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大阪神戸西宮・空襲戦災状況地図

2012年07月11日 02:00

空襲の戦災概況図

戦争が終わって67年、最近の若者は戦争に対する知識も少なく関心も薄いのだそうです。という私自身も戦争を知らない世代、親世代も当時は小さい子供だったので戦争の記憶はあまりないようで、もしかすると思っている以上に戦争の風化が進んでいるのかもしれません。
そんなことを考えている時に、たまたま見ていた国立公文書館のデジタルアーカイブで空襲の戦災状況を記録した地図を見つけました。とても興味深かったので紹介したいと思います。


国立公文書デジタルアーカイブ・戦災概況図大阪
sensai_000.jpg
これは大阪市内の戦災概況図です。大阪の空襲は3月13・14日、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日と計8回の空襲があり、1万人以上の方が亡くなったと言われています。

「一億人の昭和史」より
kusyu_umeda.jpg
この写真は6月7日の空襲で毎日新聞社から撮った写真だそうです。手前が桜橋周辺で、奥に阪急百貨店が写っている。ビックリだが建物から煙が出ています。やはり被害を受けていたのですね。

戦災概況図大阪・色分けデータ(Evernote)
sensai_001.jpg
これは空襲の被害を色分けしてみました。元の地図の赤版がズレているようなので色版も少しズラしました。大きい画像をEVERNOTEにアップしています。ちなみに黄(3/13.14)、赤(6/1)、青(6/7)、緑(6/15)です。

sensai_002.jpg
現在の地図に重ねてみました。「大阪府空襲被害状況」によると、大阪への全空襲の被害は
被災家屋・344,240戸、被災者・1,224,533人、死者・12,620人、
重軽傷者・31,088人、行方不明・2,173人

国土変貌アーカイブ・十三上空sensai_004.jpg
昭和23年(1948)の十三と大阪駅上空からの写真です。まだ焼け跡が更地のまま残っているところがたくさんある。

「一億人の昭和史」より
kusyu_juso.jpg
これは6月8日、空襲の翌日の十三大橋の風景です。普通に通勤しているのに驚かされますが、おそらく電車が止まっているのでしょう。写真の右側が阪急電車側で右奥が十三駅方面です。ほとんどの建物が焼けてしまっています。

国土変貌アーカイブ・大阪駅上空
sensai_006.jpg
昭和23年(1948)の大阪駅上空からの写真。街の中心部には建物が建ち出している。

国土変貌アーカイブ・難波上空
sensai_003.jpg
昭和23年(1948)の難波上空からの写真です。西側の更地が目立つ。靱公園がまだ飛行場の形をしていますね。

国立公文書デジタルアーカイブ・戦災概況図堺
sensai_sakai.jpg
堺市も被害が大きかったです。

国土変貌アーカイブ・堺上空
sensai_005.jpg
昭和23年(1948)の堺市上空からの写真ですが、まだほとんどが更地のまま。唖然としてしまう状況です。

国立公文書デジタルアーカイブ・戦災概況図伊丹
sensai_itami.jpg
伊丹市の戦災概況です。

国立公文書デジタルアーカイブ・戦災概況図吹田
sensai_suita.jpg
吹田市の戦災概況です。

国立公文書デジタルアーカイブ・戦災概況図池田
sensai_ikeda.jpg
池田市の戦災概況です。

国立公文書デジタルアーカイブ・戦災概況図布施
sensai_fuse.jpg
布施の戦災概況です。

国立公文書デジタルアーカイブ・戦災概況図岸和田
sensai_kishiwasda.jpg
岸和田市の戦災概況です。

国立公文書デジタルアーカイブ・戦災概況図尼崎
sensai_amagasaki.jpg
尼崎市の戦災概況です。

国立公文書デジタルアーカイブ・戦災概況図西宮
sensai_nishinomiya.jpg
西宮市の戦災概況です。
国土変貌アーカイブ・西宮上空1
国土変貌アーカイブ・西宮上空2

国立公文書デジタルアーカイブ・戦災概況図神戸
sensai_kobe.jpg
神戸市の戦災概況です。
国土変貌アーカイブ・神戸上空1
国土変貌アーカイブ・神戸上空2

国立公文書デジタルアーカイブ・戦災概況図京都
sensai_kyoto.jpg
京都市の戦災概況です。

阪神間でいうと、神戸市、西宮市はほとんど壊滅状態、尼崎も被害が大きかった事がよくわかります。これから暑い季節になってくると戦争関連の報道が増えてくるかもしれません。戦争は決して風化させてはいけないこと。戦争のことを少しでも考えるきっかけになればうれしいです。


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国土変遷アーカイブ空中写真閲覧
一般戦災ホームページ】 総務省


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焼き場に立つ少年

2008年07月03日 00:00

焼き場に立つ少年


おそらく私の人生で一番印象に残った写真かもしれません。


September_1945_02.jpg
撮影:ジョー・オダネル( Joseph R O'Donnell ) 撮影場所:長崎(1945年) 


撮影者ジョー・オダネルのコメントを是非読んでください。


佐世保から長崎に入った私は、
小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は
当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。
しかも裸足です。

