十三のいま昔を歩こう

戦前の十三(じゅうそう)を描いたイラストマップを元に、下町十三周辺を歩く歴史ブログです。

2008年

05月15日

(木曜日)

阪急梅田駅の歴史 2

阪急梅田駅の歴史 2 省線切替工事篇

阪急電鉄の大阪市内高架乗入線は大正11年に敷設許可を得て、大正15年に建設されました。この頃は省線(現JR)の高架線はまだ設計ができておらず、工事時に何の命令も条件もありませんでした。ところが昭和6年6月、大阪改良事務所長から高架改築が決定したので阪急線を降下すべしとの通達が届いたのです。

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この通達には、その工事にかかる費用は阪急側で負担するようにともなっていました。これに対し、今一応の考慮を申し出ましたが解決できず、日数だけが過ぎて行きます。世論は阪急側が無理難題を要求して高架を阻止していると誤解するようになります。昭和8年8月、上田副社長が直接鉄道本省に出向き大槻監察官と解決案を協議し、ようやく円満な解決になりました。

この歴史的な工事は昭和9年5月末日に実施されました。最終列車が通過後、2時間足らずで厄介な曲線分岐起動を連絡し、そして砂利を敷き固め、電線路を整備し、神戸線は予定より1時間も早く試運転しています。全ての作業は予定より15分も早く終了し鉄道省側に引継がれました。鉄道省側も7ヵ所の軌道切替えなど、作業は順調に進みます。こうして昭和9年6月1日、夜を徹した上下切替の大工事は無事終了し、省線は高架の大阪駅から、阪急は地上の梅田駅から、それぞれ第一列車が数千人の工事関係者の歓声とともに発車して行きました。

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切り替え工事直前の写真 「大阪駅の歴史」より
阪急の高架ホームは約8年の短命でした。この場所は後に阪急グランドビルになる場所です。地平線ホームは昭和40年代後半まで利用されていました。

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昭和9年5月31日まで、阪急が高架、省線が地平でした。

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昭和9年6月1日、省線が高架に、阪急が地平に変わりました。

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工事直前の写真 「阪急電車 駅めぐり」より
手前を走るのは阪急電車です。向こうにガーター(橋桁)が見えます。これが押し出されて手前の線路と繋がるのだと思います。

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工事の陣頭指揮をする小林一三氏 「阪急電車青春物語」より
1月に社長を辞任し、会長に就任しています。61歳です。宝塚線からの一番電車に乗られたそうです。

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切り替え工事直後の写真 「大阪駅の歴史」より
旧阪急線の上を省線の高架が繋がり、その左前方に旧省線の上に新しく出来た阪急線が確認できます。

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6月1日の新装の地上ホーム 「阪急電車 駅めぐり」より
ホームの向こうに省線の高架下が見えます。この下を通過して行くんですね。



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2008年

05月12日

(月曜日)

阪急梅田駅の歴史 1

阪急梅田駅の歴史 1

阪急電鉄の歴史を語る上で、梅田駅の変貌を抜きに語ることはできません。明治43年の開業以来、約100年の間に数々の変化がありました。その中には鉄道史でも有名な国鉄との高架線切換工事などもあります。私なりに阪急梅田駅の歴史を追っていきたいと思います。

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第一期(1910年頃〜1914年頃)
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明治43年(1910)、開業時の初代梅田駅です。
梅田駅変貌の図面は「阪急電車 駅めぐり」と「私鉄駅物語」の2つに掲載されているのですが、微妙に違うので、「私鉄駅物語」の方を参考に書き起こしました。この当時は国鉄ではなく、官設鉄道で地上に線路がありました。当時の箕面有馬電気軌道は官設鉄道の上を高架で渡っていました。

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(A) 初代梅田駅ビル 「電鉄時代の幕開け」より
木造の二階建てです。左の低い屋根の部分がホームです。当時の梅田駅は発着線が一本で、到着した電車が折返し発車しないと次の電車が入線できず、不便だったようです。

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(B) 明治43年頃の写真です。 「古写真なにわ風景」より
左の建物が梅田駅の駅舎です。正面に見えるのが大阪市電の車庫です。現在と区画が変わっていますが富国生命ビルの辺りになります。この写真、雪が降った後のようですね。屋根や地面にうっすらと雪が残っています。

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(B) 大正2年頃の梅田駅 「鉄道ピクトリアル」より
駅舎の屋根に「日本一の箕面動物園」の看板を掲げています。左の人が集まっている所は切符売り場でしょうか。


第二期(1914年頃〜1920年頃)
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大正3年(1914)、複線ホームに拡張。駅舎も長くなっています。降車と乗車を分離し、ホームの中間に渡り線を設けて同時発着を可能にしました。当時の写真が無いのですが、上の写真に増築した感じではないかと想像しています。

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大正3年頃の大阪市内詳細図
官設鉄道の線路を高架で越えた場所に梅田駅を設けたのは、今から考えると大正解ですね。この場所は大阪市とかなり交渉を重ねてようやく許可された経緯があります。



第三期(1920年頃〜1926年頃)
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大正9年(1920)、神戸線開通に伴い、4線ホームに拡張しています。

