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大阪砲兵工廠って?

2009年01月31日 19:00

大阪砲兵工廠って?

大阪城公園内にレンガ造りの古い建物があります。ここは旧大阪砲兵工廠(おおさかほうへいこうしょう)の化学分析場跡なのだそうです。「大阪砲兵工廠って何?」恥ずかしながらそれが何なのかを最近まで知りませんでした。

大阪砲兵工廠とはいったい
どういう施設だったのでしょうか。


一般的に大阪砲兵工廠と呼ばれていますが、名称は何度か変わり最終的には大阪陸軍造兵廠となります。明治新政府が発足と同時に設立した兵器工場(主に大砲や弾丸等を製造)で、発足当初から西欧先進諸国の高い技術水準に追いつくため、明治新政府の採算を度外視した投資と諸外国の最新技術が投下されました。その成果は年を追うごとに大きな進歩と発展を遂げていき、兵器以外の金属製品も製造していきます。明治28年、大阪市民に水道の水を供給可能にした鉄管は、高度な鋳造(ちゅうぞう)技術を持った大阪砲兵工廠が製造(約半数は輸入品)。明治時代における日本の製鋼技術、ニッケルやクロームなどの特殊鋼技術のほとんどが大阪砲兵工廠の技術で開発されたといっても過言ではないようです。

第一次世界大戦が始まると、日本には参戦国からの軍需品等の注文が殺到しました。大阪の工業水準は、大阪砲兵工廠の高い技術力と民間企業の研究熱とが相互にうまく作用し、世界水準まで引き上げられていきます。東洋のマンチェスター、東洋一の工業都市大阪の誕生は、大阪砲兵工廠の存在なくしてその発展はなかったかもしれません。

「大阪市100年」より
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明治中期の大阪砲兵工廠の表門です。向こうに見えるのは伏見櫓(やぐら)です。戦時中に焼失して現在はありません。

「大阪砲兵工廠の八月十四日」より
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28センチ榴弾砲(二十八糎砲)です。日露戦争の時に大活躍した大砲です。

「なにわ今昔」より
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昭和7年に撮影されたものです。大阪城の敷地いっぱいに陸軍造兵廠の施設が建ち並んでいます。当時、敷地内は軍事機密だったのでたいへん貴重な写真だと思います。

「日本の技術 大阪砲兵工廠」より
sensya.jpg
国産戦車も昭和2年に完成させています。この写真は量産された八九式中戦車。

「大阪砲兵工廠の八月十四日」より
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昭和18年本部前の分列行進の写真です。奥の高い建物が本館です。

「なにわ今昔」より
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昭和20年8月14日の大空襲の写真です。それまでも何度かの爆撃を受けていましたが損害は軽微でした。この日、大阪に残る最後の目標とされ、集中爆撃を受けます。

「なにわ今昔」より
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この爆撃のあった翌日に終戦を迎えることになりました。

「なにわ今昔」より
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この写真は昭和24年の秋だそうです。大空襲により壊滅的な被害を受けましたが、被害率は約60%で、約4割の機械類は使用可能なものとして残り、戦後民間へ払い下げられました。

「大阪文学散歩」より
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昭和56年出版の本の写真です。取り壊し直前の写真でしょうか。

「大阪砲兵工廠の八月十四日」より
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昭和49年に撮影された本館全景。昭和56年に取り壊されました。

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現在も表門があった場所の近くに残る旧化学分析場。窓には板がはめられ中には入れません。

DSC00460.jpg
表門があった場所です。一枚目の写真と同じ場所です。正面の建物は屋根の形状は変わっていますが昔からある建物のようですね。一枚目の写真と比べると、入口と窓の形状が同じです。ということは、これも明治中頃以前に建てられたもののようですね。

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この建物は○の印の場所です。

hou_001.jpg
地図は「大阪砲兵工廠の八月十四日」より(部分拡大)
ここは昔何だったかというと、便所となっていますね。

大阪城公園内には大阪砲兵工廠の遺構がいくつか残っています。
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ここは大阪砲兵工廠の水門の跡です。材料や製品の輸送は主に水運で行われていました。

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ここには地下壕の跡があります(矢印)。本土決戦に備えて、中部軍管区司令部庁舎(現大阪市立博物館・平成13年閉館)から終戦当時第4司令部庁舎があった現在の豊国神社辺りまで地下壕を掘っていました。

DSC09821.jpg
それが今でも2ヶ所、わずかに見えます。

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ここが元中部軍管区司令部庁舎。

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京橋駅の裏手にある「大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑」。昭和20年8月14日の大空襲で、大阪城に近い京橋駅に1トン爆弾が直撃し、多くの方々が亡くなりました。その霊を弔おうと昭和22年8月14日、森本栄一郎氏が自費で建立された慰霊碑です。

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大阪城公園内に「ピースおおさか・大阪国際平和センター」があります。大阪大空襲や満州事変から日中戦争を経て無条件降伏に至るまでの約15年戦争について、映像や展示物で戦争の悲惨さを伝えてくれます。私も初めて行ったのですが、今の時代がいかに平和かを実感しました。

是非どうぞとは言いにくい所ですが、過去の戦争についてちょっと考えてみるのはいかがでしょうか。

(追記)
P1090139.jpg
旧大阪陸軍刑務所 (旧陸軍大阪衛戍(えいじゅ)刑務所)。

P1090136.jpg
軍法会議で判決を受けた軍人が服役した所だそうです。


大きな地図で見る


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大阪砲兵工廠本館の取り壊し

2009年01月29日 01:15

大阪砲兵工廠本館の取り壊し

昭和56年5月2日、大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう)本館が突然取り壊されました。このニュースは保存を訴える市民団体や調査を指示していた文化庁をも唖然とさせました。このブログで過去の過ちを批判するつもりはありませんが、忘れ去られようとしている事実をネット上に残し、建物の保存とは何かを考える材料にしたいと思っています。
※大阪砲兵工廠については後日に…。

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「昭和56年5月2日の朝日新聞」より

旧本館の取り壊しの指示を出したのは、当時の大阪市公園局長でした。この時代は一旦取り壊しが決まると、その後に保存運動が起きても、文化庁からの調査指示が来たとしても、一切耳を傾けないというやり方だったようです。今の時代では考えられないことです。

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「昭和56年5月2日の朝日新聞」より

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「昭和56年5月11日の朝日新聞」より

さらに、当時は近代建築に対する価値観も今とはかなり違うようで、大阪市議会の不要派の方のコメントにはビックリさせられます。「…要は建物は消耗品、古いものは京都や奈良に残しておけばいい。(中略)だいたい明治、大正の近代建築は西洋のまねごとをした幼稚なものばかりで保存に値しない。(後略)」(朝日新聞より)

ん~。批判はやめておこう。我慢我慢…。

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現在本館があった場所の近くに記念碑があります。向こうに見えるのは大阪城ホールです。

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「空から見た大阪」より
昭和55年頃の航空写真です。写真上部にある施設の手前にあるのが本館です。現在この場所には、森ができグラウンドができ横には大阪城ホールができています。

時が過ぎると過去の過ちは少しずつ忘れ去られていきます。今はきれいな公園になりました。これでよかったのでしょうか?


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