2008年10月27日 00:05
大坂七墓巡り 千日墓地篇
千日墓地の歴史は古く、大阪落城の時代にさかのぼります。落城後最初の城代として松平忠明(ただあき)が赴任します。忠明は市街整理のひとつとして寺院と墓地の移転廃合を行いました。市中に点在している寺院を小橋村と高津村、天満村に集め、墓地は千日、小橋村、葭原村、濱村、梅田村へ移したのです。特に千日は刑場も置かれ一般の人を遠ざける場所になりました。
ところが明治維新の大変革で、明治3年に刑場が廃止、千日墓地の焼き場と墓地は阿倍野墓地へ移転されることになります。この移転後、千日墓地に広い土地が生まれ、後に大興行街に変貌していくことになります。

「大阪市中地區甼名改正繪圖(日文研)」より
中央に千日墓とあり、その右上に刑バ(刑場)が書かれています。上に竹林寺、法善寺も確認できます。

明治18年測量の地図です。
法善寺、竹林寺の右下辺りに墓地があったようです。中央に「慈安寺」が見えますが、「大阪市中地區甼名改正繪圖」の刑バの東にある「自安寺」です。
明治18年頃、この地には見世物小屋がたくさん出来ています。ただし、まともな建物ではなかったのでしょう。地図には建物らしきものが表記されていません。

昭和6年発行の『上方(10号)』に「摂州西成郡難波領千日墓所」の絵図がありました。
※↓画像内の「西墓地」と「東墓地」の表記が逆になっています。自安寺側が「東墓地」、竹林寺側が「西墓地」です。失礼しました!

どんな場所だったか拡大で見ていきましょう。
入口の黒門は竹林寺の土塀と自安寺の塀に挟まれた場所にあります。黒門を入ってすぐ左に刑場があります。時代劇で見る獄門台が見えます。しかし後年、千日の刑場はあまり使われなくなっていたようです。少し歩くと両側に墓地があり、奥に迎い佛があります。

迎い佛の先に無常の橋があり、左に「六坊」という寺があります。その外壁に六地蔵が見えます。六坊の斜め前に大きな榎の大木でしょうか。榎神社があります。一番奥に焼き場と祭場があり、東奥に灰山がありました。灰山とは焼かれた人骨がうづ高く積み上げられた場所です。この灰山の処分で財を成した老婆の話があったりしますが、それはまた今度。

「上方(10号)」より
黒門の写真です。奥の左側が刑場ですが、高い塀で囲われていたのですね。撮影時期は不明ですが明治維新前後だと思います。黒門の所に笠をかぶった人が座っているようです。何をしているのでしょう。

「ふるさとの想い出写真集 大阪」より
六坊の外壁にある六地蔵の写真です。この六地蔵は墓地が整理された時に外国人に買われたそうです。今はどこにあるのでしょうか。奥に大きな木が見えます。榎の大木でしょうか。ということは木の袂に榎神社があるのでしょう。

「上方(10号)」より
葬儀場(祭場)の写真です。北方面を見ている写真のようです。この葬儀場で儀式が済むと、すぐ裏にある焼き場へ運ばれます。

おおよその位置関係を入れてみました。

現在の地図と場所と重ね合わせてみると…
「Googleマップ」より

こうなります。赤い目印は榎神社があったであろう場所です。黒門があった場所は千日前通の道路のあたりでしょう。

榎神社があったであろう場所に地蔵尊が残っていました。

自安寺の場所には三津寺墓地があります。松林庵となっていますね。絵図の中の西墓地の北側(七)の墓地は松林庵墓地と記されていました。

かなり古そうな墓石があります。

奥に無縁塚がありました。

竹林寺です。この寺は法善寺と共に千日回向を続けていたので千日寺とも呼ばれていました。

千日寺の前の道なので千日前と呼ぶようになったと一般的に言われていますが、千日墓地内にあった六坊こと千日山安養寺(※安樂寺とも書かれていた)の前だからという説もあります。
この商店街を北に行くとすぐに道頓堀です。途中に法善寺があります。

法善寺横丁の入口です。この奥に、

水掛不動さんと金比羅さんがあります。いつもお参りの人でいっぱいですね。
(おまけ)

千日墓地にあった迎え佛が移転先の阿倍野墓地に残っていました。

左側の迎え佛と

右側の迎え佛です。
(追記)

