシティ10年史」より
繊維街の家屋はバラック建ても多く、道路も狭小で迷路のようだったようです。

「大阪駅前市街地改造事業誌」より
これは区画整理の反対運動の様子です。大阪市庁舎に数百体のマネキンがパレードをしたそうで、地元の組織も梅田繊維街の他に地主や家主、外国人の組合などが入り混じっていました。

「大阪市100年」より
昭和45年頃の梅田繊維街です。駅前第一ビルが完成し、梅田繊維街の多くの店舗は新大阪の新天地に移転しています。

現在のセンイシティーです。
中学校の頃、自転車でここまで学ランを買いに来ました。裏に刺繍は入ってないけどちょっと長いヤツです w
余談ですが、当時(昭和50年代)は3~4件の学ランの店があって、学校内では有名な場所でした。中ラン(裏に龍の刺繍が入っていた)とか小ラン、ズボンも太いツータックボンタンとか流行りましたね。ちょうど校内暴力全盛時代で金八先生が一番元気だった時代です。
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梅田繊維街移転篇
昭和34年11月、梅田繊維街は大阪市より大阪駅前区画整理の提示を受けます。梅田繊維街借家人組合は区画整理に反対し、市当局と数十回にわたる折衝を進めていきました。話合いを重ねる内に、集団移転という打開策が浮上してきます。しかし市当局側から提示された候補地には組合の希望を満たす土地はありませんでした。
昭和36年、大阪市は新幹線の新大阪駅ができることに伴い、その周辺を区画整理することに決めます。そして新大阪駅周辺が移転の候補地として持ち込まれたのです。
組合側も大阪駅前と同様な繁盛が見られるであろうとし、具体的に事業を進めていくことになります。しかし事業を進めるには多額のお金が必要です。組合員は一店60万円の積立てを開始し、市当局も法律の許す限りの協力をしたようです。最終的には用地を市が用意し、換地後組合がそれを買い取る形をとりました。
昭和41年、長期間にわたる大阪市との交渉を経て、仮換地の発表を得、約11,000坪の用地が確定しました。その土地に400余の組合員を収容する建築物が建設されていきます。事業は国と大阪府をも巻き込む大事業になりました。昭和42年11月に工事を起工、大阪万博を翌年に控えた昭和44年9月1日、大規模な繊維問屋が協業する「新大阪センイシティ」が華々しくオープンすることになったのです。

「おおさか100年」より
昭和37年頃の大阪駅前です。阪神百貨店が増築中。その裏に広がる密集地が梅田繊維街です。僅か3500坪ほどの土地に、繊維品卸業の店が700~800(※)もひしめき合っていました。
(※)資料ごとに数字が違うので実際の店舗数はわかりませんでした。この数字は「新大阪センイシティ10年史」より。

「大阪駅前市街地改造事業誌」より
昭和30年代初期の梅田繊維街の地図です。繊維街は各町内会を結成していました。「丼池町会」「稲荷町々会」「曽根崎中二町会」「親交会」などがそれです。

「なにわ今昔」より
昭和26年10月撮影。梅田繊維街の賑わいです。繊維街の店のほとんどが土地を持たない借家人でした。ビルができると無償でビルを手に入れられるのは家主だけだったのです。

「新大阪センイシティ10年史」より
狭い道路に車がひっきりなしに入ってきます。当然駐車場なんてなかったでしょうね。

「大阪駅前市街地改造事業誌」より
昭和36年頃です。日本一高い家賃といわれながらも、営業を続けられたのですから、いかに儲かっていたかがわかります。

「新大阪センイシティ10年史」より
繊維街の家屋はバラック建ても多く、道路も狭小で迷路のようだったようです。

「大阪駅前市街地改造事業誌」より
これは区画整理の反対運動の様子です。大阪市庁舎に数百体のマネキンがパレードをしたそうで、地元の組織も梅田繊維街の他に地主や家主、外国人の組合などが入り混じっていました。

「大阪市100年」より
昭和45年頃の梅田繊維街です。駅前第一ビルが完成し、梅田繊維街の多くの店舗は新大阪の新天地に移転しています。

現在のセンイシティーです。
中学校の頃、自転車でここまで学ランを買いに来ました。裏に刺繍は入ってないけどちょっと長いヤツです w
余談ですが、当時(昭和50年代)は3~4件の学ランの店があって、学校内では有名な場所でした。中ラン(裏に龍の刺繍が入っていた)とか小ラン、ズボンも太いツータックボンタンとか流行りましたね。ちょうど校内暴力全盛時代で金八先生が一番元気だった時代です。
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