2009年01月26日 16:00
「三丁目の夕日」の時代の大阪
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」は、高度経済成長が始まろうとしていた昭和33年(1958)頃のお話です。今から50年前、私たちが住んでいる大阪はどんな街だったのでしょうか。ちょうどその年に発行された「大阪府 新風土記 1958」を見ながら当時を振り返ってみたいと思います。
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まず当時(昭和30年頃)の地図を見てみました。

最初に気付くのは、路面電車がまだ市内で活躍していたということ。そして高速道路がまだできていません。西横堀川もまだありますね。

「大阪府 新風土記 1958」より
大阪駅前広場です。車がたくさん並んでいますね。初代クラウンらしき車も見えます。当時はまだ歩道橋がありません。通勤の人達は道路を渡っています。信号はあるようです。あたりまえか ^^;
ん?左の階段が何でしょう?

アップにしてみました。改札口に向かう階段でしょうか。左の建物は3代目の大阪駅です。こっち側にも改札があったのかな?

「大阪府 新風土記 1958」より
左が市庁舎、右が日銀です。左上に「みおつくしの鐘」が見えます。道路の真ん中に路面電車の線路が見えますね。まだ高い建物が少ない時代です。正面は石原ビルディングですね。
石原ビルディングに関してはこちら
『石原時計店の「建物語」』 のりみ通信

「大阪府 新風土記 1958」より
橋は淀屋橋です。市電が走ってます。右の屋根がアールになった建物はフェスティバルホールです。その奥が新朝日ビル。ちょうど建設中ですね。後ろの煙はどこの工場からだろう?
関連記事
「いも虫と呼ばれた市電」

「大阪府 新風土記 1958」より
ここは大阪駅前の梅田繊維街です。繊維街というと丼池(どぶいけ)が有名ですが、ここは新興の繊維問屋街です。えらい賑わっていそうですね。
関連記事
「大阪駅前の歴史(8) 梅田繊維街移転篇」

「大阪府 新風土記 1958」より
ここは松屋町。大阪的には「まっちゃまち」ですね。当時は玩具だけでなく駄菓子問屋も多くあったようです。
大阪市の商業の特色は問屋の比重が大きいことでした。道修町の薬問屋、松屋町の玩具・菓子問屋、谷六の機械問屋、空堀の工具・鉄線問屋、日本橋のラジオ部品問屋、丼池の繊維問屋など今でもその名残が残っていますね。
「ALWAYS 続・三丁目の夕日」では日本橋が東京タワーにかわるシンボルでした。大阪の中心地に高速道路が建設されたのは昭和38・39年頃です。その時代の写真も探してみました。

「阪神高速道路写真集 いまとむかし」より
この写真は昭和38年頃です。まだ堂島川や東横堀川に高速道路が架かっていません。空が広かった時代です。中央に見える高い塔は大阪控訴院ですね。その左は堂島ビルディングです。

「阪神高速道路写真集 いまとむかし」より
堂島川と東横堀川に高速道路の工事が進んでいるのが見えます。川の上に作るのが一番都合がいいんですよね。でも空から見るとそれ以外に作る場所はないか。

「阪神高速道路写真集 いまとむかし」より
堂島川に高速道路の橋脚が出来上がってきてます。当時はあまり反対運動とかはなかったのかな。昭和39年は東京オリンピックの年なので、日本中が湧いていた時代ですね。
大阪の中心部から高速道路がなくなる日が、またいつか来るのでしょうか?
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映画「ALWAYS 三丁目の夕日」は、高度経済成長が始まろうとしていた昭和33年(1958)頃のお話です。今から50年前、私たちが住んでいる大阪はどんな街だったのでしょうか。ちょうどその年に発行された「大阪府 新風土記 1958」を見ながら当時を振り返ってみたいと思います。
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まず当時(昭和30年頃)の地図を見てみました。

最初に気付くのは、路面電車がまだ市内で活躍していたということ。そして高速道路がまだできていません。西横堀川もまだありますね。

「大阪府 新風土記 1958」より
大阪駅前広場です。車がたくさん並んでいますね。初代クラウンらしき車も見えます。当時はまだ歩道橋がありません。通勤の人達は道路を渡っています。信号はあるようです。あたりまえか ^^;
ん?左の階段が何でしょう?

アップにしてみました。改札口に向かう階段でしょうか。左の建物は3代目の大阪駅です。こっち側にも改札があったのかな?

「大阪府 新風土記 1958」より
左が市庁舎、右が日銀です。左上に「みおつくしの鐘」が見えます。道路の真ん中に路面電車の線路が見えますね。まだ高い建物が少ない時代です。正面は石原ビルディングですね。
石原ビルディングに関してはこちら
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「大阪府 新風土記 1958」より
橋は淀屋橋です。市電が走ってます。右の屋根がアールになった建物はフェスティバルホールです。その奥が新朝日ビル。ちょうど建設中ですね。後ろの煙はどこの工場からだろう?
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「大阪府 新風土記 1958」より
ここは大阪駅前の梅田繊維街です。繊維街というと丼池(どぶいけ)が有名ですが、ここは新興の繊維問屋街です。えらい賑わっていそうですね。
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「大阪府 新風土記 1958」より
ここは松屋町。大阪的には「まっちゃまち」ですね。当時は玩具だけでなく駄菓子問屋も多くあったようです。
大阪市の商業の特色は問屋の比重が大きいことでした。道修町の薬問屋、松屋町の玩具・菓子問屋、谷六の機械問屋、空堀の工具・鉄線問屋、日本橋のラジオ部品問屋、丼池の繊維問屋など今でもその名残が残っていますね。
「ALWAYS 続・三丁目の夕日」では日本橋が東京タワーにかわるシンボルでした。大阪の中心地に高速道路が建設されたのは昭和38・39年頃です。その時代の写真も探してみました。

「阪神高速道路写真集 いまとむかし」より
この写真は昭和38年頃です。まだ堂島川や東横堀川に高速道路が架かっていません。空が広かった時代です。中央に見える高い塔は大阪控訴院ですね。その左は堂島ビルディングです。

「阪神高速道路写真集 いまとむかし」より
堂島川と東横堀川に高速道路の工事が進んでいるのが見えます。川の上に作るのが一番都合がいいんですよね。でも空から見るとそれ以外に作る場所はないか。

「阪神高速道路写真集 いまとむかし」より
堂島川に高速道路の橋脚が出来上がってきてます。当時はあまり反対運動とかはなかったのかな。昭和39年は東京オリンピックの年なので、日本中が湧いていた時代ですね。
大阪の中心部から高速道路がなくなる日が、またいつか来るのでしょうか?
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