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(C) 第3期時代の梅田駅 「阪急電車 駅めぐり」より
大正9年11月に5階建てのビルが開業しています。一階を白木屋に貸し、売店で雑誌、雑貨、食料品等を販売していました。2階には直営の食堂があり、その上の階は事務所として使用していました。ちなみに大正7年に社名を阪神急行電鉄と改称しています。

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阪急マーケットを開設 「阪急電車のすべて」より
大正14年6月、白木屋との賃貸契約が満了したため、1階を新たに停留所の出入口に使用し、2階3階を直営のマーケットとして開業、2階にあった食堂は4階、5階に拡張しました。

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大正12年頃 「大阪市パノラマ地図」より
2代目大阪駅との乗り継ぎが便利な場所にあることがわかりますね。高架部分もよくわかりますね。市電の車庫がこんな場所にあったんですね。

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大正10年頃 「阪急電車 駅めぐり」より
秋の行楽客で賑わう梅田駅の写真だそうです。奥に2代目の大阪駅が見えます。



第四期(1926年頃〜1934年頃)
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大正15年(1926)、大阪市内高架線化により梅田駅も高架化することになります。

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(D) 大正14年10月頃の高架ホーム工事の様子 「阪急電車のすべて」より
奥に見える線路は省線です。右の車両が高架を上っていこうとしていますね(帰ってきたのかな?)。まだ高架ホームが完成する前ですので、北野線ではありません。大正15年に地上に残った線を利用して北野線が開通します。

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(E) 大正14年11月頃の高架ホーム 「阪急電車のすべて」より

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(F) 3代目にあたる梅田駅阪急ビル 「鉄道ビクトリアル」より
ホームの高架工事後、梅田ビルは建て替えられます。昭和2年11月に起工、地上8階、地下2階のビルディングが昭和4年3月28日に竣功しました。やっと見覚えのある建物が出てきましたね。4月15日阪急百貨店として大阪の百貨店界に颯爽と姿を現すことになりました。

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「古写真なにわ風景」より
この写真も昭和4年頃でしょうか。ちょうど大阪駅の前の辺りから撮影されています。大阪市電の車庫の建物は無くなっていますね。



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2008年

05月09日

(金曜日)

知ってるつもり 阪急電車

知ってるつもり?! 阪急電車 

大阪ー舞鶴間を走る阪鶴鉄道(現JR福知山線)は、明治39年に公布された鉄道国有法によって国家に買収されることになりました。社長他数名は新たに発起人となり、阪鶴鉄道が支線として許可を得ていた池田ー大阪間の路線を生かし、電気鉄道の設立を計画することになります。しかし、日露戦争後の好景気の反動で株価が急落し、発行株の約半数が失権株となってしまい、株主からも会社の解散を迫られることになってしまいました。

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当時、阪鶴鉄道の監査役に就任していた小林一三氏は、阪鶴鉄道が国有化になって解散したので、精算人として阪鶴鉄道の本社に出社しており、重役会議に出席することもあったようです。一三氏は計画路線を2度ほど往復しており、沿線に住宅地を開発すればウマくいくと考えていました。そして、三井銀行時代の上司であり、北浜銀行頭取の岩下清周氏に相談し支援を取り付けます。その後、一三氏は発起人達に全権を任してもらえるように説得しています。「金銭上の責任は全部私が負担します。万一解散する場合は株主に対して一文たりとも御損はかけません。」当時33歳です。度肝が据わった方です。そして郷里の知人達に株式の引受をお願いして回り、不足株を北浜銀行が引受け会社設立に着手しました。

明治40年10月19日、創立総会が開催され社名を箕面有馬電気軌道株式会社に改めました。明治41年8月、大阪梅田―宝塚間と箕面支線の工事の認可申請を行い、10月に認可されると早速着工、明治43年3月10日、梅田―宝塚間と箕面支線が開通しました。

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小林一三 (阪鶴鉄道監査役時代) 「電鉄時代の幕開け」より 
若い!凄過ぎ!

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明治43年3月10日、開業日の梅田停留所 「阪急電車駅めぐり」より
見覚えのある写真ではないでしょうか。阪急電車の歴史を語る上で必ずと言っていいほど紹介される写真です。右に電車が写っています。アーチのモサモサは何でできているんでしょうか。

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明治43年頃の梅田停留所 「阪急電車駅めぐり」より
開業時の装飾を取るとこの姿になるのですね。

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明治43年頃の神崎川橋梁を走る1型電車 「阪急電車駅めぐり」より

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明治43年の開業時の宝塚停留所 「阪急電車駅めぐり」より
見づらいですが手前に電車が写っています。ここでもモサモサで装飾されています。

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宝塚停留所 「電鉄時代の幕開け」より

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明治43年の開業時の箕面停留所 「阪急電車駅めぐり」より
こちらもモサモサですね。

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明治43年11月 箕面動物園正面 「阪急電車駅めぐり」より
「園の広さは三万坪、だらだら坂を曲りまがって中央の広場には余興の舞台がある。数十町の道に沿うて動物舎がある。渓流の一端を閉じて池を造り、金網を張った大きい水禽舎には数十羽の白鳥が高く舞う。」「逸翁自叙伝」より

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明治43年11月 箕面動物園 象の曲芸 「阪急電車駅めぐり」より
この動物園、大正5年には廃止されています。自然環境を生かした猛獣舎が軽微な地震でも亀裂等が起こり、万一のことを考え廃止したようです。一三氏も自叙伝で失敗について語っています。


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