自安寺の夜店「明治大正図誌」より
自安寺は「千日前の妙見さん」の名前で親しまれ、とくに「夜店」は「大阪の三夜店」の一つに数えられ、昭和初期まで続いていたそうです。千日墓地の入口は以外と賑やかな場所だったようですね。
夜店ではないですが、朝からお参りで賑わう自安寺が「浪花百景」に描かれていました。
『自安寺妙見宮朝参の図(初代 長谷川貞信)』
http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/kakudai.php?ID=191&partsid=0
(関連記事)
『大阪駅ができる前は墓地があった』 2008.03.01
『初代大阪駅の場所』 2008.03.03
『大坂七墓 南浜墓地』 2008.09.08
『大坂七墓 蒲生墓地』 2008.10.16
『大坂七墓巡り1』 2008.10.22
『大坂七墓巡り2』 2008.10.24
『大坂七墓巡り 千日墓地』 2008.10.27
『さよなら千日前・竹林寺』 2009.02.09
『大阪七墓・梅田墓地・飛田墓地の跡のあと』 2010.07.26
『大阪七墓・葭原墓地の沖向地蔵尊』 2010.07.28
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千日墓地の歴史は古く、大阪落城の時代にさかのぼります。落城後最初の城代として松平忠明(ただあき)が赴任します。忠明は市街整理のひとつとして寺院と墓地の移転廃合を行いました。市中に点在している寺院を小橋村と高津村、天満村に集め、墓地は千日、小橋村、葭原村、濱村、梅田村へ移したのです。特に千日は刑場も置かれ一般の人を遠ざける場所になりました。
ところが明治維新の大変革で、明治3年に刑場が廃止、千日墓地の焼き場と墓地は阿倍野墓地へ移転されることになります。この移転後、千日墓地に広い土地が生まれ、後に大興行街に変貌していくことになります。

「大阪市中地區甼名改正繪圖(日文研)」より
中央に千日墓とあり、その右上に刑バ(刑場)が書かれています。上に竹林寺、法善寺も確認できます。

明治18年測量の地図です。
法善寺、竹林寺の右下辺りに墓地があったようです。中央に「慈安寺」が見えますが、「大阪市中地區甼名改正繪圖」の刑バの東にある「自安寺」です。
明治18年頃、この地には見世物小屋がたくさん出来ています。ただし、まともな建物ではなかったのでしょう。地図には建物らしきものが表記されていません。

昭和6年発行の『上方(10号)』に「摂州西成郡難波領千日墓所」の絵図がありました。
※↓画像内の「西墓地」と「東墓地」の表記が逆になっています。自安寺側が「東墓地」、竹林寺側が「西墓地」です。失礼しました!

どんな場所だったか拡大で見ていきましょう。
入口の黒門は竹林寺の土塀と自安寺の塀に挟まれた場所にあります。黒門を入ってすぐ左に刑場があります。時代劇で見る獄門台が見えます。しかし後年、千日の刑場はあまり使われなくなっていたようです。少し歩くと両側に墓地があり、奥に迎い佛があります。

迎い佛の先に無常の橋があり、左に「六坊」という寺があります。その外壁に六地蔵が見えます。六坊の斜め前に大きな榎の大木でしょうか。榎神社があります。一番奥に焼き場と祭場があり、東奥に灰山がありました。灰山とは焼かれた人骨がうづ高く積み上げられた場所です。この灰山の処分で財を成した老婆の話があったりしますが、それはまた今度。

「上方(10号)」より
黒門の写真です。奥の左側が刑場ですが、高い塀で囲われていたのですね。撮影時期は不明ですが明治維新前後だと思います。黒門の所に笠をかぶった人が座っているようです。何をしているのでしょう。

「ふるさとの想い出写真集 大阪」より
六坊の外壁にある六地蔵の写真です。この六地蔵は墓地が整理された時に外国人に買われたそうです。今はどこにあるのでしょうか。奥に大きな木が見えます。榎の大木でしょうか。ということは木の袂に榎神社があるのでしょう。

「上方(10号)」より
葬儀場(祭場)の写真です。北方面を見ている写真のようです。この葬儀場で儀式が済むと、すぐ裏にある焼き場へ運ばれます。

おおよその位置関係を入れてみました。

現在の地図と場所と重ね合わせてみると…
「Googleマップ」より

こうなります。赤い目印は榎神社があったであろう場所です。黒門があった場所は千日前通の道路のあたりでしょう。

榎神社があったであろう場所に地蔵尊が残っていました。

自安寺の場所には三津寺墓地があります。松林庵となっていますね。絵図の中の西墓地の北側(七)の墓地は松林庵墓地と記されていました。

かなり古そうな墓石があります。

奥に無縁塚がありました。

竹林寺です。この寺は法善寺と共に千日回向を続けていたので千日寺とも呼ばれていました。

千日寺の前の道なので千日前と呼ぶようになったと一般的に言われていますが、千日墓地内にあった六坊こと千日山安養寺(※安樂寺とも書かれていた)の前だからという説もあります。
この商店街を北に行くとすぐに道頓堀です。途中に法善寺があります。

法善寺横丁の入口です。この奥に、

水掛不動さんと金比羅さんがあります。いつもお参りの人でいっぱいですね。
(おまけ)

千日墓地にあった迎え佛が移転先の阿倍野墓地に残っていました。

左側の迎え佛と

右側の迎え佛です。
(追記)

自安寺の夜店「明治大正図誌」より
自安寺は「千日前の妙見さん」の名前で親しまれ、とくに「夜店」は「大阪の三夜店」の一つに数えられ、昭和初期まで続いていたそうです。千日墓地の入口は以外と賑やかな場所だったようですね。
夜店ではないですが、朝からお参りで賑わう自安寺が「浪花百景」に描かれていました。
『自安寺妙見宮朝参の図(初代 長谷川貞信)』
http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/kakudai.php?ID=191&partsid=0
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