2009年04月02日 08:37
昭和の大阪城天守閣の歴史
昭和2年(1927)、昭和天皇の御大典(ごたいてん)の式典が行われる事が発表され、昭和3年11月にそれが行われました。全国の都道府県市町村では記念事業が行われ、大阪府では大規模な植林事業が行われています。大阪市はこの時たいへんユニークな記念事業を行ったのです。
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関一(せきはじめ)大阪市長は、失われた太閤時代の天守閣を復興しようではないかと提案しました。それも市民に寄付を呼びかけ、建物の中に大阪の歴史を示す歴史資料館にしようというものです。昭和3年2月、大阪市会において満場一致で可決され、8月から市民に寄付金の呼びかけが行われました。当時大阪は経済的に厳しい状況でしたが、この事業は大変な反響を呼び、半年後には目標額の150万円が集まったそうです。一番の大口は住友財閥の住友吉右衛門氏の25万円だったとか。おそらく今のお金に換算するとビックリする額です。
当時の大阪城内は今と違って、軍用地だったので一般市民は入れませんでした。そこに観光客が入ってくるのですから、軍部も簡単にOKとは言いません。しかし昭和天皇の御大典記念事業です。軍部はいくつかの条件を付けて応じざるを得ませんでした。その条件で建てられたのが今も大阪市立博物館として残る第四師団司令本部の本庁舎です。この建設費は募金額の約6割、80万円が使われました。ちなみに天守閣の建設費は約47万円、残りは公園等の整備などに使われたそうです。
昭和6年、市民の寄付でつくられた天守閣は竣工します。しかしこの年、満州事変が勃発、昭和12年には日中戦争に突入します。昭和15年になると大阪城内の規制が厳しくなり、昭和17年には天守閣は軍部に明け渡す事になりました。日本はとても悲しい時代に突入していくことになったのです。

「写された大阪-近代100年のあゆみ」より
天守閣が建築される前の大阪城です。敷地内にびっしり建てられているのは軍の施設です。

「大阪市100年」より
鉄骨が組み上がっています。敷地内は曲がりくねっているので鉄骨等が運び込めません。京橋口からロープウエーをつくって資材を運んだそうです。写真左の鉄骨の柱はそれなのかな?

「大阪市100年」より
かなり組み上がっています。手前の木は桜でしょうか。満開のようですね。まだあるのかな?

「写された大阪-近代100年のあゆみ」より
この建物は陸軍第四師団本部。元々和歌山城にあった紀州御殿を明治中頃に移設したものだそうです。奥に天守閣の鉄骨が見えますね。

「写された大阪-近代100年のあゆみ」より
手前の建物は天守閣と同時期に建てられた陸軍第四師団司令部の本庁舎。本丸内にあったたくさんの倉庫等の建物が全て取り壊され、この新庁舎に移されました。

「大阪市100年」より
竣工です。当時大阪市内で大きな建築物は8階建てくらいでしょうか。この天守閣は高さが55メートル、ビルの高さでいうと12~3階の高さです。また、石垣にはいっさい重量が掛からない工法をとっているそうで、後年耐震性を調べた所、震度7.5程度の大地震でもびくともしないそうです。ビックリだ!

「なにわ今昔」より
竣工当時の大阪城全景です。本丸内は紀州御殿以外の建物は全てなくなっていますね。

「なにわ今昔」より
これは昭和20年8月14日の空襲の写真。天守閣は奇跡的に戦火を免れ、翌日終戦を迎える事になります。

おっ!天守閣の下に桜の木がありました。でも3枚目の写真と比べると場所が違います。残念。

この2つの建物は市民のお金で出来ているんですね。改めて先人の方々に感謝です。

大阪市立博物館は現在閉館中ですが、平松市長は「民間活力を導入した活用を検討 」と「『元気な大阪』をめざす政策推進ビジョン(案)」でおっしゃっています。期待してますよ♪

天守閣に登るのは小学校以来かも…
(おまけ)