少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、
焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年の
まだあどけない頬を赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に
血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年があまりきつく噛み締めている為、
唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、
沈黙のまま焼き場を去っていきました。

(インタビュー・文 上田勢子)
「写真が語る20世紀 目撃者」(1999年・朝日新聞社)より抜粋



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(関連サイト)
BS-i 原爆の夏 遠い日の少年
~元米軍カメラマンが心奪われた一瞬の出会い~


「焼き場に立つ少年」の写真を長崎新聞社より寄贈

実写 映画『火垂るの墓 -ほたるのはか- 』公式ホームページ
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大阪大空襲

2008年06月13日 02:00

大阪大空襲 十三が焼けた日

第二次世界大戦が終わって63年。私たちの住む十三・塚本地区も昭和20年の6月7日、15日に猛爆撃を受け、町の大半が焼き尽くされました。炎の中を逃げまどった悪夢のような体験を、「空襲体験記」として昭和60年に十三地域広報委員会が冊子にまとめています。その中から、体験記を少しだけ紹介したいと思います。

文章の途中ですがクリック。→ [人気ブロランキング]
いつもクリック ありがとうございます。


「あたり一面火の海、人の叫び声」
MTさん(当時21歳・女性)

罹災地 十三西之町1丁目
罹災日 昭和20年6月7日、15日

当時、私の家は岡崎牧場の裏にあり、朝夕牛の鳴き声を聞き、生まれ育ちました。父は昭和17年に亡くなり、妹は縁故疎開して、家にいたのは母と私と弟2人の4人でした。昭和20年6月7日朝9時、各隣組長宅に配給のうどん玉券を配って事務所に帰った時、空襲警報発令と同時にB29の爆音、いつもとちがう様子に、家に待避のつもりでとんで帰れば、すでに便所、座敷などに焼夷弾があちこちと落ちて燃え出していました。慌てて母と弟2人と近所の方と外に出ると、あたり一面もう火の海、防空壕も燃え、次々と家が燃えてゆきます。警防団員が「堤防へ逃げろ」と言うが、道中が火の海でどうにも行けないので、十三公園の方へ、その公園も火の海、しかたなく引き返して成小路小学校(国民学校)前の橋の下へ避難、そこも家が倒れて来て火の海。途中母ともはぐれて、弟2人連れて、堤防の方へと急ぎました。当時の淀川は堤防下まで葦がはえていました。どこも火の海、人の叫び声、今思ってもよく逃げられたと思います。いまだに当時の夢を見ます。一生忘れられません。

堤防まで5分で行けるのに、その時は2時間かかり、堤防の上では艦載機の奇襲、次から次から人が倒れてゆきます。皆堤防下の葦の中へ中へと、水につかりながら川ぶちへ進む。黒い雨が降ってあたりは真っ暗です。3歳の弟が仮死状態のように眠り込むので、一緒にいたおばさんが金平糖を弟にたべさせて、眠らせないように元気づけて下さった。葦の水の中で3時間、やっと解除。皆の顔は真っ黒だが、やれやれと家の方を見ると一面丸焼け、近所の人も着のみ着のまま、ただ茫然と立ちつくしていました。弟が家に「帰ろ、帰ろ」と泣きだしたので、ふと我にかえり焼け跡に帰りましたが、私の生まれ育った21年の思い出なつかしい家も何もなく、ただ泣けるばかりでした。ただ戦争の恐ろしさを身をもって感じました。

隣のおばさんは背中に背負った赤ちゃんが死んでいるのも知らず焼け跡に帰ってはじめて気がつき、泣き叫びました。ほんとうにお気の毒でした。焼けだされた私たちは一週間北野中学におりました。水が出ないのでプールの水を使用、飲み水にきたないとも思いませんでした。(後略)



juso_02.jpg
「蘇るわが街」より
赤い部分が戦災地域です。十三の町はほとんど焼けてしまいました。

kusyu_map_04.jpg
「あの日あの時」より
十三東地域の詳しい戦災状況です。十三駅から堤防にかけての被害が大きかったようです。善久寺にはたくさんのご遺体が集められ、火葬されました。

juso_01.jpg
「ふるさとの想い出写真集」より
6月7日の十三駅です。空襲のため阪急電車も全面ストップしましたが、夕方に神戸線のみ運転が再開されました。写真は、運転再開に押し寄せたたくさんの人達が写っています。ホームの下に防空壕が作られています。

juso_03.jpg
「あの日あの時」より
6月7日の空襲の翌日の写真です。阪急電車が不通のため十三大橋をたくさんの人が徒歩で通勤しています。

kusyu_map_06.jpg
「蘇るわが街」より
昭和17年の航空写真です。左端は塚本地域です。まだ空地が残っています。十三地域は民家が密集しています。

kusyu_map_07.jpg
昭和23年の米空軍が撮影した航空写真です。一面焼け野原です。

kusyu_map_05.jpg
「Googleマップ」より
参考までに現在の地図と場所を重ね合わせてみました。区画がかなり変わりました。

taiken.jpg
空襲体験記 あの日あの時
「コミュニティ十三」別冊
昭和60年7月10日
十三地域広報委員会編集
十三地区各種公共団体連合会発行

たいへん貴重な体験談が書かれています。ご興味のある方は、図書館でお探しください。



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大阪大空襲と市電

2008年06月08日 00:30

大阪大空襲と市電

昭和16年12月8日、日本はアメリカ、イギリス軍と戦争状態に入りました。市民生活は戦時色一色にぬりつぶされます。衣料、食料、生活品などは配給制に、男子は国民服にゲートル、戦闘帽、女性はエプロン、モンペ姿と、挙国一致の態勢がかたちづくられました。

