2009年02月13日 07:00
大阪が「大大阪」になる前

中之島にある大阪市立東洋陶磁美術館の前に、関一(せきはじめ)氏の銅像があります。その脇の石碑にはこのようなことが刻まれています。「…博士の業績には枚挙にいとまありません 市域の拡張を断行し 都市計画を樹立して 近代都市大阪の基礎をつくりました…」 大阪の近代史を語る上で絶対に外せない人物、「関一」とはどういう人だったのでしょう。
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大正2年、第6代大阪市長に元大阪府警察部長の池上四郎氏が就任します。池上氏は自分の不足を補い得る専門知識と能力を持つ人材を探していました。そして白羽の矢が立ったのが、当時東京高等商業学校(現一橋大学)の教授であった関一氏です。大学側は学生も含めて大反対をしました。しかし関氏は決断します。それは学者としての蓄積した学識を大阪市政を通して実践し、自らの学問を発展させようと考えたからです。
大正3年7月、大阪市高級助役に転じた関氏は、まず行きづまっていた港湾事業を進捗させ、市街電車の拡充に努めました。さらに市営住宅など社会施設の充実も図っていきます。しかし大阪市は全国の商工業中心地にもかかわらず、近代都市としての機能が乏しく、道路の未整備や衛生問題、住宅問題など課題が山積み状態でした。そんな中、大正10年に「第一次都市計画」が内閣の認可を受けます。これには梅田-難波間を結ぶ幅約44メートルの御堂筋も計画されていたのです。

「大阪市100年」より
関氏は41歳という若さで助役に就任しました。この写真は市長3選目の頃でしょうか。

「大阪市パノラマ地図」より
このパノラマ地図は大正12年頃を描いています。「大大阪」が大正14年から始まるのでその直前の大阪の風景ですね。この場所はたいへん興味深い場所で、右上に市民館、手前に乳児院と左に産院など大阪市の社会事業が描かれています。大正7年の米騒動後、大阪市は職業紹介所や市営住宅の建設など社会事業を積極的に展開していきました。それらは関氏の献策によりところが大きかったようです。

「大阪市100年」より
北区に市民館が設立されたのは大正10年です。大阪市社会事業の拠点でした。後に北市民館に改称されます。現在の住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」がある場所です。

「大阪市廳舎新築記念帖」より
市民館が設立された同じ年に新庁舎も竣工しています。それまでは堂島に市庁舎がありました。

「なにわ今昔」より
堂島にあった頃の大阪市庁舎です。関氏が助役に就任した頃はこの場所で手腕を発揮していました。前の川は蜆(しじみ)川ではなく、梅田入堀に繋がる川です。

大正3年の大阪市内詳細図(日文研)です。
堂島の旧市庁舎の場所は現在のどこだかわかりますか。

堂島庁舎があった場所には石碑が残されています。

NTTテレパーク堂島の一画に旧庁舎はありました。ちなみに右手の道路沿いに蜆川が流れていました。

「大阪市100年」より
大阪市中央公会堂が竣工したのは大正7年です。後の大大阪成立を祝う大祝賀会もここで行われました。

「大阪市の100年」より
大正12年、貸室専用として堂島ビルが開業しています。この時代からどんどん近代的なビルディングが建築されていきます。手前は旧大江橋です。

左のビルが堂島ビル。市電が淀屋橋で曲がっていますね。
(予告編)

ここは淀屋橋です。手前の橋が淀屋橋、市電の前の自動車の左手にある道が淀屋橋筋です。数年後、ここに幅約44メートルの道路ができます。
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中之島にある大阪市立東洋陶磁美術館の前に、関一(せきはじめ)氏の銅像があります。その脇の石碑にはこのようなことが刻まれています。「…博士の業績には枚挙にいとまありません 市域の拡張を断行し 都市計画を樹立して 近代都市大阪の基礎をつくりました…」 大阪の近代史を語る上で絶対に外せない人物、「関一」とはどういう人だったのでしょう。
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大正2年、第6代大阪市長に元大阪府警察部長の池上四郎氏が就任します。池上氏は自分の不足を補い得る専門知識と能力を持つ人材を探していました。そして白羽の矢が立ったのが、当時東京高等商業学校(現一橋大学)の教授であった関一氏です。大学側は学生も含めて大反対をしました。しかし関氏は決断します。それは学者としての蓄積した学識を大阪市政を通して実践し、自らの学問を発展させようと考えたからです。
大正3年7月、大阪市高級助役に転じた関氏は、まず行きづまっていた港湾事業を進捗させ、市街電車の拡充に努めました。さらに市営住宅など社会施設の充実も図っていきます。しかし大阪市は全国の商工業中心地にもかかわらず、近代都市としての機能が乏しく、道路の未整備や衛生問題、住宅問題など課題が山積み状態でした。そんな中、大正10年に「第一次都市計画」が内閣の認可を受けます。これには梅田-難波間を結ぶ幅約44メートルの御堂筋も計画されていたのです。

「大阪市100年」より
関氏は41歳という若さで助役に就任しました。この写真は市長3選目の頃でしょうか。

「大阪市パノラマ地図」より
このパノラマ地図は大正12年頃を描いています。「大大阪」が大正14年から始まるのでその直前の大阪の風景ですね。この場所はたいへん興味深い場所で、右上に市民館、手前に乳児院と左に産院など大阪市の社会事業が描かれています。大正7年の米騒動後、大阪市は職業紹介所や市営住宅の建設など社会事業を積極的に展開していきました。それらは関氏の献策によりところが大きかったようです。

「大阪市100年」より
北区に市民館が設立されたのは大正10年です。大阪市社会事業の拠点でした。後に北市民館に改称されます。現在の住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」がある場所です。

「大阪市廳舎新築記念帖」より
市民館が設立された同じ年に新庁舎も竣工しています。それまでは堂島に市庁舎がありました。

「なにわ今昔」より
堂島にあった頃の大阪市庁舎です。関氏が助役に就任した頃はこの場所で手腕を発揮していました。前の川は蜆(しじみ)川ではなく、梅田入堀に繋がる川です。

大正3年の大阪市内詳細図(日文研)です。
堂島の旧市庁舎の場所は現在のどこだかわかりますか。

堂島庁舎があった場所には石碑が残されています。

NTTテレパーク堂島の一画に旧庁舎はありました。ちなみに右手の道路沿いに蜆川が流れていました。

「大阪市100年」より
大阪市中央公会堂が竣工したのは大正7年です。後の大大阪成立を祝う大祝賀会もここで行われました。

「大阪市の100年」より
大正12年、貸室専用として堂島ビルが開業しています。この時代からどんどん近代的なビルディングが建築されていきます。手前は旧大江橋です。

左のビルが堂島ビル。市電が淀屋橋で曲がっていますね。
(予告編)

ここは淀屋橋です。手前の橋が淀屋橋、市電の前の自動車の左手にある道が淀屋橋筋です。数年後、ここに幅約44メートルの道路ができます。
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