大阪城といえば私はこのタイムカプセルを思い出してしまいます。大阪万博の時に埋められましたが、中に入っているものを横の博物館で展示していたのではなかったかな?結構覚えているんですよね。おそらく何度か見ていると思います。2000年に一度開封していたみたい。
『タイム・カプセルEXPO'70』
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昭和2年(1927)、昭和天皇の御大典(ごたいてん)の式典が行われる事が発表され、昭和3年11月にそれが行われました。全国の都道府県市町村では記念事業が行われ、大阪府では大規模な植林事業が行われています。大阪市はこの時たいへんユニークな記念事業を行ったのです。
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関一(せきはじめ)大阪市長は、失われた太閤時代の天守閣を復興しようではないかと提案しました。それも市民に寄付を呼びかけ、建物の中に大阪の歴史を示す歴史資料館にしようというものです。昭和3年2月、大阪市会において満場一致で可決され、8月から市民に寄付金の呼びかけが行われました。当時大阪は経済的に厳しい状況でしたが、この事業は大変な反響を呼び、半年後には目標額の150万円が集まったそうです。一番の大口は住友財閥の住友吉右衛門氏の25万円だったとか。おそらく今のお金に換算するとビックリする額です。
当時の大阪城内は今と違って、軍用地だったので一般市民は入れませんでした。そこに観光客が入ってくるのですから、軍部も簡単にOKとは言いません。しかし昭和天皇の御大典記念事業です。軍部はいくつかの条件を付けて応じざるを得ませんでした。その条件で建てられたのが今も大阪市立博物館として残る第四師団司令本部の本庁舎です。この建設費は募金額の約6割、80万円が使われました。ちなみに天守閣の建設費は約47万円、残りは公園等の整備などに使われたそうです。
昭和6年、市民の寄付でつくられた天守閣は竣工します。しかしこの年、満州事変が勃発、昭和12年には日中戦争に突入します。昭和15年になると大阪城内の規制が厳しくなり、昭和17年には天守閣は軍部に明け渡す事になりました。日本はとても悲しい時代に突入していくことになったのです。

「写された大阪-近代100年のあゆみ」より
天守閣が建築される前の大阪城です。敷地内にびっしり建てられているのは軍の施設です。

「大阪市100年」より
鉄骨が組み上がっています。敷地内は曲がりくねっているので鉄骨等が運び込めません。京橋口からロープウエーをつくって資材を運んだそうです。写真左の鉄骨の柱はそれなのかな?

「大阪市100年」より
かなり組み上がっています。手前の木は桜でしょうか。満開のようですね。まだあるのかな?

「写された大阪-近代100年のあゆみ」より
この建物は陸軍第四師団本部。元々和歌山城にあった紀州御殿を明治中頃に移設したものだそうです。奥に天守閣の鉄骨が見えますね。

「写された大阪-近代100年のあゆみ」より
手前の建物は天守閣と同時期に建てられた陸軍第四師団司令部の本庁舎。本丸内にあったたくさんの倉庫等の建物が全て取り壊され、この新庁舎に移されました。

「大阪市100年」より
竣工です。当時大阪市内で大きな建築物は8階建てくらいでしょうか。この天守閣は高さが55メートル、ビルの高さでいうと12~3階の高さです。また、石垣にはいっさい重量が掛からない工法をとっているそうで、後年耐震性を調べた所、震度7.5程度の大地震でもびくともしないそうです。ビックリだ!

「なにわ今昔」より
竣工当時の大阪城全景です。本丸内は紀州御殿以外の建物は全てなくなっていますね。

「なにわ今昔」より
これは昭和20年8月14日の空襲の写真。天守閣は奇跡的に戦火を免れ、翌日終戦を迎える事になります。

おっ!天守閣の下に桜の木がありました。でも3枚目の写真と比べると場所が違います。残念。

この2つの建物は市民のお金で出来ているんですね。改めて先人の方々に感謝です。

大阪市立博物館は現在閉館中ですが、平松市長は「民間活力を導入した活用を検討 」と「『元気な大阪』をめざす政策推進ビジョン(案)」でおっしゃっています。期待してますよ♪

天守閣に登るのは小学校以来かも…
(おまけ)

大阪城といえば私はこのタイムカプセルを思い出してしまいます。大阪万博の時に埋められましたが、中に入っているものを横の博物館で展示していたのではなかったかな?結構覚えているんですよね。おそらく何度か見ていると思います。2000年に一度開封していたみたい。
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