昭和20年3月13日午後11時20分過ぎ、大阪市を初めての大空襲が襲います。浪速区、西区、南区、港区、大正区、東区、西成区、天王寺区と、市内中心部が黒々とした焦土と化しました。6月1日正午、今度は市内北西部が集中攻撃を受けます。第一回の大空襲より規模がはるかに大きかったそうです。6月7日午前11時10分、市内北東部、都島区、大淀区、旭区、東淀川区が狙われました。この日、十三地域も焼け野原になりました。さらに6月15日と続き、その後8月14日まで空襲は繰り返されました。そして、終戦の8月15日を迎えることになります。

kuu_021.jpg
十三地域での応召(おうしょう)の様子です。家族や地域の人達に見送られて戦地に向われたのですね。右の壁は北野中学(北野高校)の壁です。地元の応召風景の写真ははじめて見ました。貴重なお写真です。

kuu_19.jpg
「子どもたちの昭和史」より
昭和17年頃の紙芝居の様子です。この写真は大阪ではありませんが、見物人は、小学生くらいまでの子どもと老人ばかりです。働きざかりの人達は戦地か工場に行っています。

kuu_23.jpg
「子どもたちの昭和史」より
本土爆撃は始まると、いなかがある子どもは縁故疎開をし、いなかがない子どもは学校ごと空襲のない地方に集団疎開をしました。何ヶ月も親元を離れるのはとてもつらかったのだと思います。

kuu_16.jpg
「子どもたちの昭和史」より
この防空壕は床があって上等なのだそうです。背中が土にふれないように、炭だわらがつるしてあります。電球もありますね。

kuu_22.jpg
「子どもたちの昭和史」より
こちらは家の中に掘られています。すぐに逃げ込めますが、家が焼けてしまうと大変です。

kuu_01.jpg
「なにわ今昔」より
「日本の家は木と紙でできている」。そこでアメリカ人は、燃やすことに注目したわけです。ヨーロッパなどは石と土で出来ているので壊すしかありません。大型爆撃機B29が放つ焼夷弾(しょういだん)は、火の砲弾なのだそうです。

kuu_03.jpg
「大阪市100年より」
B29から大量に落とされた焼夷弾は、火の雨のように降りそそぎ、家々を燃やしていきました。

kuu_06.jpg
「なにわ今昔」より
住民達は火を消すために必死です。消火ポンプとホースで食い止めようとしています。

kuu_12.jpg
「なにわ今昔」より
6月1日の爆撃です。中央右に大阪城が見えます。その下が中之島です。福島の辺りから煙が出ているように見えます。

kuu_02.jpg
「大阪市100年より」
この写真も6月1日だそうです。大阪港からすごい煙が出ています。現在は天保山マーケットプレースや海遊館がある場所です。次から次から焼夷弾が落ちていきます。

kuu_13.jpg
「なにわ今昔」より
こちらは6月7日の写真だそうです。燃えているのは福島区の倉庫群だそうです。すごい煙です。

kuu_07.jpg
「なにわ今昔」より
桜橋の辺りです。住民は逃げずに火を消そうとしているのでしょうか。ハシゴを担いでいます。

kuu_14.jpg
「なにわ今昔」より
路上で焼けた市電。運行中に空襲が来たのかもしれません。

kuu_18.jpg
「昭和の大阪」より
焼け野原になった市内です。縦の道路が御堂筋、横の川は長堀川です。大丸とそごうが焼け残っています。左中央上のビルは四つ橋の電気科学館です。ここも焼け残りました。ただ木造の家屋は全滅です。ポツポツと土蔵だけが残っています。

kuu_15.jpg
「なにわ今昔」より
3月14日の御堂筋です。最初の大空襲の翌日です。旧イトマンビル屋上から撮影されています。左の焼け跡は北御堂です。何も残っていません。

kuu_10.jpg
「大阪市営交通創業100年」より
港区の辺りだそうです。市電が走っています。まだ戦時中の写真のようです。この焼け野原の中を走る市電ってすごいと思います。

kuu_11.jpg
「大阪市営交通創業100年」より
続きの写真です。後ろにも反対行きでしょうか。市電が確認できます。

kuu_20.jpg
「子どもたちの昭和史」より
終戦を迎え戦地からお父さんが帰ってきました。ドラマではよく見るシーンですが、リアルな写真を見ると胸が熱くなります。子どもが直視しているのが印象的です。


(関連サイト)
『デジカメ散歩日記ー大阪大空襲』 TOSSY
大阪大空襲の記録はこちらで見れます。
『おおさか市内で戦争と平和を考える』


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